進化の種
エイリワスが姿を消したあとも、その場には重苦しい空気が残っていた。
誰もすぐには動けなかった。つい先ほどまで目の前にいた存在が、本当に現実だったのかと疑いたくなるほどの圧倒的な威圧感。だが、その沈黙を破ったのは、小さな咳き込む音だった。
「ごほっ……ごほっ……」
安室が地面に膝をつき、苦しそうに喉を押さえている。首には赤黒い手形が残り、呼吸もまだ乱れていた。
「安室さん!」
エデンはすぐに駆け寄り、肩を支える。
「立てますか?」
安室は苦しそうに何度か咳をすると、小さく頷いた。
「……はい....何とか」
しかし、その声には力がなかった。
流鹿も周囲を見回し、安全を確認すると近くにいた職員へ指示を飛ばす。
「医療室や!すぐ診てもらうで!」
職員は慌てて通信機を取り出し、医療班へ連絡を入れる。
数分後、エデンたちは安室を支えながらアモリス支部の医療室へ向かった。
白を基調とした静かな病室。消毒液の匂いが漂う室内には、規則正しく医療機器の電子音が響いている。安室はベッドへ腰掛け、首には冷却用の湿布が当てられていた。医師による診察も終わり、命に別状はないとのことだった。それを聞いて、全員がようやく胸を撫で下ろす。エデンはベッドの横まで歩み寄る。安室の顔色は少し戻っていた。それでも、その表情には疲労が色濃く残っている。エデンは静かに尋ねた。
「安室さん」
「大丈夫ですか?」
安室はゆっくり顔を上げた。無理に笑顔を作る。
「大丈夫です」
短い返事だった。
だが、その言葉とは裏腹に──
ベッドの上へ置かれた両手は、小刻みに震えていた。自分でも止めようとしているのだろう。強く握り締めても、その震えは収まらない。首を締め上げられた恐怖。巨大な口へ飲み込まれそうになった恐怖。そして、あの冷たい瞳を間近で見た恐怖。身体はまだ、あの瞬間から抜け出せていなかった。
エデンはその震える手を見てしまう。言葉では「大丈夫」と言っていても、本当は全く大丈夫ではない。それが痛いほど伝わってきた。
「……」
何の言葉を掛ければいいのか分からない。軽い慰めでは届かない気がした。
すると、隣にいた亜爆が静かに口を開く。
「今日はもう何も考えなくていいです」
「ゆっくり休んでください」
その穏やかな声に、安室は少しだけ表情を緩めた。
「……ありがとうございます」
それでも、手の震えだけは止まらなかった。ジエルはその様子を見つめながら、拳を強く握る。
(エイリワス……あいつはいつもこうだ)
人の心を壊すことに何の躊躇もない。エイリワスへの怒りを必死に押さえ込みながら、ジエルは静かに息を吐いた。流鹿は病室の窓から夜空を見上げる。
「三日後、か……」
静かな呟きだった。宣戦布告。それはただの脅しではない。エイリワスは本気でこの街を襲うつもりだ。残された時間は、あと三日しかなかい。
数分後、病室には静かな時間が流れていた。
安室はベッドに寝ていて、ようやく呼吸も落ち着き始めている。ECOの医療班からも安静にするよう告げられ、部屋には先ほどまでの緊迫感は少しだけ薄れていた。しかし、誰の心からもエイリワスの姿は消えていなかった。特にジエルは、病室の壁をぼんやりと見つめたまま、一言も口を開いていない。拳だけが、ぎゅっと握られている。
「なんなんだ……」
ぽつりと呟く。その声に、エデンたちが視線を向けた。ジエルはゆっくりと顔を上げる。
「進化の種って……」
エイリワスが口にした、その言葉。頭の中で何度も反芻する。その瞬間だった。
「……っ!」
ジエルが突然顔をしかめた。片手で頭を押さえ、苦しそうによろめく。
「ジエル!」
エデンが慌てて支える。ジエルは額に汗を浮かべながら、苦しそうに息を吐いた。
「……なんだ、これ……」
頭の奥がずきりと痛む。
「なんか……くそ……」
ジエルは歯を食いしばった。
「やっぱりだ……」
「なんか、おかしい……」
その様子を見た流鹿は表情を引き締める。
「どうしたんや、ジエル君」
肩へ手を置き、落ち着いた声で問い掛ける。
「頭が痛むんか?」
ジエルは何度か深呼吸をしながら頷いた。
「ああ……思い出そうとすると……頭が割れそうになる」
「何か……忘れてる」
「すげぇ大事なことを……」
エデンは心配そうにジエルを見つめる。この苦しみ方は明らかに普通ではない。エデンは静かに言った。
「ジエルも休んだら?」
「今日は色々ありすぎたし」
「無理して思い出そうとしなくていいよ」
ジエルは悔しそうに拳を握る。
「でも……このままだと……」
「きっと無理に思い出そうとしても逆効果です」
亜爆が穏やかな口調で言葉を続ける。
「人間の記憶は、不思議なものです」
「考え続けても思い出せないのに、何気ないきっかけで急に思い出すこともあります」
「今日は寝ましょう」
「身体も頭も、一度休ませた方がいいです」
病室は静かになる。ジエルはしばらく俯いたままだった。やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
納得したというより、自分でも限界を感じていた。これ以上考えても、頭痛がひどくなるだけだ。流鹿も安心したように頷く。
「それでええ」
「三日後まで時間はある」
「今は身体を休めるんが一番や」
その言葉に、全員が静かに頷いた。
夜も更け、アモリス支部は静けさに包まれていた。
隊員たちもそれぞれの部屋へ戻り、明かりの消えた廊下には足音一つ響かない。ジエルも自室へ戻っていた。部屋へ入ると、制服を脱ぎ捨てるように椅子へ掛け、そのまま机の前へ腰を下ろす。だが、落ち着くことはできなかった。頭の中では、今日一日の出来事が何度も繰り返されている。
エイリワス。宣戦布告。父親の身体。
そして――。
「進化の種……」
小さく呟く。その言葉を口にしただけで、胸の奥がざわつく。思い出せそうで思い出せない。何かを知っているはずなのに、その記憶だけが霧の中へ隠されている。
「……くそ」
ジエルは頭を掻きむしる。机の上には、いつも身に着けている青いはちまきがあった。汗を吸い込み、少し湿っている。
「少し頭冷やすか……」
そう呟き、浴室へ向かう。温かい湯が肩へ流れ落ちる。今日の疲れが少しずつ流されていく。それでも、頭の中だけは静かにならなかった。シャワーを浴びながらも、エイリワスの声が耳に残る。
『ジエル・レート、今のきみは──』
『進化の種を知らないということか』
「今のきみは」という言葉、今までにジエル自身が進化の種を知っていたかのような言い方
「やっぱり俺は知ってんのか?……」
ジエルは目を閉じる。思い出そうとする。しかし、何も思い浮かばなかった。ジエルはすぐに考えるのをやめる。深呼吸を一つして、シャワーを止める。浴室には水滴が落ちる音だけが響いていた。風呂から上がると、部屋は昼間より少し涼しく感じられた。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、ジエルは冷蔵庫から水を取り出して一気に飲み干す。喉を潤しても、胸の中のもやもやは晴れない。机の上には青いはちまきが置かれたままだ。何気なく視線を向ける。
「……」
少しだけ見つめたあと、明かりを消した。部屋は薄暗くなり、窓から差し込む月明かりだけが床を照らしている。ジエルはベッドへ倒れ込むように横になった。柔らかな布団に身体を預けても、目はなかなか閉じない。天井を見つめながら、また考えてしまう。
進化の種。エイリワスによる三日後の襲撃。仲間を殺すという脅し。
様々な言葉が頭の中で入り乱れ、まとまらない。
「……考えても仕方ねぇか」
小さく呟く。
ジエルはゆっくりと目を閉じた。疲労は思っていた以上に溜まっていたらしい。意識は少しずつ沈み、やがて深い眠りへと落ちていく。静かな部屋には、規則正しい寝息だけが響いていた。




