やるべきこと
ジエルの問いを聞いたラベンダーは、すぐには答えなかった。眼鏡の奥の瞳を細め、静かにジエルの様子を観察する。その姿は、まるで患者を診る医師のようでもあり、未知の現象を前にした研究者のようでもあった。やがて、小さく口を開く。
「基本的には、使わないように気を付ける……冷静に戦うことが大事だ」
「感情に任せて能力を引き出そうとすれば、その黒い電気は反応しやすくなるだろう」
ジエルは眉をひそめる。
「冷静に……」
ラベンダーは頷く。
「きみの能力は、運動によって電気を蓄積する能力だ」
「本来なら、自分で動きを調整し、蓄積量を管理できる」
「しかし、過剰適応が始まった今は違う」
「無理に出力を上げようとすると、発動してしまうだろうからね」
その言葉を聞き、エデンはクロウ島での出来事を思い返す。エイリヤカが亜爆へ刀を振り下ろそうとした、あの瞬間。ジエルは仲間を助けたい一心で、限界を超えて踏み込んだ。訓練場でもそうだった。流鹿に勝とうと、いつも以上に身体を動かし、力を引き出そうとしていた。どちらも共通している。
「……焦ってる」
エデンが小さく呟く。
ラベンダーは視線をエデンへ向けた。
「その通り」
「極限状態で"もっと速くもっと強くと能力を無理に引き出そうとした時」
「過剰適応が反応している可能性が高い」
「つまり、今のきみに必要なのは出力ではない」
ラベンダーは再びジエルを見る。
「制御だ」
ジエルは黙ってその言葉を聞いていた。制御。今までの自分に最も足りなかったものかもしれない。強くなりたい。勝ちたい。仲間を守りたい。その気持ちが先走るたび、自分は無意識に能力を限界以上まで引き出そうとしていた。ラベンダーは穏やかな口調のまま続ける。
「もちろん、これは一時的な対処法に過ぎない」
「いずれは黒い電気も扱えるようにならなければならないだろう」
その言葉にジエルが顔を上げる。
「扱えるようになるのか」
「可能性はある」
ラベンダーは断言はしなかった。
「過剰適応は能力の進化ではなく、適応の深化だ」
「ならば、使用者がその状態へ適応できれば、制御できる日も来るかもしれない」
「ただし」
ラベンダーの表情が少しだけ厳しくなる。
「今はまだ、その段階ではない」
「今のきみが黒い電気を積極的に使おうとすれば、自滅する危険の方が大きい」
「だから焦らないこと」
「能力を抑え、身体と精神を慣らしていく」
「それが現時点で最善の答えだ」
ジエルはしばらく黙っていた。そして、大きく息を吐く。
「……分かった」
その返事には、いつもの勢いはなかった。だが、その代わりに覚悟があった。今の自分は、まだ黒い電気を使う資格がない。ならば、まずは制御する力を身につける。それが、自分にできる最初の一歩なのだと、ようやく理解できた。ジエルが静かに頷くと、ラベンダーはその様子をしばらく見つめていた。その瞳は、研究者として対象を観察するものではなく、一人の若者の成長を見守るような穏やかな眼差しへと変わっていた。部屋には再び静かな時間が流れる。
地下深くにある特別独房は、外の世界とは切り離されたような静寂に包まれていた。聞こえるのは換気設備の低い駆動音と、誰かが小さく息を吐く音だけだった。ラベンダーは静かに椅子へ深く腰掛け直し、机の上で組んでいた手をゆっくりほどく。そして、少しだけ遠くを見るような目をして口を開いた。
「もし……黒い電気の対処法を見つけることが出来れば別だがね……」
その言葉に、ジエルは思わず顔を上げた。エデンも亜爆も、その続きを待つようにラベンダーを見つめる。対処法。その一言だけで、わずかな希望が胸に灯った。しかしラベンダーは静かに首を横へ振る。
「残念ながら、その方法はまだ分かっていない」
「少なくとも、私の知る限りではね」
その声音には誤魔化しも、慰めもなかった。分からないものは分からない。長年ラベジニウムを研究してきた第一人者だからこそ、軽々しく答えを口にはしない。
「過剰適応そのものは研究してきた」
「だが、きみのような現象は非常に珍しい」
「研究とは、未知を知ることだ」
「だから私にも、まだ知らないことは多い」
ラベンダーは小さく笑みを浮かべる。その笑みは、自分の無知を恥じるものではなく、まだ解き明かされていない謎に向ける研究者らしいものだった。
「まぁ今は制御することに集中した方がいいだろう」
「答えを急げば急ぐほど、能力は制御を失う」
「まずは自分自身を理解することだ」
ジエルは静かにその言葉を胸へ刻み込む。黒い電気を無理に使おうとはしない。まずは今まで通り能力を扱い、自分自身を見失わないこと。それが今、自分にできる最善なのだ。
「…....色々教えてくれてありがとうな」
自然とその言葉が口をついて出た。
ラベンダーは軽く肩をすくめる。
「礼を言われるようなことはしていない」
「私は知っていることを話しただけだ」
その姿はどこまでも飾らなかった。
エデンも一歩前へ出る。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。亜爆も静かに一礼した。
「貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました」
ラベンダーは三人を順番に見つめた。まだ若く、未熟ではある。それでも、それぞれが自分の力と向き合い、前へ進もうとしている。そんな姿が少し眩しく見えたのか、眼鏡の奥で目を細めた。
「君たちなら、大丈夫だろう」
「焦らず、一歩ずつ進みなさい」
その言葉は研究者ではなく、一人の人生の先輩としての助言だった。流鹿は壁にもたれ掛かっていた身体を起こし、軽く手を振る。
「ありがとな、ラベンダーさん助かったわ」
「また分からんことがあったら世話になるで」
ラベンダーは苦笑する。
「出来れば、私の世話にならない方が平和だけどね」
流鹿は声を出して笑った。
「それもそうやな」
そのやり取りを見て、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。しかしカルアだけは終始無表情だった。腕を組んだまま壁際に立ち、全員を静かに見渡している。やがて懐中時計を取り出し、時間を確認すると短く告げた。
「面会時間は終わりだ」
その一言で全員が現実へ引き戻される。エデンたちは改めてラベンダーへ頭を下げた。ラベンダーも椅子に座ったまま、小さく手を上げる。
「気を付けて帰るといい」
「また会う時は、良い報告を期待している」
その言葉を最後に、一行は部屋を後にした。重厚な鉄扉がゆっくりと閉じていく。閉まる直前、エデンはもう一度だけ部屋の中を振り返った。ラベンダーはすでに机へ向かい、積み重ねられた資料へ視線を落としている。まるで先ほどまでの会話が夢だったかのように、再び研究者としての日常へ戻っていた。ガシャン、と重い施錠音が地下通路へ響く。カルアは無言のまま歩き出す。その背中を追うように、エデンたちも特別収容エリアの長い廊下を歩き始めた。左右に並ぶ鉄扉は相変わらず沈黙を守っている。地下の空気は冷たく、足音だけが規則正しく反響していた。やがて階段を上り、地上階へ戻る。一歩、一歩と階段を上るたびに空気が少しずつ暖かくなっていく。最後の扉が開かれた瞬間、外から吹き込んできた風がエデンたちの頬を撫でた。
眩しい陽の光に思わず目を細める。地下の閉ざされた空間にいたせいか、青空がいつも以上に広く感じられた。エデンは大きく息を吸い込む。冷たい地下とは違う、生きた空気が肺いっぱいに広がる。ジエルも空を見上げながら、自分の右手をゆっくり握った。黒い電気は現れない。それでも、今までとは違う感覚があった。恐れるだけだった力に、向き合う方法が少しだけ見えた気がしたのだ。流鹿は刑務所の巨大な建物を振り返り、軽く手を叩く。
「ほな、支部へ戻ろか」
その声に三人は頷く。アモリス刑務所で得たものは答えではない。だが、確かな道標だった。それぞれが新たな課題を胸に抱きながら、エデンたちは静かにアモリス刑務所を後にした。




