ラヴァンデ・ラベンダー
重厚な鉄扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。金属が擦れる鈍い音が地下通路に響き、その音が止むと同時に、部屋の中の様子が少しずつ見えてきた。そこは独房というより、小さな研究室のようだった。壁も床も無機質な灰色。家具らしいものは最低限しか置かれていない。簡素なベッドが一つ。壁際には机と椅子。本棚には何冊もの分厚い本が隙間なく並び、そのほとんどが何度も読み返されたのか、角が擦り切れている。机の上には何枚もの紙が広げられ、びっしりと数式や図が書き込まれていた。
部屋の中には、想像していたような凶悪な犯罪者の姿はなかった。静寂に包まれた空間。その中央、机に向かって一人の人物が椅子に腰掛けていた。年齢は五十代ほどだろうか。茶色の髪はところどころ伸び、手入れも十分とは言えない。それでも不潔という印象はなく、長年研究に没頭し続けた者特有の無頓着さを感じさせた。
身体には何度も繕われた跡のある白衣を羽織っている。白かったはずの布は年月と共に色褪せ、袖口や裾は擦り切れていた。細い銀縁の眼鏡を掛け、その奥にある瞳は驚くほど穏やかだった。その人物は、一冊の分厚い本を読んでいた。
扉が開く音にも慌てる様子はない。ゆっくりとページを閉じ、本を机の上へ置く。それから静かに顔を上げ、部屋へ入ってきた一行へ視線を向けた。最初に目が合ったのは流鹿だった。
「ああ……」
どこか懐かしそうに目を細める。
「盤上流鹿……」
その声には敵意も驚きもない。何度か顔を合わせたことがあるような、そんな自然な呼び方だった。そして、その視線は流鹿の後ろへ移る。エデン。ジエル。亜爆。三人を順番に眺める。観察するようでもあり、品定めするようでもない。
ただ純粋な興味を抱いている研究者の目だった。
「……そこの三人は誰かな?」
穏やかな問いだった。流鹿は一歩前へ出る。
「今日はこの子らを連れてきたんや」
そう言って、まずエデンの肩を軽く叩く。
「エデン君」
次にジエルへ視線を向ける。
「ジエル君」
そして最後に亜爆を紹介する。
「亜爆君」
三人はそれぞれ軽く会釈した。流鹿は改めて三人へ振り返る。
「ほんで」
少しだけ表情を引き締める。
「この人が、ラベジニウムを最初に発見した第一人者」
流鹿は敬意を込めてその名を口にした。
「ラヴァンデ・ラベンダーさんや」
エデンたちは無意識に目の前の人物を見つめた。この人物が、ラベジニウムという、人類の歴史を変えた鉱石を最初に発見した研究者。
そして、違法研究によって投獄された男。エデンが想像していた姿とはあまりにも違っていた。もっと狂気じみた人物を想像していた。もっと危険な目をした男だと思っていた。しかし目の前にいるのは、どこにでもいそうな穏やかな学者だった。ラベンダーは三人の視線に気付いたのか、小さく笑みを浮かべる。
「初めまして」
その挨拶もごく自然だった。
「私はラベンダー」
「こんな場所だから握手はできないけれど、よろしく」
まるで大学の研究室に客人を迎える教授のような口調だった。ジエルは思わず小声で呟く。
「……ほんとに犯罪者なのか?」
その声は小さかった。しかしラベンダーには聞こえていたらしい。くすり、と小さく笑う。
「そう思うのも無理はない」
「実際、私は犯罪者だからね」
否定もしない。言い訳もしない。ただ事実として受け入れているような言い方だった。その落ち着きが、かえって不思議な空気を生み出していた。
カルアは扉のすぐ横に立ったまま、一切表情を崩さない。腰には拳銃。片手はいつでも抜ける位置に添えられている。部屋の空気が少しでも変われば、すぐに動くつもりなのだろう。そんな緊張感を知ってか知らずか、ラベンダーは机の上に置いてあった紙を丁寧に重ね、椅子に座り直した。
「さて……」
眼鏡の位置を軽く直し、三人へ視線を向ける。その瞳だけは、先ほどまでとは少し違っていた。穏やかさは変わらない。だが、その奥に研究者としての鋭い好奇心が宿る。未知を前にした学者の目。
「君たちは」
「何を聞きに来たのかな?」
部屋は再び静寂に包まれる。誰から話し始めるべきか、一瞬だけ迷いが生まれた。すると流鹿が一歩前へ出て、ジエルの肩に手を置く。
「今日は、この子のことについて聞きたいんや」
「能力のことで、ちょっと普通やない現象が起きてな」
ラベンダーは興味深そうに頷いた。
「普通ではない現象……」
その言葉を小さく繰り返しながら、視線をジエルへ向ける。
「詳しく聞かせてもらえるかな」
その言葉を受け、ジエルは少しだけ息を吐いた。
「俺の能力は発電機って能力だ」
「動けば動くほど電気を身体に溜められる」
「溜まった電気は攻撃にも使えるし、その間は身体能力も上がる」
ラベンダーは黙って頷く。一言も口を挟まず、続きを促すように視線だけを向けていた。
ジエルは拳を握る。思い出すのは、クロウ島や訓練場で起きたあの現象だった。
「だけど、この前からおかしくなった」
「戦ってる途中で身体から黒い電気が漏れ始めたんだ」
「最初は少しだけだったけど、気付いたらどんどん増えていって」
ジエルの表情が曇る。
「あとはもう……勝手だった。あの黒い電気が急に暴発して」
「俺自身が吹き飛ばされた」
部屋の中が静かになる。エデンも亜爆も口を挟まない。ラベンダーだけがゆっくりと眼鏡を押し上げた。
「なるほど」
短く呟く。そして質問を重ねる。
「その黒い電気は、自分の意思で出したわけではないのかな」
「いや」
ジエルは首を横に振る。
「出そうと思って出したわけじゃねぇ」
「気付いたら出てた」
「止めようとしても止まらなかった」
ラベンダーはさらに尋ねる。
「その時、身体能力はどうだった」
ジエルは少し考える。
「……上がってた気はする」
「でも、正直それどころじゃなかった」
「身体が変な感じで」
「能力に振り回されてるみたいだった」
ラベンダーは机の上に指を置き、一定のリズムで軽く叩き始める。部屋にはその小さな音だけが響いていた。やがてラベンダーは再び口を開く。
「発電機」
「運動エネルギーを電気へ変換する能力」
「そして、その電気を放出、あるいは身体強化へ利用する」
「そういう認識で間違いないかな」
「合ってる」
ジエルは即答する。
ラベンダーは満足そうに頷いた。
「ありがとう」
「能力の構造は理解できた」
再び沈黙が流れる。ラベンダーは椅子にもたれ、目を閉じた。そのまま数十秒。誰も口を開かなかった。流鹿だけは腕を組み、静かに様子を見守っている。カルアも壁際から一歩も動かない。やがてラベンダーは目を開いた。
「十中八九、過剰適応だが……」
その一言でエデンたちの表情が引き締まる。ラベンダーは続けた。
「おそらく使い方が悪いのだろうね」
「……え」
ジエルは思わず聞き返す。
「使い方?」
ラベンダーは穏やかに頷いた。
「能力そのものが暴走しているわけではない」
「君が能力を扱い切れていない可能性が高い」
ジエルは眉をひそめる。
「俺は今までずっと同じ使い方をしてきたぞ」
「急にこんなことになるなんておかしいだろ」
「もちろん、おかしい」
ラベンダーは否定しない。
「だからこそ興味深い」
その目がわずかに細くなる。研究者としての好奇心が、静かに顔を覗かせた。
「一つ聞こう」
「君は最近、能力の出力を以前より上げようとしたことはないかな」
ジエルは少し考えた。クロウ島でのエイリヤカとの戦い。流鹿との特訓。限界以上の動きを何度も繰り返してきた。
「……ある」
「強くなろうとして、前より動き回るようにはなった」
ラベンダーは静かに頷く。
「なるほど」
「では仮説は立てられる」
エデンも思わず前のめりになる。
「何が分かったんですか」
ラベンダーは制御の出来ない過剰適応への仮説を話そうとしていた。




