嫌な戦い方
エデンの左足に巻き付いたストリングが、ぴんと張り詰めたまま震えていた。流鹿の足首を捉えた黒い線は、床すれすれを這うように伸びている。ほんの少しでも強く引けば、足を取れるかもしれない。少なくとも、相手の重心を乱すきっかけにはなる。だが、流鹿ほどの相手に対して、単純に「引っ張る」だけで通るとはエデンも思っていなかった。
エデンは流鹿を真正面から見据えたまま、左足を後ろへ引いた。左足が後ろへ下がる、その瞬間。エデンはストリングを引かなかった。代わりに、リミットストリングの長さを伸ばした。ぴたりと張っていた黒い線が、目に見えないほど僅かにだけ緩む。エデンが後ろへ下がった分だけ、本来なら縮まるはずの距離を、逆に少しだけ延ばして相殺したのだ。だから、見た目には完全に「引きにいった」ように見えるのに、実際には流鹿の足は一切引っ張られていない。
だが、そんな内側の操作を知らなければ、反応はひとつしかない。流鹿は足を引かれると判断した。
「……!」
一瞬で重心が変わる。引っ張られる前提で、流鹿が足を引く。足首を持っていかれないよう、絡め取られた側の脚に力を入れ、逆方向へ重心を逃がす。いわば、綱引きの相手が全力で引いてくると読んだ時の踏ん張りだ。
だが――実際には、引っ張られていない。ストリングは緩んでいる。抵抗するべき力が存在しないまま、流鹿だけが引かれる前提で足を引いた。その結果、支えに使うはずだった重心が一瞬だけ空を切る。
ほんのわずか、流鹿の身体が前へ倒れそうになる。
「っ!」
エデンの目が鋭く細まる。今だ。
流鹿の上体がほんの少し前へ流れる。その重心のズレを見逃さず、エデンは床を蹴った。左足を引いた反動をそのまま前への踏み込みに変える。フェイントのために下げたはずの足が、次の瞬間には突進の起点になる。
流鹿の身体が立て直される前に、攻め切る。
訓練場の空気が一気に張り詰めた。ジエルも亜爆も、思わず息を呑む。ただの力比べではない。引くと見せて引かない。ストリングの伸縮そのものをフェイントに使い、相手の反応だけを誘い出す。これまでのエデンなら思いつきもしなかった駆け引きだった。流鹿の口元に、驚きと面白さが入り混じった笑みが浮かぶ。
「……そこまでやるか」
エデンは腹の底から声を絞り出すと同時に、右腕に力を叩き込む。
「リミットフォース!」
筋肉が悲鳴を上げる。流鹿が体勢を立て直すより早く、エデンの拳が前へ走る。変に軌道を散らすでもなく、フェイントを混ぜるでもない。ここまで積み重ねた駆け引きで流鹿の重心を乱した上で、最後は最短距離の一撃を叩き込む。それが今のエデンに出せる、いちばん速く、いちばん重い答えだった。
拳が流鹿の胴へめり込む。鈍く重い音が訓練場に響いた。空気が震える。エデンの拳が触れた瞬間、流鹿の上半身が大きくしなる。服越しでも分かるほど衝撃が通り、足元がわずかに床を削るように滑った。今まで何度も流され、いなされ、受け止められてきた中で、初めて止められずに入った感触が、エデンの拳に確かに返ってくる。
「……っ!」
流鹿の口から、短い息が漏れた。直撃。完全に入った。
ジエルが目を見開き、思わず叫ぶ。
「入った!!」
亜爆もわずかに息を呑む。訓練場の端にいた二人の表情が、はっきりと変わる。それほどまでに、今の一撃は重かった。
もし相手が普通のエイリ星人だったならもう立っていられなかっただろう。リミットフォースで極限まで押し上げた拳撃は、それだけの威力を持っている。身体能力の拡張を一点に集中させた打撃は、単純な破壊力だけならエデンの手札の中でも上位だ。防御の薄い相手なら、そのまま吹き飛び、下手をすれば消し飛んでいてもおかしくない。
だが――相手は流鹿だった。Sランク隊員。エデンの拳をまともに受けながらも、流鹿は倒れない。
身体は大きく後ろへ押し込まれた。脇腹のあたりに拳をめり込ませたまま、床を二歩、三歩と滑る。それでも踏みとどまる。脚が沈み、床を軋ませ、衝撃を逃がしながら、流鹿は最後まで崩れ切らなかった。
「っ、ぐ……」
低く息を漏らしながら、流鹿はそのまま数歩分の距離を取る。訓練場に短い静寂が落ちた。
エデンは肩で息をしながら、自分の拳を見た。
当たった。確かに通した。しかもただの偶然じゃない。足元のフェイントで重心を崩し、その隙に最短で打ち込んだ、自分で作った一撃だ。これまでの攻防全部を繋げて、ようやく届いた打撃だった。
流鹿は片手で自分の腹を押さえる。
そこに痛みがあるのは明らかだった。いつもの余裕たっぷりな笑みはまだ消えていないが、今の一発を完全に無視できるほど軽いものではないらしい。押さえた手の下で、脇腹がじんと痺れているのだろう。
それでも、流鹿は笑った。
「……ええやん」
その声は、さっきまでより少し低かった。軽口のようでいて、今度ばかりははっきりと本気の評価が混じっている。
「今のは、ちゃんと痛いわ」
エデンは息を整える暇もなく流鹿を見る。流鹿は腹を押さえたまま、小さく肩を回し、それからゆっくりと顔を上げた。
「普通のエイリ星人やったら、今ので終わっとるわ」
冗談めかした言い方だったが、そこに誇張はないように聞こえた。
ジエルが興奮気味に声を上げる。
「やべぇだろ今の! めちゃくちゃ入ってたぞ!」
亜爆も静かに頷いた。
「しかも、ただ力任せに打ったわけじゃありません。足のストリングでフェイントを入れて、崩した上での打撃です」
「いい感じに繋がっている……」
その言葉に、エデンは少しだけ息を吐いた。
胸が苦しい。腕も脚も痛い。ストリングを連続で使い、フォースも重ね、ナイトまで混ぜたせいで身体はかなりきつい。それでも、不思議と顔を上げられた。今の一発には意味があった。ちゃんと、流鹿に届いたのだ。
流鹿は腹から手を離し、改めてエデンへ向き直る。
「今の君は、崩して殴るところまで来た」
「それはめちゃくちゃ大きい進歩や」
流鹿は腹に残る痛みを確かめるように軽く手を当て、それから何度か肩を回した。エデンの拳がめり込んだ場所には、まだ鈍い衝撃が残っているはずだった。それでも、顔にはいつものような余裕の笑みが浮かんでいる。まるで、今の一撃すら訓練の一部として楽しんでいるようだった。
だが、その視線が改めてエデンを見た瞬間、流鹿はふっと目を細めた。
エデンは立っていた。立ってはいたが、明らかに限界が近い。
肩で息をしている。呼吸は深く荒く、胸が上下するたびに喉の奥で熱を持った空気が擦れる音がした。右腕はまだわずかに震えていたし、足元も完全には安定していない。リミットフォース、リミットストリング、リミットナイト。それぞれを短い時間の中で何度も切り替え、しかも足からストリングを出すような慣れていない使い方までしたのだ。消耗が激しくないはずがない。
流鹿はそれを一目で見抜いたのか、ぽんと手を打つように軽く言った。
「よし、エデン君はもうええわ」
訓練場の空気が、その一言で少し緩む。流鹿はいつもの調子で笑いながら、続けた。
「疲れとるやろ。休み」
「え……」
エデンは思わず声を漏らした。流鹿はエデンを見て首を横に振る。
「今の君、気力ではまだ動けるかもしれへんけど、身体はもう結構きとるで」
軽い言い方だったが、その指摘は容赦がなかった。流鹿はエデンの腕と足をちらりと見た。汗で張りついた服の下、筋肉が細かく震えているのを見逃していないのだろう。
「ここで無理してフォーム崩したまま続けても、あんま意味ない。変な癖つくし、下手したら怪我する」
それは訓練相手を気遣う優しさというより、強くなるために必要な線引きを淡々と告げているような口調だった。やれるところまでやらせて、でも壊れる前には止める。流鹿は最初から、その匙加減をちゃんと見ていたのだろう。
エデンは口を閉じた。
反論したい気持ちは少しあった。まだ頭は回っているし、実際、意識が飛びそうなほどではない。だが、自分の身体の重さもよく分かっていた。拳を握るだけで前腕が張る。足を踏ん張れば太腿が熱を持つ。ストリングをもう一度長く伸ばしたら、指先の感覚が鈍くなりそうだった。
『その通りだ.....無理をすべきではない』
ケイもそう言ってエデンに休憩を促す。
「……はい」
少しだけ悔しさを滲ませながら、エデンは素直に頷いた。その返事を聞くと、流鹿は満足そうに笑う。
「素直でよろしい」
そう言ってから、流鹿はわざとらしく大きく息をついた。
「いやぁでも、思ったよりだいぶおもろかったわ。最初はもっと一直線なタイプかと思っとったけど、ちゃんと考えて動けるやん。嫌な戦い方ができとったわ」
エデンは少しだけ目を瞬かせる。褒められているのか、からかわれているのか、一瞬判断に困る言い方だった。けれど、流鹿の顔を見ると、少なくとも半分以上は本気で言っているのが分かった。
「足から糸出したんはよかったな。あれは初見やとだいぶ刺さる。しかも二本目を逆の足から仕込んだやろ。ああいう次の手をちゃんと用意しとるのはええことや」
流鹿はそう言いながら、エデンの左足のあたりを軽く指差した。
「ただ、所々動きが雑だったり、無駄なとこも多い」
「……はい」
「でも、そこは伸びしろってことや。今の時点でこれだけできるなら、十分期待できるで」
その言葉に、エデンは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。厳しく指摘されるばかりではない。ちゃんと見た上で、できた部分も拾ってくれる。だからこそ、流鹿の言葉は素直に入ってきた。
ジエルが横からずいっと顔を出してくる。
「おつかれ。いやマジで、最後のやつすげぇな。足からストリングとかズルだろ」
「ズルって何だよ……」
エデンは思わず苦笑する。声を出した途端、張りつめていたものが少し緩んだ。緊張が抜けると同時に、どっと疲れが押し寄せてくる。脚が重い。腕もだるい。今になって、どれだけ無理をしていたのかがはっきり分かる。
亜爆も近づいてきて、じっとエデンの顔色を見た。
「かなり消耗してますね。座った方がいいですよ」
「……そうする」
そう答えたエデンは、訓練場の端へ向かって歩き出す。数歩進いただけで、脚が思った以上に重かった。無理やり能力を回し続けたせいで、身体の芯に疲労が溜まっている。壁際に置かれたベンチへ腰を下ろした瞬間、ようやく張っていた糸が切れたように息が漏れた。
「はぁ……っ……」
背もたれに体重を預ける。喉はからからで、呼吸を整えるたびに胸がじんと痛む。それでも、嫌な疲れではなかった。むしろ、今までの訓練の中でもかなり濃い時間だったと思う。自分の能力をどう繋げるか、どう見せるか、どう騙すか。そういう戦い方の部分に、初めて本格的に踏み込めた気がした。流鹿はそんなエデンを一瞥すると、くるりと踵を返した。
「ほな次やな」
その視線が向いた先には、当然のようにジエルと亜爆がいる。訓練場の空気が、再び引き締まる。ベンチに座ったエデンは、荒い息を整えながらその様子を見上げた。身体は重い。それでも目だけは、まだ戦いの続きを追っていた。自分が休んでいる間に、ジエルと亜爆がどんな訓練を受けるのか。それを見て、また何か盗めるかもしれない。
そう思えるくらいには、エデンの中にまだ熱が残っていた。




