二本目の糸
エデンは荒くなりかけた呼吸を、無理やり整えた。
流鹿は脇腹に触れていた手を離し、楽しそうに笑っていた。
「ええやん。やっと考えながら使っとる顔になってきた」
その言葉に、エデンは何も返さない。返す余裕がなかった。真正面から殴り合えば勝てない。だったら、勝負するべきは読みではなく選択肢の多さだ。エデンは再び床を蹴った。右手から伸びるリミットストリングが、黒い線となって空中を走る。今度はただ振るうだけではない。大きく薙ぎ、引き戻し、途中で軌道を変える。空気を裂く音が連続で訓練場に響いた。だが流鹿は、その猛攻の中でも冷静だった。完全に余裕があるわけではない。さっきよりは明らかに流鹿の動きも細かくなっている。避けるために必要な動作が増えていた。だが、それでもなお崩れない。その警戒を、逆手に取る。エデンは右手のストリングで攻撃を続けながら、左手をわずかに引いた。
呼吸を合わせる。意識を分ける。右手で攻撃しながら、左手でも同時に能力を発動する。まだ慣れていない動作だ。皮膚が引き伸ばされる感覚が、今度は左腕にも走る。ぴり、と神経を撫でるような痛み。だが、それを無視してインターフェースの力を流し込む。左手の指先から、二本目のリミットストリングが伸びた。黒い線がするりと宙を走る。右手の猛攻に紛れるように、低く、静かに、流鹿の死角へ滑り込んでいく。流鹿の視線は右手のストリングを追っていた。もちろん、完全に見落としているわけではないだろう。だが、一瞬だけ反応が遅れる。そのわずかな隙を、エデンは逃さなかった。
左のストリングが、流鹿の腕に巻き付く。
「――っ」
ぴたり、と黒い線が右腕へ絡みついた。その瞬間、ジエルが訓練場の端で思わず声を上げる。
「巻いた!」
亜爆の目もわずかに見開かれる。
流鹿の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚き――というほどではない。だが、エデンが“二本目”を同時に使ってきたことに対する評価の色が浮かんだ。
「へぇ」
その短い声を聞いた瞬間、エデンは左手を強く引いた。巻き付けたストリングを、縮ませる。左腕に巻き付いたストリングが一気に収縮し、エデンの身体を前へ引っ張った。視界が一瞬で流鹿に迫る。流鹿とエデンの身体が、一気に近づく。エデンはその瞬間──能力を発動する。
(一瞬だけなら......大丈夫なはず)
「リミットリフレクス!」
頭の中で、時間がわずかに伸びる。神経の伝達と身体の反応が極限まで引き上げられたことで、目に映るもの全てが鈍く見える。流鹿の肩が動く。腰が捻れる。肘の位置が変わる。攻撃の起点が、はっきりと見えた。来る。流鹿はこの距離で何もさせてくれる相手じゃない。腕を取られたままでも、いや、取られたからこそ、その一瞬で迎撃してくる。エデンはそれを読んでいた。ゆっくり見える。今なら、避けられる。エデンは流鹿の腕に巻き付けていたストリングを解除した。黒い線が霧散するように消える。同時に、リミットリフレクスも解除。長く使えば負担が大きすぎる。一瞬だけ、必要な分だけ見切ればいい。その刹那、エデンは腕で防御した。
「リミットナイト!」
低く吐き出した声と同時に、身体の一部を極限まで硬化させる、防御と局所強化のための能力だ。流鹿の手が、その硬化した右脚に触れた。鈍い衝撃。
「おっ」
流鹿の目が、ほんの少しだけ動く。エデンはその反応を見るより早く、右脚を振り抜いた。リミットナイトで脚を硬くし、流鹿の脇腹を狙う。ストリングやフォースのような派手さはないが、まともに入れば痛いでは済まない。流鹿はエデンの脚が振り抜かれる、その軌道を見切り、かわした。そう思った、その瞬間。エデンの目つきが変わる。振り抜いた右脚――そのリミットナイトを、解除した。
「リミットストリング!」
今度のストリングは手からではない。右足――ズボンの裾の奥から、黒い線がするりと伸びた。流鹿の目がわずかに細まる。だが、気づいた時にはもう遅かった。右脚から伸びたストリングが、流鹿の脚に巻き付く。
「……っ!」
黒い線が足首のあたりへ食らいつき、ぎゅっと絡みつく。今度は腕ではなく、脚。しかも、手から放ったものではない。流鹿の視線が一瞬だけそこへ落ちる。そのわずかな反応を、エデンは見逃さなかった。右脚のストリングを、縮ませる。絡みついた線が一気に収縮し、エデンの身体を前へ引っ張る。さっき腕に巻き付けて距離を詰めたのと同じ理屈だ。だが、今度はもっと低い位置から引かれる。重心ごと前へ持っていかれるような加速。エデンはその勢いに乗るように、身体を回転させた。左脚が、流鹿へ向かって振り抜かれる。今度はリミットナイトも、リミットフォースも乗せていない。純粋に、ストリングの収縮で得た加速だけを利用した蹴りだ。威力だけで言えば、決して大きくはない。流鹿ほどの相手なら、直撃しても致命打にはならないだろう。
それでも――。
ぱしっ、と乾いた音が鳴った。左脚の蹴りが、流鹿の脇腹に確かに入る。
「っ……!」
流鹿の身体がわずかに揺れる。浅い。重くはない。だが、当たった。しかも今度は、完全に意表を突いた一撃だった。手からのストリング、足からのストリング、ナイトからストリングへの切り替え、そして収縮を利用した接近。複数の択を短い間に切り替えた結果として、ようやく通した一打だった。ジエルが思わず叫ぶ。
「足から出した!?」
亜爆も目を見開いていた。
「今のは……発想がかなりいいです」
エデンは蹴りの反動で着地すると、すぐに右脚のストリングを解除した。長く巻き付けたままにしておけば、逆に利用される危険がある。拘束はゴールじゃない。使ったらすぐ次へ繋げる。その意識が、少しずつエデンの中に根づき始めていた。エデンは床を踏みしめる。
「リミットフォース!」
低く唸るように能力名を告げ、エデンは一気に踏み込む
だが――。
エデンは、流鹿の目の前でぴたりと止まった。
「……?」
ジエルが間の抜けた声を漏らす。勢いそのままに殴るでも、蹴るでもない。あと一歩で届くという距離で、エデンは構えたまま静止した。拳も振るわない。肩も動かない。ただ、流鹿の正面に立っているだけに見える。流鹿の目が細くなる。当然だ。止まる理由がない。今の踏み込みは攻撃のためのものだったはずだ。なのに、エデンは打たない。わざわざ相手の間合いに飛び込んでおきながら、そこで止まるなど普通はありえない。一瞬の静止。訓練場の空気が張り詰める。流鹿の視線が、エデンの拳から肩へ、肩から腰へ、そして足元へと滑る。そこで、気づく。
「……なるほどな」
流鹿が小さく笑った。エデンの左足。そこから伸びたストリングが、床すれすれを這うように流鹿の足元へ伸びていた。しかも、それは今さっき足から出した右のストリングではない。踏み込みと同時に、今度は左足から密かに放っていたのだ。黒い線は、流鹿の足首へしっかり巻き付いている。エデンは、真正面から突っ込んだのではなかった。見せるための接近だった。殴るつもりで飛び込んだように見せておいて、本命は足元の拘束。流鹿の前で止まったのは、その拘束が決まったのを確認するためだ
エデンは流鹿を見据えたまま、口の端を少しだけ上げる。額から汗が流れ落ちる。呼吸は荒い。だが、その目には今までよりはっきりとした自信が宿っていた。
「……今度は、左足だ」
その言葉とともに、左足に力が入る。巻き付けたストリングが、きし、と鳴るように張り詰めた。
流鹿は笑みを深める。
「おもろいやん」
軽くそう言いながらも、その目はもう完全に訓練相手を見るものではなかった。エデンの成長を楽しみながらも、同時に、油断なく次の手を読みにいく戦士の目だ。エデンは息を吸い込む。右手、左手、右足、左足。使えるものは全部使う。リミットフォースも、リミットナイトも、リミットストリングも、必要なら一瞬だけリフレクスも混ぜる。今の自分が持つ全てを、どう繋げるか。その答えを、この数分の戦いの中で必死に探していた。そして今、左足のストリングが流鹿を捉えている。次に何を重ねるか――その一手が、エデンの勝負になる。




