ストリングの使い方
エデンは床を蹴った。その瞬間、右手から伸びたリミットストリングがしなり、黒い線となって空気を裂く。Sランク隊員と相対するエデンの頭は冴えていた。ただ殴るだけでは流鹿には届かない。近づけば読まれ、力任せの連撃はあっさり捌かれる。なら、間合いそのものをズラすしかない。拳の届く距離で勝てないなら、拳じゃない距離から攻める。リミットストリングはそのための新しい牙だ。
「っ!」
腕を振るう。ストリングが弧を描き、しなる。直線ではなく、曲線で襲いかかる攻撃。軌道が読みにくく、間合いも曖昧だ。うまく使えればかなり厄介なはずだ
だが――。
流鹿は半歩下がっただけで、それをかわした。黒いストリングが鼻先を掠めるように通り過ぎ、床を叩く。ぱん、と乾いた破裂音が訓練場に響いた。床に細い亀裂が走る。威力自体はある。もし直撃していれば、決して軽くは済まない。それでも当たらない。
「悪ないな」
流鹿はそう言った。
「でも、素直すぎる」
エデンはすぐに手首を返した。振り切ったストリングを引き戻し、その勢いのまま二撃目を放つ。今度は下段。足元を払うように薙ぐ。流鹿の体勢を崩す狙いだ。だが、それもかわされる。そのまま三撃目。今度は頭上から叩きつける。振り上げたストリングがしなって真上へ跳ね、落雷のように振り下ろされる。だが流鹿は首を傾けるように身体をずらし、それを避けた。四撃目、五撃目、六撃目。右から薙ぐ。左から返す。下段を見せて上段へ変える。足を止めず、角度を変え、テンポを変え、ストリングを鞭のように振るい続ける。訓練場に、何度も空気を裂く音が響いた。乾いた音が立て続けに鳴るたび、床や壁に浅い傷が増えていく。リミットストリングはまだ完全に扱い切れていない。それでも、エデンなりに必死で軌道を工夫していた。まっすぐ振るだけでは読まれる。だから、手首の返しを早くしたり、途中で角度を変えたり、わざと大きく振ってから引き戻したりと、できる限りの変化をつけていく。だが、当たらない。流鹿はその全部を避けた。訓練場の端で見ていたジエルが、思わず低く呟く。
「全然当たんねぇ……」
亜爆も無言のまま、じっと二人の動きを追っていた。エデンの攻撃は確かに速い。しかも、ただの近接打撃と違ってリーチがある。普通の相手なら、数発のうちどれかは引っかかっていてもおかしくない。それをここまで綺麗にかわし続ける流鹿の異常さが際立っていた。エデンの呼吸が少しずつ荒くなる。ストリングは、思った以上に消耗する。皮膚の形状と伸縮性を限界まで拡張する以上、身体への負担も当然大きい。腕の内側がじりじりと熱を持ち、引き伸ばした部分がわずかに軋むような感覚があった。だが、それ以上に焦りがあった。
(当たらない……!)
拳は届かない。ストリングも当たらない。新しい武器を手に入れたはずなのに、それすら通じない。これでは結局、何も変わっていないのではないか。そんな嫌な考えが頭をよぎる。その時だった。流鹿が、攻撃をかわしながらぽつりと言う。
「エデン君」
その声はいつも通り軽いのに、妙に耳に残った。
「君、ストリングを“鞭”やと思いすぎや」
「……!」
エデンの目が揺れる。流鹿はさらに続ける。
「振るうのはええ。でも、振ったあとが死んどる」
次の瞬間、エデンの放った一撃を、流鹿がまた半身になってかわす。黒いストリングは大きく横へ流れ、そのまま勢いよく振り切られた。普通なら、それで終わりだ。鞭の攻撃は振り抜けば一度軌道が途切れる。次の一撃に移るまで、どうしてもわずかな隙ができる。だが、流鹿の言葉が頭の中で引っかかる。
――振ったあとが死んどる。
振ったあと。
エデンの脳裏に、つい先ほどから感じていたリミットストリングの奇妙な感覚がよみがえる。あれは鞭ではない。皮膚だ。自分の身体の一部だ。なら、振り切ったあとの軌道も、ただ戻るだけである必要はない。ならば──
流鹿がエデンの一撃をかわした、その直後。
エデンは反射的に手首をひねった。大きく横へ振り抜かれたストリングが、そのまま惰性で戻るのではなく、ありえない方向へ跳ねた。振り切った方向とは真逆。まるで生き物が尾を返すように、黒い線が鋭く反転する。
「――っ」
初めて、流鹿の目がわずかに細くなった。完全に意表を突いた一撃だった。振り抜かれたと思ったストリングが、戻り際に牙を剥く。鞭ではなく、腕そのもののように軌道を捻じ曲げて襲いかかる。かわした直後の流鹿の死角めいた位置へ、黒い線が横薙ぎに走った。ぱしっ、と鋭い音が鳴る。エデンのリミットストリングが、ついに流鹿の脇腹をかすめるように叩いた。決して大きな一撃ではない。深く入ったわけでもないし、流鹿も直前で少し身体を引いて威力を殺している。だが、それでも確かに当たった。今まで一発も触れられなかった相手に、初めて攻撃が届いたのだ。その感触が、ストリング越しにエデンの手へ返ってくる。
「……当たった」
思わず、エデンの口から小さく声が漏れた。流鹿は数歩だけ下がり、叩かれた脇腹を手で軽く押さえる。そして、そのまま口元を上げた。
「そうそう」
その声には、はっきりとした満足が滲んでいた。
「それや、エデン君」
訓練場の端で見ていたジエルが目を見開く。
「お、おお! 今の見たか!?」
亜爆も珍しく少しだけ驚いた顔をしていた。
「戻りの軌道を変えた……」
流鹿は頷く。
「ようやく鞭から一歩抜けたな」
エデンは荒い呼吸のまま、自分の右手を見る。まだ少し震えている。腕も熱い。ストリングを維持するだけでじわじわと負担が積もっていくのが分かる。けれど、その疲労の中に、確かな手応えがあった。今のは偶然に近い。だが、偶然でもなんでも、一度出来たなら次は意識してやれるかもしれない。流鹿はにやりと笑う。
「ええやん。やっと面白くなってきた」
その言葉と同時に、流鹿の目の色がほんの少しだけ変わる。今までは見てやるという顔だった。だが今は違う。少しだけ本気で、エデンの次を待っている。エデンは息を整えながら、もう一度構えた。右手の先で、黒いストリングが静かに揺れる。ただ振るうだけじゃ届かない。けれど、使い方を変えれば届くかもしれない。その実感が、エデンの胸の奥でじわじわと熱になって広がっていた。




