エデンの訓練
エデンは拳を握りしめた。手の甲に埋め込まれたインターフェースが淡く発光し、その光がじわじわと腕の内側へ染み込むように広がっていく。呼吸が浅くなる。心臓の鼓動が一つ強く跳ねた。血流が熱を帯び、筋肉の一本一本にまで意識が行き渡る。目の前に立っているのは、盤上流鹿。ECOのSランク隊員。真正面からぶつかったところで、普通にやって勝てる相手ではないことくらい、エデンにだって分かっていた。
(相手はSランク……普通にやっても勝てない)
流鹿は軽く立っているだけだ。構えらしい構えすら見せていない。だが、そこにある圧だけは異様だった。隙があるように見えて、どこにもない。踏み込めば踏み込んだ分だけ、こちらが試される。そんな予感がひしひしと伝わってくる。エデンは奥歯を噛みしめる。
だったら――。
(今の全力を出す!)
迷いを断ち切るように、インターフェースの光が一段強くなった。
「リミットフォース……!」
能力が起動する。床を蹴る。その瞬間、エデンの身体が一気に前へ弾けた。だが、流鹿は動じない。その場に立ったまま、ただエデンを見ている。試すような、測るような目だった。エデンは真正面から突っ込む。小細工なし。まずは一撃、どんな形でもいいから届かせる。届けばそこから次へ繋げられる。そう信じて、右拳を強く引き絞った。拳に全身の力を集め、最短最速で叩き込む。
「っ……!」
振り抜いた拳が、唸りを上げる。空気を切る音が耳を打った。
だが、その拳が流鹿の顔面へ届く寸前――。
流鹿の身体が、ふっと半歩だけずれた。たったそれだけだった。大きく避けたわけでもない。ほんのわずか身体の軸をずらしただけで、エデンの全力の拳は空を切る。
「――っ!?」
一瞬、エデンの目が見開かれる。速さでも力でもない。純粋な立ち位置と読みだけで、完璧にいなされた。だが、エデンは止まらない。拳が空を切った反動を無理やり捻じ伏せ、踏み込んだ勢いを殺さず左の肘を流鹿の脇腹へ叩き込もうとする。近距離での連撃。リミットフォースで上がった出力を、単発で終わらせるつもりはない。しかし、その肘打ちも流鹿の片手に止められた。鈍い音が響く。エデンの肘を、流鹿は掌で受けていた。
「お、ええな」
流鹿が笑う。
「一発外しても止まらへんのは偉い」
その掌はびくともしない。エデンは歯を食いしばる。押し込もうとしても、まるで鉄柱にでも当たっているようだった。自分の全力が、そのまま地面に吸われていくような感覚がある。
次の瞬間、流鹿がエデンの腕を軽く払った。それだけでエデンの体勢が崩れる。
「うわっ――」
エデンの身体が横へ流れる。まずい、と反射的に思った時には、流鹿の膝がすぐ目の前まで迫っていた。訓練用に明らかに手加減はされている。だが、それでも直撃すれば息が詰まるには十分な一撃だった。
エデンは咄嗟に腕を交差させる。
「リミットナイト!」
黒い鎧が腕に纏わりつくように形成される。次の瞬間、膝がぶつかった。衝撃が走るエデンの身体が後ろへ弾かれ、数メートル滑るように距離を取らされる。鎧で防いだはずなのに、骨の奥まで響くような重さが残る。エデンはすぐに構え直した。呼吸が荒くなる。まだ一撃も入れていない。それどころか、今の数秒で完全に主導権を握られている。
(やっぱり……強い……!)
単純な出力だけなら、今のエデンもかなり高い。リミットフォースによる瞬発力も、リミットナイトの防御も、同年代の隊員相手なら十分通用するはずだ。だが、流鹿にはその全部が見えていた。力の流れ、踏み込みの癖、攻撃の起点。全部読まれている気がした。流鹿はエデンの正面で、相変わらず軽い様子のまま立っている。
「ええやん。ちゃんと二つ目まで繋げる気あるやん」
「でもな」
そこで、流鹿の目が少しだけ鋭くなった。
「今のは強いパンチと強い追撃や。まだ能力に振り回されとる」
その言葉が、エデンの胸に刺さる。能力に振り回されている。まさにその通りだった。リミットフォースで身体能力を上げ、その勢いのまま殴る。リミットナイトで防ぐ。今のエデンは確かにそれしかしていない。強くなった身体をそのまま叩きつけているだけだ。流鹿は指を一本立てる。
「さっき言うたやろ。君の能力は自分のスペックを上げるだけやない」
「もっとズラせる。もっと崩せる。もっと変なこと出来る」
変なこと。その言い方に、エデンは一瞬だけ思考を巡らせる。そしてすぐに浮かぶのは、やはりあの力だった。リミットストリング。皮膚の形状と伸縮性、強度の限界を拡張し、糸のように伸ばす力。まだ習得したばかり。使い方も荒い。だが、流鹿が言う“ズラす”という表現に一番近いのは、間違いなくあれだ。流鹿はにやりと笑った。
「ほら、またええ顔した」
「使えるもんあるんやろ。なら出し惜しみせんと使い」
挑発するような言い方だった。
エデンは息を整える。胸が上下する。腕に残る衝撃がまだじんじんと痛む。それでも、ここで止まるわけにはいかない。エデンはゆっくりと右手を前に出した。掌を開く。インターフェースが再び光り、今度はその光が手の甲から指先へと集まっていく。皮膚が熱を持つ。まるで薄い膜が内側から引き伸ばされるような、奇妙な感覚。エデンは視線を流鹿から外さないまま、低く呟いた。
「……まだ上手く扱えないですけど」
「それでも、やってみます」
流鹿は満足そうに頷いた。
「上等や」
エデンの指先が、わずかに震える。次の瞬間、そこから細く黒い糸のようなものが、するりと伸びた。皮膚が線になって伸びていく。異様な光景だ。だがそれは確かにエデン自身の能力であり、身体の一部だった。訓練場の空気が、少しだけ張り詰める。流鹿はそのリミットストリングを見て、面白そうに口元を上げた。
「……よし」
「そこからや、エデン君」
Sランク隊員の視線が、まっすぐエデンを射抜く。
「その糸、ただ伸ばすだけやと思うなよ」
「どう使えば相手が嫌がるかを考えてみ」
エデンは小さく息を吸う。ただ殴るだけでは届かない。ただ防ぐだけでは足りない。なら、今の自分に出来る嫌な戦い方をするしかない。糸を操る指先に、力がこもる。次の一手を考えながら、エデンは再び床を蹴った。




