訪問
数日後。白石研究所の一件で負った傷も、ようやく日常生活に支障がない程度には癒え始めていた。アモリス支部の空気も、少しずつ元の落ち着きを取り戻しつつある。もっとも、元通りというには、エデンの周囲で起きたことが濃すぎたが。
その日、エデンは支部内の教室にいた。窓から差し込む昼の光が床を照らし、どこか平和な雰囲気を作っていた。そんな中、エデンは机に頬杖をつきながら、ぼんやりと考え事をしていた。白石研究所での戦い。初めて使ったリミットストリング。月下香のこと。そして、シェイドと美人のその後。あれだけ大きな事件だったのだから、何かしら動きはあるだろうとは思っていた。だが、こうして静かな教室に座っていると、あの夜のことが少し夢みたいにも感じられる。そんなエデンの机に、バン、と勢いよく手が置かれた。
「おい、これ見ろよ」
顔を上げると、そこにはジエルがいた。いつものように気安い調子で、しかし今日は少し興奮気味だ。手にはスマホが握られている。
「ん?」
エデンが身を乗り出すと、ジエルは画面を突き出してきた。そこに表示されていたのはニュース記事だった。
怪盗団ルノンブル、自首。そんな見出しが大きく載っている。エデンは一瞬だけ目を見開き、それから小さく息を吐いた。
「……自首したんだ」
声に驚きはあったが、意外さはそこまでなかった。むしろ、どこか納得してしまう。頭の中で、エデンは静かに思う。
(そりゃそうか)
(目的は達成してるし、続ける意味もないか)
シェイドが怪盗になった理由は、月下香への復讐だった。そしてその復讐は、少なくとも一つの区切りを迎えた。月下香は逮捕され、研究所は潰れ、美人も救い出された。なら、もう“怪盗シェイド”でいる必要はないのかもしれない。エデンはニュース画面を見つめながら、少しだけ複雑な気持ちになる。寂しいというほどではない。だが、あの芝居がかった男が、もうどこかでコインを弄びながら現れることはないのだろうかと思うと、不思議な感覚だった。そんなエデンの横で、ジエルはふと思い出したように「あ、そうだ」と声を上げた。ポケットを探り、取り出したのは隊員証だった。
「俺のランクが上がったんだ」
どや顔でエデンに突き出す。
「ランクC-6だ。すげぇだろ」
確かに、以前より上がっている。エデンは素直に目を丸くした。
「おぉ、ほんとだ。すごいじゃん」
「だろ?」
ジエルは胸を張る。褒められるのを待っていた犬みたいな顔だ。
「クロウ島でも、研究所でも、俺頑張ったからな」
「うん、それは本当にそう」
エデンが笑いながら返すと、ジエルは満足そうに鼻を鳴らした。そこへ、少し離れた席にいた亜爆も会話に入ってくる。
「私も上がりましたよ」
そう言って、亜爆も自分の隊員証を見せた。
「ランクD-2です」
「亜爆も!?」
エデンはさらに驚く。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
亜爆はいつもの落ち着いた調子で微笑んだが、ほんの少しだけ嬉しそうだった。表情の変化は控えめでも、こういう時の亜爆はちゃんと機嫌がいい。ジエルが横から覗き込み、「お、亜爆もか」と言う。
「なんか一気にみんな出世してんな」
「ジエルさん、その言い方だと軽いですね」
「いやでも実際そうだろ」
そんなやり取りに、教室の空気が少し和む。
その時だった。教室の扉がコンコンと叩かれる。入ってきたのは支部の職員だった。手に書類を持ち、教室内を見渡すと、エデンの方へ視線を向ける。
「エミット・エデンさん」
「はい」
「ランクが上がりましたので、後ほど隊員証を提示してください。新しい階級の登録を行います」
「えっ」
エデンは思わず間の抜けた声を出した。自分のランクが上がった。言われて初めて理解が追いつく。
「わ、分かりました」
職員は事務的に頷くと、それだけ告げて教室から出て行った。扉が閉まる。一拍の沈黙。次の瞬間、ジエルが食いついた。
「おい、エデンも上がったのかよ!」
「え、う、うん……みたい」
「なんだよその反応! もっと喜べよ!」
「いや、急に言われたからまだ実感なくて……」
亜爆も少し目を細める。
「おめでとうございます、エデンさん」
「ありがとう」
エデンは照れくさそうに頭を掻いた。実感はまだ薄い。だが、少しだけ嬉しい。クロウ島での戦い。白石研究所での一件。無茶もしたし、傷も負った。けれど、それがちゃんと評価されたのだと思うと、報われたような気持ちになった。
だが。その余韻に浸る暇もなく、再び教室の扉が開いた。今度はノックもなく、軽い調子で。
「邪魔すんでー」
軽い声が教室に響く。その声だけで誰か分かった。
「おっ、全員おるやん」
ひょいと顔を出したのは、盤上流鹿だった。ECOのSランク隊員。クロウ島でエイリヤカと渡り合った男。あの時と変わらず、どこか飄々とした空気を纏っている。だが、その実力はエデンたちも身をもって知っていた。エデンたちは一斉に目を丸くした。
「盤上さん!?」
「どうしてここに?」
エデンが立ち上がりかける。
流鹿はひらひらと手を振った。
「まぁまぁ、そんな畏まらんでもええって」
そう言いながら教卓の方まで歩いていくと、流鹿は軽く腰を預けるように立った。そして、いつもの軽い笑みを浮かべたまま言う。
「エイリワスって知っとるやろ?」
その名前が出た瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。エデンの背筋が自然と伸びる。ジエルも亜爆も表情を引き締めた。忘れられるはずがない。ジエルの故郷を奪った仇。流鹿は三人の反応を確認し、頷く。
「本部は今、そいつの話で持ち切りなんや」
「やばいってな」
軽く言っているようで、その目は笑っていなかった。
「せやから今日は、エイリワスについて君らが持っとる情報を聞きたいんや」
「それと、こっちで分かっとることも共有しとこうと思ってな」
亜爆が静かに手を上げる。
「情報提供だけなら、わざわざあなたが来る必要はないと思うんですけど」
もっともな疑問だった。Sランク隊員が、わざわざこんな形で直接来る必要は薄い。書類でも、別の職員経由でも済む話だ。流鹿はその言葉を聞いて、にやっと笑った。
「察しがええな」
亜爆は無言で流鹿を見る。流鹿は肩を竦めた。
「もちろん、それだけやないで」
一拍置く。
「情報交換が終わったら――」
そう言って、三人を順番に見た。エデン。ジエル。亜爆。そして、楽しそうに笑う。
「君らに特訓をつけようと思う」
その言葉が落ちた瞬間。教室の空気が、ぴたりと止まった。




