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エデン  作者: ko-da
8章 白石研究所編

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いい名前

少し離れた屋上の隅では、別の静かな時間が流れていた。シェイドと美人(みと)。二人は並ぶように立っていた。もう周囲に敵はいない。警察もECOも、今は二人に無理に近付こうとはしていなかった。長い悪夢から解放された直後だ。今くらいは、二人だけの時間があってもいい。美人(みと)はまだ少しふらついていたが、意識ははっきりしていた。シェイドはそんな彼女の様子を横目で見て、何度か口を開きかけては閉じる。いつもの怪盗然とした余裕はどこにもない。今の彼はただ、言いづらいことを抱えた青年だった。やがて観念したように、小さく息を吐く。

「……美人」

声が妙にぎこちない。美人が顔を上げる。

「なに、ひと」

その呼び方に、シェイドの表情が少し曇った。数秒、沈黙する。そして、気まずそうに視線を逸らしながら言った。シェイドは一度、強く唇を結ぶ。それから、美人を見た。逃げず、誤魔化さず、まっすぐに。

「……前々から、言わないといけないと思っていた」

その声は少し掠れていた。月下香との再会で傷付いた身体よりも、今この瞬間の方がずっと痛いのかもしれない。シェイドはゆっくりと言葉を続ける。

「俺は……本当は、美人の生き別れの家族じゃない」

夜の空気が、一瞬だけ止まったように感じた。シェイドは視線を落とす。拳を握る。爪が掌に食い込む。

「研究所を出たあの日……あの時の俺は、ただ……」

うまく言葉が出てこない。言い訳にしたくなかった。研究所を出たあの日。あの時のシェイドには、ただ生きる理由が欲しかった。守る相手が欲しかった。あの地獄から這い上がるために、自分が誰かの家族であることが必要だった。だから、嘘をついた。シェイドは深く頭を下げた。

「今まで騙していて、すまなかった」

それは取り繕いのない謝罪だった。怪盗シェイドではなく、一人の人間としての謝罪。心の底から絞り出した言葉だった。屋上に静寂が落ちる。シェイドは顔を上げられなかった。もし美人が怒ったら。もし泣いたら。もし、美人がシェイドを否定したら。シェイドはそれを受け入れるつもりだった。そうするべきだと思っていた。だが。次の瞬間、返ってきた言葉は、彼の予想を綺麗に裏切った。


「知ってた」


シェイドの肩がぴくりと揺れる。ゆっくりと顔を上げる。

美人は、少しだけ笑っていた。責めるような笑みではない。困らせるためのものでもない。ただ、ずっと隠していた秘密をようやく言えた人に向けるような、柔らかい笑みだった。

「……え?」

間の抜けた声が漏れる。シェイドは目を瞬かせた。

美人はその反応が少し可笑しかったのか、くすっと笑う。

「最初から知ってた」


「ひと、嘘つくの下手だったし」


「えっ……」


「すごく必死だったし」

シェイドは絶句した。怪盗としての仮面ならともかく、あの時の嘘はそんなに見抜きやすかったのかと、妙なところで打撃を受けている顔だった。だが、美人はすぐに真面目な顔になる。そして、静かに続けた。

「でも……嬉しかったから」

その一言に、シェイドの表情が止まる。美人は少し視線を下げる。自分の両手を見つめながら、ぽつりぽつりと話した。

「家族になりたかったから」


「何も言わなかった」

シェイドは何も言えなかった。目を見開いたまま、美人を見つめる。それから、ゆっくりと表情が崩れていった。安堵だった。救われたような顔だった。張り詰めていたものが、一気に解けていく。目の端に涙が浮かぶ。

「……そっか」

かすれた声が漏れる。シェイドは上を向いた。夜空には月が浮かんでいた。白く、静かに。全部を見ていたみたいに、そこにあった。

「家族……か」

呟いた途端、涙が一筋こぼれた。頬を伝い、顎先から落ちる。シェイドは慌てて拭おうともしなかった。今だけは、隠す必要がなかった。美人は黙ってその横顔を見ている。シェイドはしばらく月を見上げたまま呼吸を整え、やがて美人の方を向いた。その目は少し赤い。けれど、どこか晴れやかだった。

「ありがとう、美人(みと)

それはきっと、今までのどんな礼よりも重かった。嘘を許してくれたこと。一緒に家族でいてくれたこと。生きていてくれたこと。全部を込めた「ありがとう」だった。美人もふわりと笑う。

「こちらこそ」

短い言葉。でも、それで十分だった。

少しだけ沈黙が流れる。今度の沈黙は気まずいものではなく、心地いいものだった。

やがて、美人が首を傾げる。

「そういえば、ひとの本当の名前って何?」

シェイドは一瞬だけ目を丸くした。それから、少し照れくさそうに笑う。

「……そうだな。ちゃんと言ってなかったか」

怪盗シェイドや噓の名前である月下氷人(つきしたひと)として名乗ることはあっても、本当の名を口にすることはほとんどなかった。それを今ここで伝えるのは、仮面を一枚脱ぐような感覚だった。けれど、相手が美人なら、それでよかった。シェイドは静かに答える。


「ラナン・キュラス」


美人はその名前を一度、頭の中でなぞるように小さく繰り返した。

「ラナン……」

それから、にこっと笑う。

「いい名前」

その言葉に、ラナンは少し照れたように目を逸らした。けれど、その口元には確かに笑みが浮かんでいた。怪盗シェイドではない。復讐者でもない。ただ、ラナン・キュラスとして笑う顔だった。

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