いい名前
少し離れた屋上の隅では、別の静かな時間が流れていた。シェイドと美人。二人は並ぶように立っていた。もう周囲に敵はいない。警察もECOも、今は二人に無理に近付こうとはしていなかった。長い悪夢から解放された直後だ。今くらいは、二人だけの時間があってもいい。美人はまだ少しふらついていたが、意識ははっきりしていた。シェイドはそんな彼女の様子を横目で見て、何度か口を開きかけては閉じる。いつもの怪盗然とした余裕はどこにもない。今の彼はただ、言いづらいことを抱えた青年だった。やがて観念したように、小さく息を吐く。
「……美人」
声が妙にぎこちない。美人が顔を上げる。
「なに、ひと」
その呼び方に、シェイドの表情が少し曇った。数秒、沈黙する。そして、気まずそうに視線を逸らしながら言った。シェイドは一度、強く唇を結ぶ。それから、美人を見た。逃げず、誤魔化さず、まっすぐに。
「……前々から、言わないといけないと思っていた」
その声は少し掠れていた。月下香との再会で傷付いた身体よりも、今この瞬間の方がずっと痛いのかもしれない。シェイドはゆっくりと言葉を続ける。
「俺は……本当は、美人の生き別れの家族じゃない」
夜の空気が、一瞬だけ止まったように感じた。シェイドは視線を落とす。拳を握る。爪が掌に食い込む。
「研究所を出たあの日……あの時の俺は、ただ……」
うまく言葉が出てこない。言い訳にしたくなかった。研究所を出たあの日。あの時のシェイドには、ただ生きる理由が欲しかった。守る相手が欲しかった。あの地獄から這い上がるために、自分が誰かの家族であることが必要だった。だから、嘘をついた。シェイドは深く頭を下げた。
「今まで騙していて、すまなかった」
それは取り繕いのない謝罪だった。怪盗シェイドではなく、一人の人間としての謝罪。心の底から絞り出した言葉だった。屋上に静寂が落ちる。シェイドは顔を上げられなかった。もし美人が怒ったら。もし泣いたら。もし、美人がシェイドを否定したら。シェイドはそれを受け入れるつもりだった。そうするべきだと思っていた。だが。次の瞬間、返ってきた言葉は、彼の予想を綺麗に裏切った。
「知ってた」
シェイドの肩がぴくりと揺れる。ゆっくりと顔を上げる。
美人は、少しだけ笑っていた。責めるような笑みではない。困らせるためのものでもない。ただ、ずっと隠していた秘密をようやく言えた人に向けるような、柔らかい笑みだった。
「……え?」
間の抜けた声が漏れる。シェイドは目を瞬かせた。
美人はその反応が少し可笑しかったのか、くすっと笑う。
「最初から知ってた」
「ひと、嘘つくの下手だったし」
「えっ……」
「すごく必死だったし」
シェイドは絶句した。怪盗としての仮面ならともかく、あの時の嘘はそんなに見抜きやすかったのかと、妙なところで打撃を受けている顔だった。だが、美人はすぐに真面目な顔になる。そして、静かに続けた。
「でも……嬉しかったから」
その一言に、シェイドの表情が止まる。美人は少し視線を下げる。自分の両手を見つめながら、ぽつりぽつりと話した。
「家族になりたかったから」
「何も言わなかった」
シェイドは何も言えなかった。目を見開いたまま、美人を見つめる。それから、ゆっくりと表情が崩れていった。安堵だった。救われたような顔だった。張り詰めていたものが、一気に解けていく。目の端に涙が浮かぶ。
「……そっか」
かすれた声が漏れる。シェイドは上を向いた。夜空には月が浮かんでいた。白く、静かに。全部を見ていたみたいに、そこにあった。
「家族……か」
呟いた途端、涙が一筋こぼれた。頬を伝い、顎先から落ちる。シェイドは慌てて拭おうともしなかった。今だけは、隠す必要がなかった。美人は黙ってその横顔を見ている。シェイドはしばらく月を見上げたまま呼吸を整え、やがて美人の方を向いた。その目は少し赤い。けれど、どこか晴れやかだった。
「ありがとう、美人」
それはきっと、今までのどんな礼よりも重かった。嘘を許してくれたこと。一緒に家族でいてくれたこと。生きていてくれたこと。全部を込めた「ありがとう」だった。美人もふわりと笑う。
「こちらこそ」
短い言葉。でも、それで十分だった。
少しだけ沈黙が流れる。今度の沈黙は気まずいものではなく、心地いいものだった。
やがて、美人が首を傾げる。
「そういえば、ひとの本当の名前って何?」
シェイドは一瞬だけ目を丸くした。それから、少し照れくさそうに笑う。
「……そうだな。ちゃんと言ってなかったか」
怪盗シェイドや噓の名前である月下氷人として名乗ることはあっても、本当の名を口にすることはほとんどなかった。それを今ここで伝えるのは、仮面を一枚脱ぐような感覚だった。けれど、相手が美人なら、それでよかった。シェイドは静かに答える。
「ラナン・キュラス」
美人はその名前を一度、頭の中でなぞるように小さく繰り返した。
「ラナン……」
それから、にこっと笑う。
「いい名前」
その言葉に、ラナンは少し照れたように目を逸らした。けれど、その口元には確かに笑みが浮かんでいた。怪盗シェイドではない。復讐者でもない。ただ、ラナン・キュラスとして笑う顔だった。




