月下香逮捕
屋上に冷たい風が吹き抜ける。倒れた兵士たち。美人を支える傷だらけのシェイド。その二人を守るように位置するエデン。そして月下香。追い詰められているはずなのに、月下香の顔にはまだ余裕が残っていた。
「無駄だ」
月下香は静かに言う。白衣のポケットへ手を入れる。取り出したのは小型のリモコンだった。リモコンのスイッチが押される。
「兵士はまだいる」
月下香は笑う。
「今頃、研究所内に隠していた兵士たちが屋上へ向かっている」
「お前たちはよくやった.....だが数が違う」
その言葉と共に、月下香は屋上への扉を見る。しかし、数秒、十秒、二十秒。どんなに経っても誰も来ない。月下香の眉が僅かに動いた。さらに時間が経つ。それでも来ない。
「……なぜだ」
初めて焦りが見えた。月下香は再びリモコンを見る。故障している様子はない。命令は確かに送られている。なのに。誰も来ない。その時だった。エデンが小さく笑った。
「今頃、あなたの兵士は――」
月下香が振り向く。エデンは真っ直ぐ見返した。
「俺の仲間に制圧されてますよ」
同じ頃。研究施設の下層。廊下には何人もの兵士が倒れていた。
「少し痺れるぞ」
ジエルが拳を握る。青白い電気が弾ける。発電機。拳が兵士の腹へ突き刺さった。電流が流れる。兵士の身体が震える。そのまま白目を剥いて倒れた。
「よし、一人」
ジエルは肩を回す。
「まだまだいけるぞ。かかってこい」
そう言いながら次の兵士へ向かう。
一方。別の通路。亜爆は困ったような顔をしていた。周囲には数人の兵士。だが普段のような爆弾を使うわけにはいかない。兵士を殺すわけにはいかない。
「これは難しいですね……」
そう言いながら掌を開く。小さな爆弾が現れる。
「威力は控えめで」
兵士たちが突撃してくる。亜爆は爆弾を放った。閃光。煙。兵士たちの視界が奪われる。
「今です」
亜爆はその隙に駆け出す。手刀。首筋。腹部。急所を正確に狙う。兵士たちは次々と倒れていった。
「ふぅ」
亜爆は額の汗を拭う。
「これで大体終わりでしょ」
そして屋上。月下香は愕然としていた。
「馬鹿な……仲間を呼んだのか..」
自分が作り上げた兵士たち。長年の研究成果。その全てが止められている。理解できなかった。その時。屋上の扉が開く。重い音が響く。全員が振り向いた。そこに立っていたのは一人の男だった。胸にはECOの徽章。堂々とした立ち姿。手には時計を持っている。アモリス支部Aランク隊員。時輪鐘鳴
「まさか本当にこんな研究をしていたとはな」
低い声が響く。時輪は周囲を見渡した。倒れた兵士。美人。シェイド。そして月下香。全てを確認する。次にエデンへ視線を向けた。
「情報提供感謝する」
エデンは少し驚く。そう。屋上へ行く直前。エデンはこっそりECOへ連絡を入れていた。そのためにシェイドを先に行かせたのだ。
「エデン隊員」
時輪は短く言う。
「よく持ちこたえた」
そして。月下香へ向き直る。空気が変わる。
「貴様を守るものは全て制圧した」
「私と隊員たちによってな、今すぐに投降しろ」
月下香の表情が歪む。追い詰められた。完全に。兵士はいない。逃げ場もない。その瞬間だった。月下香がポケットへ手を突っ込む。黒い拳銃を素早く抜き放つ。エデンたちが反応するより早かった。
「死ね」
引き金が引かれる。銃声。だが。時輪は動じなかった。
「そうか、なら...倍速」
能力が発動する。時輪の動きが倍速になる。銃弾が時輪に届く前には、そこに時輪はいない。月下香の目が見開かれる。次の瞬間。時輪は懐へ入り込んでいた。
「なっ――」
言葉が終わる前に。時輪の腕が月下香の手首を掴む。銃が弾き飛ばされる。さらに肩を押さえられ、体勢を崩される。そして、時輪は月下香をそのまま地面へ叩き伏せた。屋上が揺れる。月下香は完全に拘束された。どれだけ暴れようと抜け出せない。時輪は冷たく言い放つ。
「終わりだ」
その言葉と共に。長い年月続いた月下香の研究は、ついに幕を閉じた。
数十分後、屋上に響いていた戦闘音は、ようやく完全に消えていた。夜風だけが吹いている。研究所の下から複数の足音が聞こえてきた。警察だ。屋上の扉が次々と開き、制服姿の警官たちがなだれ込んでくる。拘束された月下香を見て、一瞬だけ空気が張り詰めた。だがすぐに状況を理解し、警官たちは素早く動き出す。
「白石礼だな」
「違法人体実験、監禁、拉致、その他諸々の容疑で拘束する」
月下香は地面に押さえつけられたまま、何も言わなかった。その顔には悔しさも怒りもない。ただ、計算が狂ったことへの不快感だけが滲んでいるように見えた。警官たちがその腕に手錠をかける。金属音が静かな屋上に響く。それは長く続いた悪夢がようやく終わったことを告げる音のようでもあった。そのまま月下香は立たされ、連行されていく。白衣の裾が夜風に揺れた。研究所の他の職員たちも、下の階で次々と確保されているらしい。運び出される者。壁際に座らされる者。警察に問い詰められる者。白石研究所は完全に制圧された。
だが、その騒がしさから少し離れた場所で――エデンは屋上の床に倒れ込んでいた。
「っ……はぁ……」
息が荒い。腕がじんじんと痛む。いや、腕だけではない。全身だ。リミットストリング。初めて発動した新しい力。あれは明らかに身体への負担が大きすぎた。皮膚の形状と伸縮性、強度を限界まで拡張する能力。いわば、リミットの能力を複数同時に使用しているようなものだ。無理やり引き延ばした反動が一気に返ってきている。指先一つ動かすのも重い。視界も少し揺れる。
「エデン!」
そこへ駆け寄ってきたのはジエルだった。後ろから亜爆も来る。
「おい、大丈夫か!?」
ジエルがしゃがみ込む。エデンは苦笑した。
「だ、大丈夫……たぶん」
「たぶんじゃねぇだろ」
ジエルが呆れたように言う。だがその声には心配が滲んでいた。亜爆も隣へ膝をつく。
「また無茶しましたね」
いつもの穏やかな口調だが、少しだけ眉が寄っている。エデンは空を見上げたまま答える。
「ちょっと……頑張りすぎたかも」
「ちょっとどころじゃないでしょ」
亜爆はそう言って、エデンの腕を見る。赤く腫れている。所々皮膚が裂け、血も滲んでいた。
「習得したんですか?」
「うん……リミットストリング」
ジエルが目を丸くする。
「もう使えるのかよ」
「なんとか…使えるようになった…今さっき」
「初使用でそんなに無理したのかよお前!?」
ジエルが半ば叫ぶ。
「そりゃ倒れるわ」
エデンは少しだけ笑った。怒られているのに、なぜかその声が心地よかった。助かった。誰も死ななかった。その事実だけで十分だった。ジエルは肩を貸しながら、ぶつぶつ文句を言う。
「ほんっと、毎回毎回危なっかしいな」
「まぁでも……」
少しだけ視線を逸らす。
「助けたのは偉いけどよ」
亜爆も小さく頷いた。
「ええ。そこは本当に」
エデンは二人の顔を見て、少しだけ安心したように笑った。




