救いの糸
夜の風が唸る。高層ビルの外壁を掠めながら、二つの影が落下していく。シェイドは空中で必死に美人を抱き締めていた。風圧が身体を叩く。傷口が開き、包帯の下から再び血が滲む。それでも腕の力は緩めない。絶対に。この手から失いたくなかった。研究所から逃げ出し、激流に飲み込まれたあの日からずっと守ると決めたのだから。美人の身体を抱き寄せる。自分が盾になるように。もし地面に激突するなら、自分だけでいい。そんな覚悟だった。
「大丈夫だ」
シェイドは優しく言った。落下している最中とは思えないほど穏やかな声だった。
「美人」
シェイドの声を聞いて、美人の瞼が僅かに動く。薬の効果が薄れ始めていた。
「……ん……」
意識が浮上する。ぼやけた視界。吹き荒れる風。そして。自分を抱き締めている人物。
「……ひと……?」
美人は弱々しく呟いた。シェイドは少しだけ笑う。
「あぁ」
「安心しろ」
その言葉を聞いた瞬間だった。美人の目に涙が浮かぶ。研究所で過ごした地獄の日々。逃げ出した後の生活。怪盗として旅をした時間。様々な記憶が頭を過ぎる。だが。一つだけ変わらなかったものがある。それは。この人がいつも自分を守ってくれたことだった。
「……ひと……」
その時。シェイドの目が見開かれた。上空から何かが伸びてくる。黒い糸のようなもの。あり得ない長さまで引き伸ばされた皮膚。夜空を裂くように降りてくる。
「これは……!」
次の瞬間。それは二人へ巻き付いた。腰に。腕に。身体全体に。強靭な糸のように絡みつく。だが締め付ける感覚はない。守るような力だった。屋上。ビルの縁。そこにはエデンがいた。両足を踏ん張り。歯を食いしばり。全身の筋肉を震わせながら。リミットストリング。初めて発動した能力。リュートが語った力。限界を拡張するリミットの応用。エデンの額から汗が流れる。身体中が悲鳴を上げている。皮膚が裂けそうだった。筋肉が焼けるように痛い。だが。離さない。絶対に。エデンは叫ぶ。
「絶対に死なせない……!」
リミットストリングがさらに締まる。二人を確実に捕らえる。
「誰も!」
その声には強い意志が込められていた。失うのは嫌だった。後悔するのも嫌だった。だから。腕を引く全力で。リミットストリングが収縮を始める。まるで巨大なワイヤーが巻き取られるような音。落下が止まる。シェイドと美人の身体が一気に引き上げられていく。二人の目が見開かれる。本来なら不可能な光景だった。リミットストリングが軋む。エデンの腕から血が滲む。皮膚が悲鳴を上げていた。だが止まらない。二人は屋上へ近付いていく。シェイドはその光景を見上げていた。信じられないものを見るように。そして小さく笑う。
「……本当に」
風に声が消えそうになる。
「変な奴だな……」
その言葉には、これまでになかった温かさが混じっていた。そして。三人の距離は少しずつ縮まっていく。屋上へ。生きて帰るために。リミットストリングはゆっくりと縮み続けた。そして。
シェイドと美人の身体が屋上へ辿り着く。エデンは最後の力を振り絞り、二人を安全な場所まで引き寄せた。リミットストリングが解ける。伸びきっていた皮膚は元の腕へと戻る。腕全体に激痛が走った。まるで無理やり引き伸ばされたゴムが元に戻るような感覚だった。だが今はそんなことを気にしている場合ではない。シェイドはすぐに美人を抱き締めた。腕の中にいることを確認するように。何度も。何度も。美人も震えながらシェイドの服を握る。
「……ひと……」
「大丈夫だ」
シェイドは静かに答える。
「もう大丈夫だ」
その言葉を聞いてようやく美人の肩から力が抜けた。
だが。戦いはまだ終わっていない。エデンは二人の前へ出た。まるで盾になるように。守るように。背中を向けたまま言う。
「二人とも下がってて」
月下香はその様子を見ても表情を変えなかった。実の娘が助かったというのに。何の感情も見せない。ただ冷静に兵士たちへ命令する。
「捕獲しろ」
三人の兵士が動く。エデンは深く息を吸った。右腕を前へ出す。まだ慣れない感覚。だが使える。確実に。頭の中にケイの声が響く。
『エデン、出力の調整はこちらでやる。思いきりやれ』
エデンは頷きながら叫ぶ。
「リミットストリング!」
手の甲から黒い線が伸びる。細い。まるで糸のような皮膚。しかし強度は鋼鉄にも匹敵する。一直線に兵士へ飛ぶ。兵士が反応するより早く。その身体へ巻き付いた。次の瞬間。エデンは腕を振る。拘束された兵士の身体が宙に浮く。そのまま。別の兵士へ叩き付けた。轟音。二人の兵士が激突する。床を転がる。エデンは即座にリミットストリングを解除。今度は自分から飛び出した。リミットフォース。身体能力が跳ね上がる。一瞬で間合いを詰める。鎖を操る兵士が能力を発動した。腕から無数の鎖が飛び出す。だが。エデンの方が速かった。鎖の軌道を見切る。手刀で叩き落とす。金属音。鎖が弾かれる。そして。兵士の懐へ潜り込む。
「ハァ!」
腹部への正確な一撃。リミットフォースによって強化された打撃。だが殺さないように威力は調整されている。兵士は白目を剥いた。そのまま崩れ落ちる。気絶。続いてもう一体。起き上がろうとした瞬間に足払い。体勢を崩したところへ首筋への打撃。こちらも気絶した。戦闘不能。わずか数秒だった。その光景を見ながら。シェイドは違和感に気付く。身体の奥。ラベジニウムが反応している。先ほどまで感じていた封印がない。能力が戻った。能力封じの兵士が気絶したのだ。金属への感覚が戻る。金のコインが再び手足のように感じられた。
「解除されたか……」
シェイドは小さく呟く。だが。最後の兵士が動いた。これまで何もしていなかった兵士。能力不明の兵士。その兵士が片手を前へ突き出す。ラベジニウムが光る。空気が急激に冷えた。
「っ!?」
エデンが振り向く。兵士の掌の前に巨大な氷柱が形成されていた。鋭利な槍。殺傷力は十分。次の瞬間氷柱が発射された。一直線。エデンの胸へ向かう。避けられない。そう思われた瞬間。シェイドが指を弾く。
「黄金指揮」
ポケットから飛び出した金のコイン。一枚。二枚。三枚。黄金の軌跡を描く。そして。氷柱へ激突した。凄まじい衝撃音。コインが信じられない軌道で氷柱を弾く。氷柱は進路を変え。屋上の床へ突き刺さった。砕け散る氷。その隙を。エデンは見逃さない。一気に踏み込む。兵士が次の氷柱を生成する前に。拳を振り抜いた。腹部への一撃。兵士の身体が浮く。続けて。顎への打撃。兵士の瞳から力が抜けた。そのまま倒れる。最後の兵士も気絶した。静寂。あとは月下香だけだった。夜風が吹く。白衣の裾が揺れる。月下香は倒れた兵士たちを一瞥する。だが、その顔にはまだ余裕があった。




