誰も、死なせない
シェイドは一人、研究施設の上階へ向かっていた。薄暗い非常階段。無機質なコンクリートの壁。赤い警報灯が一定の間隔で点滅し、不気味な光を周囲へ撒き散らしている。美人が連れ去られてから、既にかなりの時間が経っている。シェイドに焦りはあった。胸の奥が焼けるような感覚。今すぐ駆け出したい衝動。だが、それを無理やり押さえ込む。焦れば判断を誤る。それだけは避けなければならなかった。階段を上りながら、シェイドは自分の手を見る。指先を軽く動かす。何も起きない。普段なら意思一つで動くはずの金の硬貨が反応しない。能力が発動しない。あの兵士に触れられてからずっとだ。
「……やはり」
小さく呟く。思考を整理する。あの時の感覚。兵士が自分に触れた瞬間。身体の奥にあるラベジニウムが何かに押さえつけられたような感覚があった。おそらく――
「能力を封じる能力」
そう考えるのが自然だった。だが、それなら。
「能力者本人を倒せば解除されるかもしれない」
シェイドはそう結論付ける。能力には発動者がいる。ラベジニウムの力なら尚更だ。本人の意識がなくなれば解除される可能性は高い。問題は、その能力者がどこにいるかだ。階段を上る。二階。三階。途中で兵士たちと遭遇した。改造兵士。無機質な瞳。感情のない顔。シェイドを発見した瞬間、こちらへ向かってくる。
だが、シェイドは止まらない。兵士が拳を振るう。その瞬間。身体を半歩だけずらす。拳が空を切る。続いて別の兵士が飛び掛かる。シェイドは手すりを蹴り、身体をひねる。そのまま兵士の横を通り抜けた。戦わない。今は戦う意味がない。能力も使えない。傷も残っている。何より。目的はルノだ。兵士ではない。後ろから追ってくる足音が聞こえる。だが気にしない。さらに上へ。さらに奥へ。シェイドの頭は冷静だった。
(この階にはいない)
能力封印が解除される気配がない。つまり能力者はもっと上だ。あるいは月下香の近くにいる。美人を連れ去ったのなら重要な戦力を傍に置くはずだ。階段を駆け上がる。息が荒くなる。傷が痛む。だが止まらない。最上階に上がると、通路の雰囲気が変わる。下層の研究施設とは違う。壁が新しい。警備も厳重だ。監視カメラが複数ある。シェイドは立ち止まる。そして奥を見る。通路の先。巨大な扉があった。研究所の屋上へ続くと思われる重厚な扉。
「……ルノ」
シェイドは拳を握った。能力はまだ戻らない。傷も残っている。だが関係ない。ここまで来たのだ。必ず助け出す。そう決意しながら、シェイドは巨大な扉へ向かって歩き始めた。屋上の扉を勢いよく開く。
シェイドはそのまま飛び出す。夜風が吹き抜ける。高層ビルの屋上。街の灯りが遠くまで広がっていた。そして、その中央。月下香が立っていた。白衣を揺らしながら。まるで全てを見下ろす王のように。その後ろには三人の兵士。一人は鎖を操る能力者。一人は能力封じの能力者。そしてもう一人。まだ能力が分からない兵士。その兵士たちの傍らには――眠ったままのルノがいた。ぐったりとしている。意識はない。シェイドの心臓が跳ねた。
「美人!」
その声に月下香が振り向く。表情は変わらない。まるで予想通りだったと言わんばかりだった。
「来たか」
静かな声。感情の欠片もない。
「ちょうどいい」
そして。月下香は兵士へ視線を向けた。
「処分しろ」
シェイドの動きが止まる。兵士は無言でルノを抱き上げる。そして。屋上の縁へ歩いていく。理解した瞬間。全身の血が凍った。
「待て」
声が震える。
「やめろ」
兵士は止まらない。屋上の端。その向こうには何十メートルもの高さ。落ちれば助からない。シェイドは叫んだ。
「家族だろう!!」
その声は夜空に響いた。
「なんでそんなことができる!!」
怒り。悲しみ。憎しみ。全てが混ざった叫びだった。だが。月下香は眉一つ動かさない。
「だからどうした」
冷たい声。まるで他人の話を聞いているようだった。
「私の研究に邪魔な者は排除する」
そして。短く命令する。
「やれ」
兵士が手を開く。美人の身体が宙へ傾く。
「やめろ!!」
シェイドが走る。全力で。傷が開こうが関係ない。足が壊れようが関係ない。ただ前へ。だが。間に合わない。ルノの身体が虚空へ落ちた。夜の街へ。深い闇の中へ。シェイドは叫ぶ。
「美人!!」
その瞬間。屋上の扉が再び開く。エデンだった。息を切らしながら飛び出してくる。そして。目の前の光景を見る。落下する美人。飛び出すシェイド。月下香。兵士たち。全てを一瞬で理解した。
「―――!」
考えるより先に身体が動いた。月下香と兵士たちを掴む。そのまま力任せに後方へ投げ飛ばす兵士たちが転がる。
「何!?」
月下香も数メートル吹き飛ばされた。そしてエデンは屋上の端へ駆け寄る。下を見る。美人。シェイド。二人が落ちていく。もうかなり遠い。普通なら届かない。絶対に。間に合わない。だが。エデンは手を伸ばした。必死に。届くはずのない距離へ。
(いやだ)
脳裏に浮かぶ。失ったもの。守れなかったもの。そして。今落ちていく二人。
(いやだ)
胸の奥で何かが震える。ラベジニウムが反応する。
(誰も、死なせない)
その瞬間。腕に熱が走り、皮膚が震えた。身体そのものが変化する感覚。限界が拡張される。リュートが言っていた言葉が脳裏をよぎる。
――皮膚の形状と伸縮性、強度の限界を拡張する。
――リミットストリング。
エデンの腕から皮膚が伸びた。あり得ないほど。まるで一本の黒い糸のように。夜空を裂いて。落下する二人へ向かって。さらに伸びる。そして――あと少しで届く距離まで迫った。




