月下美人を助けに
研究施設の一角。倒れた兵士たちの間に、静かな空気が流れていた。先ほどまで続いていた戦闘の音はもうない。聞こえるのは機械の駆動音と、どこか遠くで鳴る警報だけだった。エデンはシェイドの話を聞き終え、しばらく何も言えなかった。あまりにも重い過去だった。人体実験。研究所からの脱走。家族として利用された少女。そして月下香という男。エデンはゆっくりと視線を落とした。
「そんなことが……」
自然とそんな言葉が漏れる。シェイドは苦笑した。脇腹に巻かれた包帯を軽く押さえる。まだ痛む。だがそれ以上に胸の奥にある感情の方が強かった。
「あいつは外道だ」
その声には怒りが混じっていた。
「月下香は人を人として見ていない」
視線が奥の階段へ向く。美人が連れ去られた方向。
「俺は……」
そこで一瞬言葉が止まる。そして静かに続けた。
「俺はあいつへの復讐のために怪盗になった」
エデンはそこで気付いた。今のシェイドはいつもと違う。豪華客船で会った時のような芝居がかった口調ではない。詩人のような言葉もない。ポーズを取ることもない。そこにいるのはただ一人の青年だった。復讐を抱えた一人の人間。シェイドはエデンの視線に気付いたのか、小さく笑った。
「気付いたか」
「え?」
「あの口調」
シェイドは頭を掻く。少し気まずそうに。
「怪盗っぽくしているだけだ」
エデンは思わず目を丸くした。
「そうなの?」
「そうだ」
シェイドは肩をすくめる。
「本当はそんな器じゃない」
「美人が楽しそうに笑うから続けていただけだ」
そう言った時だけ、少しだけ表情が柔らかくなった。エデンは最後の包帯を結ぶ。これで応急処置は終わりだ。
「よし」
満足そうに頷く。シェイドは傷口を動かしてみる。完全ではないが、さっきよりずっと楽だった。
「助かった」
珍しく素直なお礼だった。そして立ち上がる。
「俺は行く」
短く言う。
「ルノを助ける」
当然のように、一人で行くつもりだった。だが。その瞬間だった。エデンが立ち上がり、そして軽く肩を回した。腕を伸ばす。首を鳴らす。まるで戦う前の準備をするように。シェイドは首を傾げた。
「……何をしている?」
エデンは当然のように答える。
「行くんでしょ?助けに」
シェイドは一瞬言葉を失った。
「きみも?」
「うん」
「なぜだ」
シェイドには理解できなかった。エデンは月下香と関係ない。美人とも数回しか会っていない。危険を冒す理由がない。だから聞いた。
「きみは私と関係のない人間だ」
「なぜ助けようとする?」
研究所の照明が静かに二人を照らす。エデンは少し考えて。そして笑った。
「怪盗とか、関係ないよ」
その答えはあまりにも単純だった。
「今の話を聞いて」
少しだけ真面目な顔になる。
「もっと助けたくなった」
シェイドは黙る。その言葉に嘘はなく、打算もないように見えた。だからこそ、シェイドには少し眩しかった。
ケイも頭の中でその会話を聞いていた。だが何も言わない。いつもなら呆れたり止めたりするはずだった。それでも今回は黙っていた。エデンらしい。そう思ったからかもしれない。
「行こう」
エデンが言う。シェイドはしばらく無言だった。やがて小さく息を吐く。
「……好きにしろ」
そう言って歩き出した。奥へ。美人が連れて行かれた方向へ。エデンも続こうとして――ふと足を止めた。
「あ」
何かを思い出したような顔になる。シェイドが振り返る。
「どうした?」
エデンは少しだけ考え込み。そして指を立てた。
「ちょっと先行ってて、すぐ追いつくから」
シェイドは怪訝そうな顔をする。
「何をするつもりだ?」
だがエデンは少し笑うだけだった。
「ちょっとね」
そう言うとポケットからスマホを取り出して何かをする。シェイドは首を傾げながらも、再び前を向く。ルノを助けるために。月下香との決着をつけるために。暗い階段を一人で上っていった。




