守りたいもの
激流に飲み込まれた後の記憶は曖昧だった。冷たい水。苦しい呼吸。全身を打ち付ける岩。少女を離すまいとする腕。それだけしか覚えていなかった。
目を覚ました時。シェイドは白い天井を見ていた。薬品の匂い。規則正しく鳴る機械音。病院だった。小さな町の病院。山間部にある、ごく普通の病院。川の下流で倒れていた二人を発見した住民が運び込んだらしい。医師の話によれば、生きていたこと自体が奇跡だった。背中には銃創。全身打撲。骨折もあった。普通なら助からない。だがシェイドは生きていた。
そして。最初に考えたのは自分のことではなかった。少女のことだった。ベッドから起き上がる。全身に激痛が走る。だが構わなかった。点滴を引きずりながら病室を出る。廊下を歩く。看護師に止められそうになったが、聞かなかった。
そして隣の病室へ辿り着く。ゆっくりと扉を開けた。そこには少女がいた。窓際のベッド。小さな身体。白い髪。まだ痩せているが、生きていた。その事実にシェイドは安堵した。少女もこちらへ気付く。静かに見つめてくる。しばらく無言が続いた。やがてシェイドが口を開く。
「大丈夫か?」
少女は少しだけ考える。そして小さく頷いた。
「うん」
その声を聞いてようやく安心できた。生きている。シェイドは近くの椅子へ腰を下ろしたそして聞く。
「きみの名前は?」
少女は窓の外を見る。まるで思い出すように。そして答えた。
「ぼくの名前は――」
小さな声。
「月下美人」
その瞬間。シェイドの表情が固まった。月下。その姓を聞いただけで理解した。月下香。月下研究所そしてこの少女。繋がった。血の繋がりがある。おそらく娘だ。あの男は、自分の娘さえも実験材料にしたのだ。胸の奥に怒りが湧く。あの研究所で見た少女の姿。痩せ細った身体。怯えた目。それが全て説明できてしまう。普通の親なら守るはずだ。だが月下香は違った。利用し、実験した。道具として扱った。そこに親子の情など存在しなかった。シェイドは拳を握る。だが。怒りを見せても意味はない。今、目の前にいるのは被害者だ。美人は窓の外を見たままで、その横顔はどこか寂しそうだった。弱々しい。小さい。まだ子供だ。自分よりもさらに幼い。家もない。家族もいない。帰る場所もない。研究所以外の世界など知らないだろう。そんな少女を見て。シェイドの胸にある考えが浮かんだ。
そして。気付けば口にしていた。
「大丈夫だ」
美人が振り向く。シェイドは笑った。ぎこちない笑顔だった。
「俺は君の生き別れの家族だ」
言った瞬間。自分でも何を言っているのかと思った。もちろん嘘だった。会ったのは数日前。血の繋がりなどない。だが。美人は目を見開いていた。驚いたように。信じられないものを見るように。シェイドは続ける。
「名前は……」
少し考える。本当の名前は捨てたかった。研究所の被験体だった過去ごと。全部。だから。即興で名乗った。
「月下氷人」
嘘の名前。嘘の家族。嘘の関係。だが、シェイドに不思議と後悔はなかった。美人はしばらく黙っていた。そして。少しだけ笑った。本当に少しだけ。研究所では見せなかったであろう笑顔。
「……ほんと?」
「本当だ」
シェイドは迷わず答える。美人は小さく頷いた。その顔は、先ほどまでより少しだけ明るかった。ほんの少しだけ。安心したような顔だった。
その笑顔を見た時。シェイドの中で一つの決意が生まれる。もう誰にもこの子を利用させない。誰にも傷付けさせない。たとえ自分が嘘つきになっても。世界中を敵に回しても。この子だけは守る。シェイドは静かに窓の外を見た。
その日。彼は自分のためではなく。
月下美人のために生きることを決めたのだった。




