少女を連れて
少女と目が合った瞬間だった。シェイドは何も考えられなくなった。逃げなければ。そんな考えは確かにあった。だが、それ以上に。この少女をここへ置いていくという選択肢が、頭の中から消えていた。気が付けば身体が動いていた。牢屋の前へ駆け寄る。両手で鉄格子を掴む。ラベジニウムの熱が再び身体を巡る。鉄が悲鳴を上げる。少女が驚いたように目を見開く。そして。鉄格子が曲がった。人一人通れる穴が開く。シェイド自身も驚いていた。だが止まらない。牢屋へ入り込む。少女は怯えたように身体を縮こまらせた。
「立てるか?」
返事はない。ぼんやりと見上げているだけだった。まともに歩ける状態ではない。シェイドは歯を食いしばる。そして少女の首についている首輪を外し、抱え上げた。それはあまりにも軽かった。まるで羽のように。どれだけ酷い扱いを受けてきたのか。考えるだけで腹が立った。
「行くぞ」
少女は何も言わなかった。ただ小さくシェイドの服を握る。その感触を感じながら、シェイドは走り出した。地下通路。階段。研究員用の廊下。とにかく出口を目指す。心臓が激しく鳴る。もう少し。もう少しで外だ。そう思った時だった。
警報が鳴り響いた。赤い警告灯が回転する。研究所全体が赤く染まった。
「脱走だ!」
「被験体が逃げたぞ!」
怒号が飛び交う。研究員たちが慌ただしく走る。見つかった。シェイドはさらに速度を上げる。だが。研究所の出口へ辿り着いた時には。既に待ち伏せされていた。そこに立っていたのは月下香だった。白衣を揺らしながら。まるで全て予想していたかのように。その手には拳銃が握られている。
「なるほど」
月下香は静かに言った。
「覚醒したのか」
シェイドは少女を抱えたまま睨みつける。
「どけ」
「それはできないな」
月下香は迷いなく引き金を引いた。銃声が響く。激痛。シェイドの身体が揺れる。背中。弾丸が貫いていた。熱い。いや。熱いというより焼けるようだった。血が流れる。服が赤く染まる。少女が小さく震える。だがシェイドは倒れない。前へ進む。一歩。また一歩。
「驚いた」
月下香が呟く。
「普通なら立てないはずだ」
再び銃声。弾丸が肩を掠める。血が飛ぶ。それでも止まらない。シェイドは少女を守るように抱き締めた。絶対に離さない。絶対に。もう誰にも渡さない。月下香の銃撃を避け、出口を飛び出す。夜風が吹き付ける。研究所の外。ようやく辿り着いた。だがそこでシェイドは立ち止まる。目の前に広がっていたのは──
崖だった。月明かりに照らされた断崖絶壁。遥か下には荒れた海。逃げ場はない。完全な袋小路だった。背後から足音が近付く。月下香。研究員たち。武装した警備員。全員が追い付いていた。シェイドは後ずさる。少女を抱いたまま。一歩。また一歩。崖際へ。月下香が銃を向ける。その表情は変わらない。
「終わりだ」
冷たい声だった。シェイドは歯を食いしばる。ここまでなのか。ようやく逃げ出したのに。少女を助けられたと思ったのに。その時だった。小さな音がした。シェイドは気付かない。誰も気付かない。足元。長年の風雨で脆くなっていた崖。そこへ銃撃や人の重みが重なっていた。亀裂が走る。月下香が僅かに眉を動かした。
次の瞬間。崖が崩れた。地面そのものが砕ける。シェイドの身体が宙へ投げ出される。少女を抱えたまま。落下する。闇の中へ。
「――!」
研究員たちの悲鳴。崩れ落ちる岩。轟音。そして。荒れ狂う海へ二人の姿が消えた。月下香は崖際まで歩く。下を見る。だが夜の海は暗い。姿は見えない。流されたのだろう。あの高さだ。生きているはずがない。月下香は数秒だけ海を見つめていた。そして。
「回収は不要だ」
そう言った。
「死亡と判断する」
研究員たちが頷く。月下香は背を向けた。白衣を翻しながら研究所へ戻っていく。その背中に迷いはない。彼にとって二人は失敗作になっただけだった。だが。誰も知らなかった。暗い海の中。波に呑まれながらも。シェイドは最後まで少女を離していなかったことを。




