月下研究所
十数年前――。
まだシェイドが「怪盗シェイド」と呼ばれる前のことだった。月下研究所。薄暗い地下施設。窓はない。外の光など一切届かない場所。冷たいコンクリートの壁に囲まれた牢屋の中で、一人の少年が膝を抱えて座っていた。紫色の髪。今よりもずっと幼い顔立ち。痩せ細った身体。それがシェイドだった。牢屋の鉄格子の向こうからは機械音が聞こえる。何かが動いている音。研究員たちの足音。聞きたくなかった。研究員たちは誰もシェイドを名前で呼ばない。人間として扱わない。実験材料。
鉄格子の向こうで音がする。シェイドの身体がわずかに強張った。足音が近付いてくる。白衣。複数人。そしてその後ろにいる男。若い頃の月下香だった。今よりも少し若い。だが目だけは変わらない。冷たい。人を見る目ではない。物を見る目だった。
「状態は?」
月下香が聞く。研究員の一人が答える。
「良好です」
「ラベジニウムへの適応率も高い」
「拒絶反応は確認されていません」
月下香は小さく頷く。そして牢屋の前まで歩いてきた。シェイドを見下ろす。まるで商品を見るように。
「素晴らしい」
その声には感情がない。
「きみは優秀だ」
シェイドは睨み返した。月下香は気にした様子もない。
「兵士計画は順調だ」
「人類を守るための新たな戦力。宇宙の脅威に対抗するための存在」
月下香はそう語る。宇宙の脅威から身を守る、そのためなら何人傷つこうが関係ない。シェイドは怒りをあらわにする。
「……ふざけるな」
かすれた声でシェイドは言った。月下香が首を傾げる。
「何がだ?」
「人を閉じ込めて、勝手に実験して」
「それで守るだなんて……」
声に怒りが混じる。だが月下香は笑った。本当に少しだけ。
「理解できないのも無理はない」
「未来を見るには視野が狭すぎる」
シェイドは拳を握った。何度殴りかかりたいと思ったか分からない。だが無意味だった。首輪はシェイドの身体を縛り、監視によって変な動きは出来ない。逃げ場はない。月下香は背を向ける。
「実験は明日だ」
「しっかり休むといい」
そう言い残して去っていく。研究員たちも続く。重い扉が閉まる。再び静寂。シェイドは拳を床へ叩きつけた。悔しかった。何もできない自分が。ここから出られない現実が。
翌日。実験室。白い照明が眩しい。シェイドは拘束台へ縛り付けられていた。両腕。両足。首。全て固定されている。逃げられない。周囲では研究員たちが忙しく機械を操作していた。モニターには心拍数。体温。エネルギー反応。様々な数値が表示されている。その中を月下香が歩く。白衣を翻しながら。まるで研究成果を見に来た教師のような余裕だった。
「始めろ」
命令が下る。機械が動き出す。心臓部に機械を装着する。激痛が走る。
「ぐっ……!」
シェイドの身体が震える。心臓部にはラベジニウムが埋め込まれている。普通の能力者とは違う。インターフェースではない。体内埋め込み型。逃げることも外すこともできない。力と引き換えに自由を奪われる方法だった。
「やめろ……!」
シェイドは叫ぶ。拘束具が軋む。だが外れない。月下香は近付いてくる。
「抵抗するな」
「データが乱れる」
まるで人間相手とは思えない言葉だった。シェイドは睨む。
「お前……!」
その目を見ても月下香は平然としている。むしろ満足そうだった。
「なるほど、ラベジニウムを入れて数か月でここまでの適応率。力も覚醒する頃合いだろう」
モニターを眺める。数値は上昇していた。
「楽しみだ」
研究者の笑み。それは期待だった。人間への期待ではない。実験結果への期待。その目を見た瞬間。シェイドの中で何かが冷えた。怒りを通り越した感情。嫌悪。憎悪。そう呼ぶべきものだった。
・・・
そして夜。実験は終わり。いつもの牢屋。いつもの暗闇。いつもの孤独。地獄のような生活。それが明日も続く。明後日も続く。終わりはない。シェイドは壁にもたれながら息を吐いた。身体中が痛い。だが。今日は何かが違った。胸に手を当てる。心臓。そこから熱が広がっている。鼓動が響く。身体の奥から何かが溢れてくる。熱い。異様なほど熱い。だが不思議と苦しくはなかった。むしろ力が満ちていた。
「……今なら」
小さく呟く。立ち上がる。首輪を手で外そうとする。シェイドは目を見開いた。首輪が軋み、外れる。そして鉄格子へ近付く。両手で掴む。冷たい鉄。今まで何度触れたか分からない。だが今日は違う。力を込める。鉄が軋み、曲がっている。さらに力を込める。金属が悲鳴を上げる。鉄格子が大きく変形した。人一人通れる穴ができる。シェイドは息を呑む。成功した。本当に。逃げられる。その事実に心臓が激しく脈打つ。考える暇はなかった。研究員が巡回に来る前に。見つかる前に。今しかない。シェイドは穴をくぐる。
牢屋の外へ出た。初めての自由。だが立ち止まらない。地下通路を走る。必死に。とにかく遠くへ。月下香から。この研究所から逃げるために。走る。走る。走る。その途中だった。シェイドの足が止まる。通路の奥。自分の牢屋とは別方向。そこにも鉄格子があった。
「……?」
思わず近付く。まさか。他にも実験対象がいたのか。薄暗い牢屋の中を覗く。そこには――小さな少女がいた。白い髪。痩せた身体。年齢は十歳にも満たないだろう。少女は壁にもたれて眠っていた。いや。気絶しているのかもしれない。その姿はあまりにも小さい。あまりにも弱々しい。シェイドは息を止めた。この地獄に。自分以外もいたのだ。少女は物音に気付いたのか、ゆっくりと顔を上げる。ぼんやりとした瞳。そして。鉄格子の向こうに立つシェイドを見た。




