名を変え、顔を捨て
兵士の拳が迫る。エデンは反応出来なかった。兵士の無機質な瞳がエデンを捉える。腕に埋め込まれた機械が唸りを上げる。次の瞬間。重い一撃が振り下ろされた。避けられない。そう思ったその時だった。金属がぶつかる高い音が響く。兵士の拳が弾かれた。
「なっ……!」
エデンが目を見開く。何かが高速で飛来し、兵士の攻撃を逸らしたのだ。床を転がるそれを見る。金色のコインだった。研究室の入口。そこに一人の男が立っていた。紫色の髪。仕立てのいいスーツ。エデンは思わず声を上げた。
「怪盗シェイド!?」
豪華客船で出会った男だった。シェイドは帽子のつばを軽く触るように会釈し、白石を見る。
「久しぶりだな」
口元に笑みを浮かべる。
「私を忘れたとは言わせない」
その口調は相変わらずだった。気障で。芝居がかっていて。どこか詩を読むような話し方。白石はシェイドを見つめる。そしてわざとらしく首を傾げた。
「きみは誰かな?」
「会ったことないだろう」
その言葉にシェイドは小さく笑う。
「なるほど」
「人は仮面を被るものだ」
コインを指先で回す。
「だが、仮面というのは本来、素顔を隠すためのもの」
「素顔そのものになろうとする者は、やがて自分を見失う」
エデンは半分も理解できなかった。ジエルなら今頃「何言ってんだこいつ」と言っていただろう。しかし。シェイドの目だけは笑っていなかった。その視線は真っ直ぐ白石を捉えている。
「名を変えようと」
コインが宙へ舞う。
「顔を捨てようと」
指で弾く。黄金の光が一直線に走った。兵士が腕で受け止める。火花が散る。
「無駄だ──月下香」
研究室が静まり返る。エデンは目を見開いた。月下香。聞いたことのない名前。だが。直感で分かった。その名前は白石へ向けられている。
「月下香……?」
エデンが呟く。白石礼を見る。白石は無表情だった。しかしその沈黙こそが答えだった。エデンの背筋に冷たいものが走る。
(白石礼って名前は……偽名だったのか……?)
シェイドはゆっくりと研究室へ足を踏み入れる。靴音が響く。まるで舞台へ上がる役者のようだった。
「十年以上か」
「随分と探したよ」
その言葉には普段の軽薄さがなかった。静かな怒り。長い年月積み重なった執念。そんなものが感じられた。一方で月下香――いや、白石は小さく息を吐く。
「驚いたな」
「まだ生きていたのか」
初めて。白石の表情から余裕が消えた。それを見たシェイドは微笑む。
「死人扱いとは心外だ」
「私はただ、君という亡霊を追い続けていただけさ」
兵士たちが再び動き出す。しかしシェイドは一歩も引かない。金のコインを指先で弄ぶ。その視線は白石から離れなかった。
「さて」
「長かった追跡劇も終幕が近い」
静かな声。だがその言葉には確かな重みがあった。エデンは困惑していた。怪盗シェイド。謎の研究者・白石礼。そして月下香という名前。点と点がまだ繋がらない。だが一つだけ分かる。この二人は初対面ではない。しかも――かなり昔から因縁がある。
「感動の再会は終わりか?」
月下香は静かにそう言った。その声には余裕があった。むしろ楽しんでいるようにすら見える。研究室の奥で、無数のカプセルが青白く光を放つ。その光が彼の眼鏡に反射していた。
「なら、実験の続きだ...」
月下香が指を鳴らす。その瞬間。兵士の一体のラベジニウムが赤く発光した。手から黒い金属が飛び出した。それは鎖だった。何本もの鎖が蛇のようにうねりながら空間を走る。
「なっ!?」
エデンが反応するより早く、鎖は三方向へ分かれた。エデン。シェイド。そして入口付近へ。鋭い音を立てながら迫る。だが。その途中で。半透明の膜が展開された。鎖が弾かれる。膜が波紋のように揺れた。
「……!」
エデンが振り向く。そこには白髪の少女が立っていた。白を基調とした服装。無表情に近い顔。銀色のブローチ。見覚えがある。
「あれは...」
豪華客船でシェイドと共にいた少女。ルノだった。彼女は静かに腕を下ろす。その前には半透明の膜が何重にも展開されていた。弾力膜。エデンも一度見た能力だ。月下香はそれを見るなり、口元を吊り上げた。
「来たか……」
その声音には驚きよりも納得が混じっていた。まるで予想していたかのようだった。ルノは何も言わない。ただ月下香を見つめる。その視線には警戒が宿っていた。
「シェイド……」
小さく呟く。シェイドは帽子を軽く押さえながら笑った。
「安心したまえ」
「舞台役者は揃ったようだ」
その直後。兵士たちが再び動き出した。エデンは目の前の兵士へ飛び込む。
「くっ!」
拳を掴む。両腕に力を込める。兵士の腕が震える。機械が軋む音。だが押し返される。重い。普通の人間とは比較にならない出力だった。
「止まれ!」
エデンは叫ぶ。しかし兵士の瞳は空虚なままだ。命令しか存在しない。その姿を見ていると、本気で殴る気にはなれなかった。兵士はさらに力を込める。エデンの足元が床へめり込む。
『エデン!』
ケイの声が響く。
『躊躇うな!』
だがエデンは歯を食いしばるだけだった。
一方。残る二体の兵士も動く。そのうち一体はシェイドへ向かう。高速で距離を詰める。拳が振るわれる。しかし。シェイドは微動だにしなかった。
「乱暴だな」
指先でコインを弾く。コインが黄金の軌跡を描く。兵士の拳が逸れる。さらに二枚。三枚。四枚。コインがまるで意思を持つように空中を飛び回る。兵士の関節。装甲の隙間。機械部分。正確に打ち抜いていく。
「力とはね」
シェイドは静かに語る。
「振るう者が美しくなければ意味がない」
兵士は構わず突撃する。しかしシェイドは舞うようにかわす。まるで踊っているようだった。そしてもう一体。それはルノへ向かう。ルノは動かない。兵士が拳を振り下ろす。弾力膜が展開。衝撃が反射される。兵士の身体が後ろへ弾かれる。だが倒れない。再び突撃。ルノはさらに膜を重ねる。何層もの防御。衝撃を反射する。
そして。その全てを見ながら月下香は微笑んでいた。
「なるほど、強いな」
その目はシェイドへ向く。次にルノへ。最後にエデンへ。研究対象を見る目。獲物を見る目。そんな冷たい光だった。
「だが……」
月下香は静かに呟く。
「兵士はまだまだいるぞ」




