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悪魔の洗礼  作者: 東方博
24/35

二十三

 清涼な香りが鼻先を掠めて、野田亮介は振り向いた。

印象に残るがしつこくない。洗練された上品な香りだった。

 すれ違った男性の後姿を何の気なしに眺める。艶やかな黒髪。八頭身の完璧なモデル体型。トレンチコートのベルトが腰の細さを際立たせていた。

(ホストかな?)

 浮かんだ考えを即座に打ち消した。ホストが閉店間際の遅い時間に書店にいるはずがない。一流起業家。御曹司。その類だろうと結論づける。

 野田が勤めている書店は横浜駅から直結しているため客層は豊富だ。老若男女。観光客も外国人も至極当然のごとく来店する。それでもあれほどーー一目でわかるほどの上物は珍しかった。六本木や代官山ならばありえそうだが。

 じろじろ見るのも失礼だと思い、野田はしゃがんでストッカーに新刊コミックをしまった。閉店後には明日発売の雑誌を並べる作業がある。その準備をしなくてはならなかった。よっこらせと独りごちて野田は腰を上げた。

「失礼」

 声の主に向けて顔を上げて、野田の口が半開きになった。

「お忙しい中恐れ入りますが、書籍を探しておりまして」

 歳は二十代後半か三十代前半。肌が驚くほど滑らかでしみひとつない。モデルも真っ青な美男子だった。理知的な瞳。口角を僅かに上げただけの微笑は、少し困っているようで、思わず何でも望みを叶えてやりたくなるほど魅力的だった。

「少し古いものですので難しいかもしれませんが、念のため在庫を確認していただけないでしょうか」

「……は、はい」

 上擦った自分の声を恥じる余裕もなく、野田は検索機まで案内した。

 青年が探していたのは日本語訳の聖書だった。一口に「聖書」と言っても文語訳から新共同訳までと多岐に渡る。サイズも文庫から大判。解説書付きのものや、交読詩篇付きのものやらと、とにかく種類は豊富だ。一覧で書影を確認してもらいつつお目当ての聖書を探す。

「それです」

 青年が検索画面の一点を指差す。先ほどと同じ、さわやかな香りがした。匂いもそうだが発する空気がまるで違う。同じ人種であることが信じ難かった。

「品切れのようですね」

「そ、そうですね……あ、でも、取次には在庫があるので、遅くても二日くらいで入荷しますよ」

 何の気なしに、つまりは無防備に野田は青年の方を向いた。至近距離に端整な顔がある。何よりも惹きつけられたのはその目だ。少し垂れ目気味の切れ長の瞳は深い漆黒の光を湛えていた。薄い唇が言葉を紡ぐ。

「お願いできますか?」

 不意に我に返って、野田は慌てて何度も頷いた。

 客注用の伝票に連絡先など必要事項を記入してもらう。白くたおやかな指が万年筆を走らせる様は、無駄がなく滑らかだ。

 その場から逃げ出したいような衝動に駆られた。落ち着かなかった。野田がしどろもどろに控えの伝票を渡すと、青年はそれを革の手帳に挟んだ。

「三日後に参りますので、よろしくお願いいたします」

 颯爽と去った青年の後ろ姿を呆然と見送った後、野田はおぼつかない足取りで倉庫へと向かった。

(なんだ、あれ……)

 倉庫の壁にもたれ、崩れ落ちる。乱れた呼吸を整えた。自分の心臓がやけにうるさい。鼓動は時間差で高鳴っていた。

 あんなのは、知らない。

 銀座だろうが赤坂だろうがあんな青年はいない。見たことも聞いたこともない。ただそこに立っているだけで惹きつける。性を感じさせない。清廉でありながらも底知れない何かを内包している。覗いたら最後、二度と戻れなくなるような気がする。だが、覗いてみたくなる。触れてみたくなる。手を伸ばしそうになる。

 魔性、という単語が脳裏に浮かんだ。危険な香りがするのに逃れることができない。恐ろしいのに目をそらすことができない。

(三日後……)

 野田は連絡ボードに貼ってあるシフト表を見た。金曜日の夜。亜紀と会えると心待ちにしていたはずの日が来るのが、今ではただ怖かった。

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