6.兄の友人
もう一度会いたいと願っていた。かつて終わりの瞬間にも強く願ってしまったほどに。
けれど、もう一度会って、それからどうするかは全く考えていなかった。だって会えるなんて思っていなかった。会いたいと願っていても、それは不可能なのだと諦めてもいたのだ。
”彼”にもう一度出会えたら、”私”はどうしたかったのだったっけ。
向かい合わせのソファで、兄がお茶を飲みながら最近の出来事をテンポよく緩急をつけて話している。話上手な兄のおしゃべりは、普段であれば笑いながら聞くところだ。けれど今は、楽しい話も耳を素通りしてしまっていた。
兄に訊ねたいことがある。でも訊くのは躊躇われる。訊きたいけれど訊けないという葛藤が、本来なら楽しいお茶の時間を邪魔してしまう。
兄のティーカップがカチャリと小さな音を立てて置かれ、散漫になる意識が引き戻される。兄に視線を向けると、にこりと笑顔が返された。
「今年の休暇はカントリーハウスにナターシャも招待しようと思っているんだが、構わないかい?」
「ナターシャ様をですか? もちろんです。ナターシャ様と一緒に休暇を過ごせるのは嬉しいです」
ナターシャ様というのは、何を隠そう兄の婚約者である。
妹への愛が非常に重いシスコンの兄であるけれど、実は相思相愛の婚約者がいる。
わたしの一歳年上のナターシャ・カーク子爵令嬢は切れ長の瞳の物静かな方で、豪快なタイプの兄とは正反対と言っても過言ではない。けれどそんな二人はとても仲睦まじく、寄り添う姿も自然で絵になる。
「結婚式に向けてこれからどんどん忙しくなるだろう? その前に二週間ほど、領地でのんびり過ごしてもらいたいんだ。セラフィナとの仲も深められるしね」
「あら、ナターシャ様とは充分仲良くさせていただいていますよ。先日ついに『お義姉様』とお呼びする許可も頂きましたし」
きょとんと目を丸くした兄だったが、すぐに嬉しそうに破顔した。『お義姉様』と呼ばれる婚約者の姿を想像して幸福を噛み締めている兄の内心が目に見えるようだ。
兄とナターシャ様は出会った瞬間に恋に落ちた――というのは、兄の談である。最初は兄の勝手な妄想ではないかと疑ったけれど、婚約を申し入れてすぐにそれが受け入れられ、二人が一緒にいる姿を見ればそれが真実なのだとわかる。本当に二人は互いを思い合う恋人同士なのだ。
――恋。かつての”私”が抱き続けたもの。そして今もなおくすぶり続け、再び息を吹き返そうとしているもの。
でも騒ぎ出すこの心は果たして恋なのだろうか。
一瞬会っただけの兄の友人――エドワード様。
一瞬だったけれど強く心が惹かれたのは確かだ。それこそ彼は”彼”だと強く感じるほどに。けれど、それがそのまま恋であると判断するのは早計であると冷静に思う自分もいる。だってわたしはエドワード様のことを何も知らない。知っているのは兄の寄宿学校時代からの友人だということだけだ。
エドワード様のことをもっと知りたい。けれど兄に訊いて良いのかわからない。わたしが特定の異性について訊ねるということは、その人に興味を持っていると明らかにすることと同じだ。今のわたしがそれをやっていいのか、わからない。
俯いて黙り込んでいると、対面から兄に「セラフィナ」と呼ばれた。
「エドワードが気になるかい?」
続けて問われた言葉に、目を見開く。一瞬息が詰まったけれど、普段からわたしの様子をつぶさに観察している兄が、今のわたしの状態に気づかないわけがなかった。
「……気になる、というか……」
どう表せばいいのだろう。エドワード様のことが知りたい、それは間違いない。どんな人なのかとかどんなものを好むのかとか。……前世を覚えているのか、とか。
言葉に迷っていると、兄が小さく苦笑する気配が降ってくる。見ると、慈しむような表情でセラフィナを見守っていた。
その表情に背中を押されるように口を開く。
「知りたい、です。エドワード様のこと」
「そうか。なるほど、まさかエドワードとはね」
何やら含みのある言い方に首を傾げた。兄はいたずらっぽく肩を竦める。
「セラフィナの運命の相手がどんな人なのかいろいろ想像していたんだが、まさかエドワードだとは思わなかった」
「運命……っ、とか、そういうものでは……」
決してそういうものではない、と思う。でも前世で恋した人の生まれ変わりというのは、言いようによっては運命と言えるのかもしれない。いやでもエドワード様にその記憶があるかなんてわからないし、そもそも万が一記憶があったとして、エドワード様もわたしに会いたいと思ってくれていたかどうかなんて断言できない。むしろどちらも違う可能性の方が圧倒的に高い。それを運命なんて言ってはいけない気がする。
「まあ、今はそういうことにしておこう。エドワードとは寄宿学校で出会ったんだ」
そうして兄が語ったエドワード様に関する情報は、こうだった。
先に紹介してもらったとおり、兄とエドワード様が出会ったのは寄宿学校でのこと。エドワード様は内務長官を務めるフォード伯爵の一人息子で、兄と同い年の現在二十二歳。寄宿学校では寮の隣の部屋だったことから、すぐに親しくなったらしい。とても勤勉なタイプで、寄宿学校での成績は常にトップクラスだったそうだ。それだけでなく武術や剣術も優れていて、どこをとってもおよそ欠点というものが見当たらない完全無欠を絵に描いたような人物であるらしい。
フォード伯爵は伯爵位といえど内務長官を務めるほどに優秀な方で、その一人息子であるエドワード様にも相応の期待が掛けられている。それを裏切らない努力家な面に加え、決して驕ることのない人柄で、友人はとても多いとのことだった。
”私”が知る”彼”も、努力家だった。部活の朝練には毎日参加していたし、放課後の部活でも常に練習に励んでいた。ただ、あまり勉強は得意ではなかった。朝練で疲れ切っていることも多く、授業中にこっそりと居眠りをする姿を目にしたことも少なくなかった。エドワード様は勉学も優れているそうなので、そこは”彼”とは違うようだ。
ぼんやりとした輪郭しかなかったエドワード様が、兄からもたらされる情報によって少しずつ鮮明になっていく。わかるのは表面上のことだけだけれど、何もわからないままよりずっと良い。
この世界での”彼”は非の打ちどころのない、とても優れた人物だった。
「ちなみに、今までエドに懇意にしている異性がいると聞いたことは一度もない」
付け加えられた言葉に、不意に息を止める。
思わず兄を見ると、眉を上げて見返してきた。
見守るようなその表情は、決してからかうものではない。ただ純粋に、情報の一つとして伝えてくれたものだとわかる。
まだ、この焦燥にも似た感情が恋なのかはわからない。まだそれを吟味できるほど、わたしの心は衝撃を受け止め切れていない。ただただ魂が震えるような衝動。
それでも、兄によってもたらされた最後の情報は、わたしの心をひどく安堵させた。
「エドは社交会にも頻繁に出ているから、これから顔を合わせることも増えると思うよ。もちろんそれとは別に、機会を見てまた家に誘ってみよう。まずは話をしてみることから始めるといい」
言って、兄は冷めてしまったであろうお茶を一口飲んだ。つられるようにわたしも一口、お茶を飲む。すっきりとした喉ごしに小さく息をついた。
「お兄様は……反対なさらないのですか?」
兄の様子を見る限り、特段反対しているようには見えない。どちらかというと協力姿勢であるように思う。
「お兄ちゃんはいつだってセラフィナの味方だからね。セラフィナの幸せを何よりも願っているんだよ」
パチリと片眼を瞑って言う姿はいつも通りで、どこまでが本気なのかわからない。その軽さが今のわたしにはとてもありがたかった。




