19.後悔
その瞬間、衝動のままにカフェのテラス席から走り出していた。
嫌。嫌だ。またそんな風に終わってしまうなんて、嫌。
駆け出したわたしを呼ぶマーガレットの声が後ろから聞こえたけれど、止まる余裕なんてなかった。
目の前で起きた出来事はまるで悪夢のようだった。
大通りの宝石店から出て来たエドワード様を見つけて、どうしても彼から目を離せなくて。見つめているうちに起きた、ほんの数瞬の出来事だった。
エドワード様の近くを歩いていた小さい子供が車道に転がり出ていった丸い何かを追いかけていき、危ないと思った瞬間にエドワード様が駆けだして、そのまま子供を抱き込むように転がったその場所に馬車が迫って。直後に大きな音と誰かの悲鳴が響いて、わたしは椅子を蹴倒して走り出した。
普段走ることのない令嬢の体は思うように動いてくれない。手が震える。脚が震える。恐怖が全身を襲う。それでもわたしは必死に走る。
駄目。お願い、いなくなってしまわないで。またあの時のように、何も告げられないままいなくならないで。まだわたしはあなたに何も伝えていない。また、伝えていない。
心臓が痛いくらいに音を立てている。まるであの時みたいだった。嫌でもあの時の光景が脳裏に浮かぶ。
鉛のように重い脚を必死に動かす。人混みが近づくと、子供の泣き声や誰かが「早く医者を!」と慌てて叫ぶ声、各々に何かを言っている騒めきが鮮明になる。
やっとの思いで辿りついたそこには、変な角度で街灯にぶつかった馬車と、石畳の車道に横たわるエドワード様の姿があった。
「……エドワード様っ!」
目の前の光景とかつての光景が重なる。アスファルトに広がる鮮やかな赤と、その真ん中に横たわる漆黒。今がいつで、ここがどこなのか分からなくなりそうだった。
けれど目の前に広がるのは赤でも黒でもない。今ここに横たわっているのは、エドワード様だ。
駆け寄って必死にエドワード様を呼ぶ。すると近くで医者が来るのを待っていたらしい男性が「君、彼の知り合いかい」と訊ねてきた。涙が零れそうになるのを堪えながら震える口で彼がエドワード・フォードという伯爵令息であることを伝える。それを聞いた男性は、近くにいた人にフォード伯爵家へすぐに連絡をするようにと指示を出している。
まるで膜を張ったように世界の音が遠く聞こえる中、わたしはただただエドワード様を見つめた。出血の様子は見られないけれど、意識を失った顔は青白い。もしかしたら頭を強く打っているのかもしれない。
「エドワード様……!」
すがりついてしまいそうになるのを必死に抑えて、わたしはただエドワード様の名前を呼び続けていた。
怖かった。ただひたすら怖くて、とうとう零れてしまった涙を拭う余裕もなく、震える手を祈るように組んでいることしかできなかった。
だってわたしはこれと似た光景を見たことがある。生まれ変わっても尚鮮明に記憶に残るほどの衝撃と共に、その光景はわたしの魂に焼き付いている。
やっともう一度会うことができて、決して道が交わることはなかったとしても、この世界に彼が生きているだけで、それは奇跡にも等しかったのに。
もう二度とこんな風に失いたくなんてない。それでもわたしにできることなんて何もなくて、急に走り出したわたしを追いかけてきたマーガレットに肩を抱かれても反応を返すことすらままならなかった。
誰かが呼んできたらしく駆け付けた近隣の医者がその場で手早く応急処置をする様を、まるで紗がかかったような意識で見守った。そうしているうちにエドワード様の迎えの為に近くまで来ていたらしいフォード家の馬車と使用人がやって来て、医師を付き添わせてエドワード様を馬車に運び込む。
その際にエドワード様について名前や家の情報をもたらしたわたしのことを聞いたのか、フォード家の使用人が急ぎながらわたしに声を掛けてきた。震える口で上手に答えられないわたしの代わりにマーガレットがわたしの名前を告げてくれる。後程主より連絡いたします、という言葉と共に使用人が馬車に乗り込み、意識がないままのエドワード様と共に去っていった。
後には騒然とした人だかりと、街灯にぶつかったままの馬車、そして、おぼつかない足取りのわたしとそれを支えるマーガレットが残される。
「セラフィナ、きっと大丈夫よ」
マーガレットが励ましてくれる言葉に、ただすがるように頷くしかできなかった。
結局わたしの震えが収まったのは、迎えにやってきた馬車に揺られてベイリー邸に帰りつき、心配する両親と兄にも満足な返事ができないまま部屋に籠り、夜になってフォード伯爵からエドワード様の無事と感謝を伝える手紙が届いてからだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エドワードが目を覚ますと、いつもの自室の天井が目に入った。なんだか妙にたくさん寝たような気がして、行儀悪くベッドの中で体をぐっと伸展させようとする。
「――っ!」
ところが腕を頭の上に伸ばそうとしたところで走った鈍い痛みに、息が詰まった。よく見れば腕には包帯が巻かれていて、しかも伸ばそうとした体も全体的にきしむような痛みを訴えていることに気づく。
一瞬何が起きたのかわからなくなって目を白黒させるが、そこでふと意識を失う直前のことを思い出した。
そうだ、確か馬車にひかれそうになっていた子供を庇ったんだった。
迫って来る馬車の光景が瞼の裏に甦った。もう駄目かと思ったが、どうやら無事だったらしい。無傷とはいかなかったようだが、ざっと全身を点検して見る限り、痛みはあるもののそれほど大きな怪我はしていないようだった。
痛む体を押してゆっくりと上体を起こす。薄暗い室内を見る限り今は宵の口か、それとも早朝だろうか。
喉の渇きを覚えてサイドテーブルに用意された水差しからグラスに水を注ぐ。利き手である右腕が痛んで少しやりづらかったが、どうにか問題なく動いて一安心した。少しぬるくなってしまっている水を一気に呷ると、大きく息を吐いた。
自室のベッドで目を覚ましたということは、誰かが家に連絡してくれたのだろうか。
薄暗い中時計を確認すると、そろそろ日付が変わろうという時刻だった。この時間に使用人を呼び出すのも気が引けるが、状況を把握する為にも一度話を聞いた方が良いだろう。
使用人用の呼び鈴を鳴らすとすぐにメイドがやって来て、続けて父も部屋に入って来る。まさか使用人用の呼び鈴を鳴らして父まで現れるとは思わず、エドワードは足早にやって来た父に目を瞬かせた。
「目が覚めたんだな、エドワード。よかった……本当に肝が冷えた」
ベッドサイドの椅子に座って腹の底から安堵の息を漏らす父は、なんだかいつもより小さく見えた。
「申し訳ありません、ご心配をおかけしました」
息子が馬車の事故にあったと聞かされたなら、大層心配をかけてしまったに違いない。幸い小さな怪我で済んだようだが、一歩間違えれば命を落としていた可能性だってあった。何がどうして無事に済んだのかエドワード自身にもよくわかっていないが、どうやら自分は思ったよりも運が良かったようだ。
「本当に心配したよ。イライザも倒れそうなほど心配していたから、朝になったら元気な顔を見せてやりなさい」
「はい」
母であるイライザには、小さい頃から熱を出す度に何度も心配をかけていた。大人になってからは体調を崩すこともほとんどなく心配をかけることもなくなっていたが、さすがに今回はだいぶ心配をかけてしまったようだ。父の言う通り、朝になったらきちんと安心させてあげなくてはと心に刻む。
「……偉そうに言ったが、そもそも私がお前におつかいを頼まなかったらこんなことにはならなかった。すまない」
父は父で思うところがあったらしく、いつになく弱気な発言をする。確かに父におつかいを頼まれなければエドワードはあの場所にいなかったが、決して父のせいだったとは思わない。
そこでエドワードはハッとする。そうだ、おつかい。父から大切なおつかいを頼まれていたのだ。
「父上、受け取った品物は無事でしたか?」
あの時宝石店で受け取った品は懐に入れていた。エドワードにはだいぶ派手に転がった自覚がある。懐の品物は無事だっただろうか。
「ああ、大丈夫だったよ、ありがとう」
「それはよかったです。今回の事故は決して父上のせいではありません。あの時の行動を決めたのは私自身ですから。あの男の子は大丈夫でしたか?」
できるだけ抱き込んで衝撃から守ったつもりだったが、どうなっただろう。
「ああ、小さなかすり傷はできてしまったが、無事だよ。お前が守ったからだ。少年の母親も何度もお礼を言っていた」
「そうでしたか。だとしたら、私はあの場所に居られてよかったと思います。一組の親子を守ることができたわけですから」
それだけで自分の行動には意味があったと思える。その分両親には心配を掛けてしまったが、そこはしっかり謝って許してもらうしかない。
それにしてもあの後どうなったのだろうか。父に訊ねると、どうやらいよいよエドワードたちに馬車が迫ったところで、車輪が車道に落ちていた石に乗り上げて馬車のバランスが崩れたらしい。その結果軌道が変わって馬車は車道脇の街灯にぶつかり、エドワードたちに直撃することは避けられたようだ。馬車は街灯に当たったものの御者にも大きな怪我はなく、馬車にも人は乗っていなかったそうで、馬車の破損だけで済んだらしい。
エドワードは勢いよく転がり込んだ際に腕を捻挫したのと、破損して飛んできた馬車の部品がぶつかってしまって打撲を負ってしまったようだが、医者によると命にかかわるような怪我はないとのことだった。あの瞬間は死を覚悟したが、つくづく運が良かった。
何にせよ、危うく今世でも親不孝をしてしまうところだった。それを繰り返さずに済んでほっと胸を撫でおろした。
「事故の時近くにいたご令嬢のおかげですぐにお前の身元がわかり、迅速に対応することができたんだ。私から手紙を出しておいたが、お前からもきちんと礼状を出しておきなさい。だいぶ心配して取り乱していたそうだから」
「令嬢? どなたですか?」
あの時エドワードは一人だった。近くに見知った令嬢もいなかったはずだが、一体誰だろう。
「ベイリー子爵家のご令嬢だ。確か子息とはお前も仲が良いのではなかったか」
返って来た父の言葉に驚愕で目を瞠る。ベイリー子爵家の令嬢、それはつまり。
「セラフィナ嬢、ですか……?」
「ああ、そうだ。ちょうど近くで友人と買い物をしていたようで、エドワードの事故を目撃してすぐに駆け付けてくれたそうだ」
唇が震えそうになり、エドワードは思わず掌で口元を覆った。
まさか、あの場所にセラフィナがいたとは思いもしなかった。彼女は事故を目撃していたのか。
――また、彼女の前で事故に遭ってしまったのか。
その事実に背筋が凍る。
あの瞬間、エドワードは自分の後悔で頭がいっぱいだった。しかしそんなことよりも気にしなければならない存在がそこにいたのだ。二度も目の前で事故に遭った自分の姿を見せてしまったであろうという事実が、強い罪悪感を呼ぶ。
エドワードは前世での最期のことは明確には覚えていない。大型車が迫って来て衝撃を感じたところまでは覚えているが、その後”彼女”がその場を目撃したかどうかまでは分からない。しかし学校のすぐ目の前の道路での出来事で、しかも”彼女”は校庭での部活動中だった。騒ぎに気づいて現場を見に来たと考えるのが妥当だろう。
きっと”彼女”は見たはずだ。どんな風になってしまっていたかは分からないが、少なくとも死に至るほどの衝撃を受けた”俺”の体を。
そこまでセラフィナが覚えているかはわからない。しかしもしも覚えていたとしたら、きっと今回の光景も少なくない衝撃を与えたはずだ。
「……彼女に心配をさせてしまうなんて……」
零れた言葉は口元を覆った掌のせいでくぐもっていたが、父には聞き取れたらしい。意外そうに眉を上げて、動揺を隠せないエドワードを観察するように見ている。
「……エドワードにとって大切なお嬢さんのようだね」
訊ねるというより確認するように問われた言葉に束の間ためらったが、エドワードはしっかりと頷いた。
「はい」
「ならば尚更、ちゃんと安心させてあげなさい」
手紙でエドワードの無事を知っても、きっとまだ不安を感じているに違いない。きちんと元気であることを伝え、それから、他にも話さなくてはならないことがある。
彼女を傷つけるだけでなく不安に晒してしまった。許されるかは分からないが、もう一度きちんと向き合わなくては。
エドワードは決意を固め、父にいくつか許可を得て早速手紙を書こうと頭の中で計画を立てた。




