17.兄と妹
フェリクスが六歳の時、妹ができた。
初めて見る妹という生き物はとても小さくて柔らかくて、恐る恐る触るととても温かかった。教会に飾ってある宗教画に描かれた天使とよく似たその生き物に、幼いフェリクスは心を鷲掴みにされた。
これが妹――そう思うとなんだか自分がとても大人になったような気がして、この小さい生き物をしっかり守っていこうと思ったのだ。
セラフィナと名づけられたその小さな存在は、しばしば高熱を出して両親をとても心配させた。もちろんフェリクスも心配だったが、両親からあまり細かい病状を知らされていなかったこともあり、実際にはどれくらいセラフィナが苦しんでいるのか、よくわかっていなかったのが事実だった。
頻繁に熱を出しながらもセラフィナは成長し、少しずつ言葉を覚えてくると、時折不思議なことを言うようになった。自分は子供ではないとか学生だとかなんだかよくわからない文明めいた道具があるとか聞いたこともない国の名前だとか。
まだほんの子供だったフェリクスも世界の全てを知っているわけではない。だからその内容がどれだけ奇異な物なのか明確にはわからないながらも、妹の話はとても奇妙なものだということだけはわかった。
幼子の妄想というにはあまりに奇抜な内容に両親も戸惑っていたようだったが、医師が急激な脳の発達段階で生じる妄想の可能性を指摘したことから、とりあえず成長を見守ろうということになったようだった。
しかしフェリクスはそうは思わなかった。奇妙な世界の話をする時の妹はどこか大人びていて、それがただの妄想とは思えなかったからだ。
そしてある日、それを決定づける出来事があった。
その日もセラフィナは高熱で寝込んでいた。両親からは妹に近づかないようにと言われていたが、フェリクスは人目を盗んで寝込んでいるセラフィナの元を訪れた。好奇心からではない。ただ、怖かったのだ。天使のように愛らしい妹が頻繁に熱を出しているなんて、まるで天がそのまま妹を連れ去ってしまおうとしているのではないかと思えて、怖かったのだ。
だから妹の無事を確認する為にこっそりと妹の部屋に忍び込んだ。そこには高熱で顔を真っ赤にしてうなされる妹の姿があった。
妹がちゃんと生きていることを確認すると同時に、苦しそうなその姿にフェリクスは胸が痛くなった。
何かできることはないかと恐る恐る妹に近づき、汗で張り付く前髪をそっと払う。すると熱に浮かされた瞳がうっすらと開き、何かを探すようにさまよった。
「……く……」
ぼんやりと小さな口が何かを紡ぐ。あまりに小さくかすれていた為よく聞き取れなかったフェリクスは、妹の口元に耳を近づけた。
「……あ……ざ、く……」
なんだろう? あ、ざ、く?
かろうじて耳が拾うことができた音をつないで意味を考えてみる。と、薄く開かれた妹のアンバーの瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「……っ!」
眦から枕へと落ちる涙にフェリクスは強い衝撃を受けた。
幼いセラフィナは、当然普段から泣くこともあった。しかし今のこの涙はそれとは全く違った。もっと切なく痛々しい、まるで大人の女性がこぼすような。
何かを掴もうと必死に伸ばされたセラフィナの手を慌てて掴む。掴んでいないと、本当に大事な妹が消えてしまいそうな気がした。
「セラフィナ、大丈夫だよ。お兄ちゃんはちゃんとここにいるから」
聞こえているのかいないのかわからないが、何か言わなくてはと必死に伝える。
妹の茫洋とした眼差しはフェリクスに向けられることはなく、再び宙をさまよっている。
「あ、い……ざ……く……」
もう一度セラフィナの口が何かを紡ぐ。
「あい、たい……」
消え入るような声で、絞りだすように、まるで懇願するように。
そう言って、妹は体力の限界だったのか赤い顔のまま眠りに落ちた。
あいざく……アイザックだろうか。セラフィナはその人に会いたがっているということだろうか。こんなにも苦しそうに。
この時、フェリクスはセラフィナが普段語る話がここではないどこか別の世界の話で、それはセラフィナの前世であると確信した。そしてセラフィナは”アイザック”という人間に会いたがっている。それはきっと生まれる前からの強い願い。だったらその願いは兄である自分が絶対に叶えてあげようと思った。
「大丈夫だよ、セラフィナ。お兄ちゃんが絶対にセラフィナの大事な人に会わせてあげるからね」
その後こっそり妹の部屋に忍び込んでいるのを見つかって両親にはこっぴどく叱られたが、フェリクスの決意の前では、そんなことはどうでもよかった。
更に成長して五歳くらいになると、セラフィナは熱を出すこともなくなり、それと同時に奇妙な話をしなくなった。本当にただの一過性の妄想だったかのように、別の世界の話は一言たりとも言わなくなったのだ。
フェリクスはもしかしてセラフィナは前世を忘れてしまったのだろうかとも思ったが、ほどなくしてそうではないと悟った。
時折遠くを見つめる妹の瞳。それから、両親が安心するような年齢相応の振る舞い。それらはごく自然なもののように見えたが、両親を心配させない為にあえて前世の話を封印したのだとわかった。
意図的に前世の話をしなくなった妹に、フェリクスからその話題を差し向けることはできない。今ある情報だけで妹が会いたがっている人間を探さなくてはならなくなった。
わかっているのは”アイザック”という名前だけ。それすらもうわごとを聞き取っただけのもので、もしかしたら違う名前かもしれない。まだ子供のフェリクスが名前一つで人を探すなんてできるわけもなく、日々を悶々と過ごすことしかできなかった。
貴族の子女は社交界デビューするまでは正式に社交に出ることはないものの、家族ぐるみの付き合いでガーデンパーティー程度への参加は幼いころから行われている。フェリクスとセラフィナも他の貴族子女と同様、両親に連れられて小さなガーデンパーティーに何度か参加したことがあった。
何度目のガーデンパーティーでの出来事だったか定かではないが、フェリクスは妹の視線が時折無意識に何かを追っていることに気づいた。何を追っているのかと注意深く観察してみると、どうやら濃い茶色やブルネットといった暗い髪色に視線が向いているらしい。
まるで吸い寄せられるように動く視線は何かに焦がれるようで――セラフィナが探しているのは暗い髪色の人間なのではないかとひらめいた。更にもっと観察していると、対面した相手が暗い色の瞳をしている時も、セラフィナは痛みを堪えるようにその目を見ていることに気づいた。
暗い髪色と瞳の”アイザック”、あるいはそれに近しい名前の人。セラフィナが探しているのはその人だ。
ヒントが増えたことに高揚する。今はまだフェリクスの交友関係は狭い。しかしあと数年すれば寄宿学校に入学して、交友関係を広げることができる。そうすればセラフィナが探している人の手がかりが見つかるかもしれない。
寄宿学校に入学すると愛しい妹とは別に暮らさなくてはならなくなる。そう考えると寄宿学校になんて行きたくないと思っていたが、セラフィナの探し人を見つけられる可能性が広がるなら、存分に学校生活を活用しようと思えた。
十三歳になり寄宿学校に入学すると、フェリクスは手当たり次第に人脈を広げていった。同室の生徒や隣室の生徒、同じ教室で学ぶ同級生たち、それだけに留まらず上級生下級生、身分を問わず、積極的に話しかけて友人関係を築いていく。
その中で最もセラフィナの探し人に近い条件を持っていたのが、アイザック・レイハート侯爵令息だった。アイザックという名前とブルネットの髪を持つ侯爵家の嫡男。子爵家である自分と侯爵家であるアイザックとでは身分に差があるが、時間を掛けてそれすら跳ねのける親しい友人関係を築いた。幸いアイザックもあまり身分を気にするタイプではなく気安い性格だった為、無事友人に収まることができた。
しかしすぐにセラフィナが住むカントリーハウスに招待してセラフィナに会わせることはできなかった。一人だけ招待するとその意図が明白すぎてしまう。他にも何人か招待できる友人を作り、さりげなく呼ばなくてはならない。
そうして準備が整うのに二年かかり、十五歳の時、晴れてアイザックを含む友人数名を領地のカントリーハウスに招待した。休暇を利用して招いた友人たちのうち、アイザックだけ偶然を装ってセラフィナに紹介する。これできっとセラフィナの願いが叶う。そう思っていた。
結論から言うと、アイザックはセラフィナの求めている人ではなかった。
セラフィナにアイザックを紹介した時、セラフィナは少女らしくはにかむ姿を見せたものの、それだけだった。当たり障りのない挨拶をして、それ以上に興味を引かれた様子はなく。ブルネットの髪には確かに目を向けていたが、それだけだったのだ。
どういうことだ。セラフィナが探していたのはアイザック・レイハートじゃないのか。
はにかむセラフィナはそれはもう可愛らしかったが、アイザックもいつも通りの態度。もっと違う反応を期待していたフェリクスは愕然とした。まさかセラフィナの探す相手がアイザックではないなんて思わなかったのだ。
それから、フェリクスは焦った。幸い無駄に広げた交友関係のおかげで、他にもアイザックに似た名前で髪と瞳の色が暗い人物は何名か思い当たった。
翌年も次こそはと意気込んで数名をカントリーハウスに招待してセラフィナに会わせたが、やはりこれもまた空振りに終わった。アイザックと似たイサークという名前の伯爵令息やアイゼンという名前の男爵令息にも、セラフィナは特別変わった反応は示さなかった。
もしや本当にセラフィナは前世のことを忘れてしまっているのではないか。そんな懸念が脳裏を過る。しかしやはりセラフィナは暗い髪と瞳に反応するし、そんな時はいつも切なそうな表情を浮かべている。やはりセラフィナは”その人”を探していて、それは今までフェリクスがセラフィナに紹介した男たちではなかったのだろう。
フェリクスはますます躍起になって交友関係を広げ、再びセラフィナの探し人に該当しそうな人物を探した。
この頃になると、両親に対してもセラフィナの縁談は全て断るように根回しをしておいた。両親はフェリクスのシスコン故の行動だと思ったようだったが、好都合だった。妹を嫁に出したくない兄が防壁となっている構図を作り、その間にセラフィナが会いたがっている相手を探す。
そうして何の成果も得られないまま、数年が経過してしまっていた。
今度こそは、と思ってセラフィナに会わせてみても、一向に芳しい反応は見られない。もしや相手は平民だったり外国の人なのではないかとますます焦る。平民や外国の人までしらみつぶしに探すのは難しい。どうにかセラフィナをその人に会わせてあげたい。そして幸せになって欲しい。
ままならないままあっという間にセラフィナも社交界デビューを迎えることになり……
フェリクスの交友範囲の中で目ぼしい相手の全てを紹介しつくしても、探し人は見つからなかった。
自分も来春には結婚を控える身である。これ以上どうやって探せばいいだろうかと臍を嚙みそうになっていた時に、セラフィナはついに出会った。エドワード・フォードという、フェリクスの寄宿学校時代からの友人に。
まさか。それがフェリクスの最初の感想だった。エドワードの髪はプラチナブロンドだし、瞳はヘーゼルだ。セラフィナがいつも目で追っていたのとは全く違う色だ。名前だって”アイザック”とは似ても似つかない。本当にエドワードがセラフィナが探していた相手なのか?
しかしそんな疑問はセラフィナを見れば一瞬で吹き飛んだ。
まるで信じられないものを見るようにエドワードを凝視する瞳。驚愕だけでなく震える唇と上気した頬。一瞬泣きそうに歪められた眉。
やっと会えたと全身が訴えるその様子が全てを物語っている。セラフィナは彼に――エドワードに会いたかったのだ。
思いがけなかったのは、エドワードの反応だった。いつも崩れることのない社交用の仮面が、セラフィナと出会った瞬間に崩れた。仮面はすぐに修復されたが、どこかいつもと違うエドワードの様子。まるで自分がナターシャと初めて出会った時のようなその様子に、再び「まさか」と思った。
エドワードもまた、セラフィナを探していたのか?
その前提でこれまでのエドワードを振り返ってみると、今更ながらセラフィナとの共通点が多いことに気づく。
幼少期にはよく熱を出してフォード伯爵夫妻を心配させていたという過去の話、フェリクスが痛ましく感じてしまうほど親孝行を優先しようとする姿勢、そしてエドワードもまた社交会で暗い髪色を目で追う癖。
エドワードも暗い髪色を目で追っていることに気づいたのはずいぶん前のことだった。その時のフェリクスは、名前や髪色が探し人とはかけ離れていることから、エドワードは単純に暗い髪色が好みなのだろうと思っただけだった。しかしこうやって全てのパーツが揃ってみれば、こんなにもセラフィナとの共通点だらけではないか。
エドワードから前世の記憶があるなんて話を聞いたことはない。それはそうだろう。セラフィナでさえ家族である両親やフェリクスにそんな話はしないのだから、エドワードがただの友人であるフェリクスににわかには信じがたい話をするはずがない。
しかしフェリクスは確信した。エドワードには前世の記憶があり、彼もまたセラフィナを探していたのだ。
それは途方もない奇跡のような確率の出来事だ。互いに前世の記憶を持って生まれ、そして出会った。これを運命と呼ばずして何と呼ぶのか。
運命の出会いを果たした二人は、絶対に幸せにならなくてはならない。ましてフェリクスにとって目に入れても痛くないほど可愛い妹と、長年交流のある親しい友人だ。
これ以上二人が離れてしまうことがないように、フェリクスは出来ることはなんでもしようと心に誓った。どうか二人が幸せになれるようにと。




