16.エドワードとフェリクス
エドワードは、フォード伯爵邸に設けられた自分用の執務室で、父親であるフォード伯爵から任されている業務に関する書類を処理していた。
束のように積みあがった書類を黙々と読み、内容を吟味して必要があれば修正し、問題がなければサインをして処理済みの書類置き場に入れていく。
三年ほど前から任されるようになったこの作業は、集中力を使う。その分労力も必要になるものの、今のエドワードにとっては何かに集中していられる時間がことのほかありがたかった。
エドワードは使用人を出ていかせた執務室で、溜まった書類を処理し続けていた。人の気配があるとどうしても気が散ってしまうから、集中する為には一人きりの方が良い。……のだが。
エドワードは書類から目を上げてこめかみを揉んで大きく溜息をつき――まるで自宅のようにソファでくつろいでいる友人に目を遣った。
「……フェリクス。言いたいことがあるなら早く言ったらどうだ」
かれこれ三十分ほど前からそうしていたフェリクスは、ひょいと片眉を持ち上げた。
フェリクスは書類仕事をしているエドワードの元に突然やって来て、そのまま何をするでもなく居座っている。使用人が退室前に用意していったお茶は既に冷め切ってしまっているだろうが、気にした様子はない。
子爵家の人間であるフェリクスが伯爵家に突然やって来て嫡男の部屋に居座るというのはマナー上眉をひそめられるべき行為であるが、フェリクスとはそういう男である。そもそもエドワードはフェリクスのそういった気安さも気に入って友人を続けているので、それ自体を咎めるつもりはない。以前からフェリクスはたびたびそうしてフォード邸を訪れていたし、使用人たちも慣れたもので、あっさりとフェリクスをエドワードの執務室に通している。
いつもならエドワードが書類仕事をしていても一方的に話しかけてくるフェリクスだが、今日はただ黙ってお茶を飲んでいる。その気まずさに気づかぬふりをして書類に集中していたが、エドワードはついに根負けして大きな溜息を吐いた。
手にした書類を机に放り出し、呼び鈴を鳴らす。即座にやってきた使用人に新しいお茶の用意を申しつけると、フェリクスがくつろいでいる対面のソファへと腰を下ろした。
丁度喉も渇いていたところだ。新しく注がれた熱いお茶で喉を潤し、反対側のフェリクスを見る。相変わらず飄々とした表情を浮かべているかと思いきや、思いのほか真剣な眼差しが返ってきた。
今フェリクスがここにいる理由。エドワードが想像する限り、その理由はたった一つだけだ。
「……妹から何か言われたのか」
だからここにいるのではないか。エドワードを咎める為に。
しかし予想に反してフェリクスは肩を竦めた。
「セラフィナは何も言わないよ。あの子は私や両親に心配をかけないようにしているからね。今日はただ私が君に訊きたいことがあったから来ただけだよ」
「訊きたいこと?」
思いがけない内容にエドワードは首を傾げる。
フェリクスは組んでいた脚を解いた。じっと、表情の変化を見逃さないと言わんばかりにエドワードを強く見つめる。
「エド、君には――前世の記憶があるだろう?」
「え――」
今、フェリクスは何と言った?
前世と言ったか?
何を馬鹿な事をと笑い飛ばそうとして、しかしエドワードの口は固まったように動かない。
そんなエドワードを観察するように見ていたフェリクスは、やはりと頷いて小さく息を吐いた。
「少し考えればわかることだったんだ。君は――君とセラフィナは、とてもよく似ているから。セラフィナにも君にも、前世の記憶があるんだね」
フェリクスは何を言っているんだろう。そう思うのに、フェリクスの言葉は既に断言するもので、彼が結論を導き出していることが伺えた。
エドワードには確かに前世の記憶がある。そして、セラフィナにも。
フェリクスがそれを知っているということは、セラフィナはフェリクスに前世のことを話したのだろうか。
しかしそれは続くフェリクスの言葉で否定された。
「――ああ、セラフィナが前世の記憶があると言っていたわけではないよ。セラフィナはそんな不用意なことはしない」
じゃあどうして。エドワードの疑問を読み取ったのか、フェリクスが続ける。
「セラフィナは覚えていないだろうけれど、まだ言葉を覚えたての頃、時々こことは違う世界のことを喋っていたんだ。断片的な言葉をつなぎ合わせていくと、まるで別の世界が明確に存在するかのようだった。それに小さい頃よく高熱を出して寝込んでいてね。その時にもうわごとで色々なことを言っていた。そして気づいたんだ。セラフィナには、セラフィナとして生まれる前の記憶があるんだということに」
幼い頃の熱。それはエドワードにも覚えのあるものだった。前世の記憶を処理しきれなかったせいだとエドワードは考えているが、エドワードもしばしば高熱を出して寝込んでは両親を心配させていたらしい。セラフィナも同じように高熱で苦しめられていたのか。
「成長すると熱が出ることもなくなって、前世の記憶らしいことは言わなくなった。幼い頃に残っていた前世の記憶がなくなったのかとも思ったけれど、時々遠くを見つめていたり私や両親に心配かけないような言動をしたりしていたから、多分前世なんて話をしても困らせるだけだと思ったんだろうね。あの子はそういう子だから」
妹の様子を思い浮かべたのか、フェリクスはほんの少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「……仮にそれで本当にセラフィナ嬢に前世の記憶があるとして。それと私にどう関係があるんだ」
「似ている、と言っただろう? いつも私や両親を優先して、親孝行をすることを大切にしているセラフィナの価値観。君にも覚えがあるだろう? それにセラフィナも君も――いつも、暗い髪色を無意識に目で追っていた」
「――!」
フェリクスの言う通りだった。前世でできなかった分、今世ではたくさん親孝行をしようという幼い頃からの考え。そしてつい目で追ってしまう暗い色の髪。セラフィナもエドワードと同じだというのか。
「セラフィナは君と出会ってから暗い髪色を見ても目で追わなくなった。そして君も、セラフィナと会った後から黒に近い髪色に目が吸い寄せられることがなくなったように思うよ。つまりセラフィナは君を探していて、君もまたセラフィナを探していたということなんじゃないのかい?」
フェリクスの眼差しがエドワードを射貫く。
「君たちは、やっと互いに探していた相手に出会えたんじゃないのかい?」
「……何を言っているんだ。そんなこと、あるわけないじゃないか」
やっとの思いで出した言葉はひどく薄っぺらく、説得力のかけらもなかった。
「まったく……君もセラフィナも、相手が気になって仕方ないくせにどうして素直にそれを認められないのだろうね? セラフィナの方がまだ素直だったけれど、君は本当に頭が固い」
今度こそ本当にフェリクスはやれやれと大仰に肩を竦めて見せた。
フェリクスにとっては至極簡単なことに思えるのかもしれない。しかしエドワードにとってはそんな単純な話ではない。前世の記憶のせいで惹かれているだけなのだとしたら、それは信頼できる感情とは言えない。
フェリクスにここまで推察されて、エドワードはもう前世の記憶を否定することは無意味だと感じた。
「……気になって仕方ないのは、前世の記憶があるからだろう? それは決して恋じゃない」
だからこの気持ちは蓋をすべきだ。エドワード自身のものなのか前世の”俺”のものなのか判然としない感情なんか。
「前世の記憶があったら、どんなに気になっても恋じゃなくなってしまうのかい?」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。気になって仕方ない――だったらそれは恋でいいじゃないか」
いつもの明瞭さでフェリクスが言う。しかしエドワードにとってはそんな風に割り切れるものではない。だからこそ自分の感情にすら確信が持てなくて、セラフィナを拒絶したのだ。
眉間に力を込めるエドワードを見て、フェリクスは少し首を傾げた。
「エド。私は出会った瞬間からナターシャのことを愛しているんだ」
突然変わった話題にエドワードが瞬く。そんなことは知っている。フェリクスは日頃から「私は出会った瞬間からナターシャを愛している」と宣言してはばからない。エドワードは何度もその言葉を聞いている。
なんだただの惚気かと呆れて息を吐く。しかしフェリクスはふざけているわけではないらしく、真面目な顔のまま続けた。
「ということは、もしかして私とナターシャも前世で出会っていたり恋人だったりしたのかな?」
「そんなわけないだろう」
「なぜだい? 覚えていないということは、その可能性を否定できないということだろう? 出会った瞬間から強く惹かれる相手なんだ。これは前世で何かあったに違いないじゃないか」
「そんな簡単な話じゃない」
「そうかな? これは至極単純な話だと私は思うよ。私と君の違いは、ただ”覚えているか覚えていないか”だけなんじゃないのかい?」
フェリクスの言葉に反論しようとしたが、適切な言葉が思い浮かばず、エドワードは口を噤んだ。
「前世のことを覚えている人間なんてほぼ皆無だ。だから運命的な出会いをして恋に落ちた人々――例えば一目惚れをした人は、もしかしたら前世からの縁で恋をしたのかもしれない。けれど彼らはそれが前世からのもので、だからこれは恋じゃないなんて否定はしない。なぜなら覚えていないからだ。前世を覚えていなかったら恋で、覚えていたら恋じゃないなんて、なんとも曖昧でナンセンスな判断基準だと思わないか」
……なんという屁理屈だ。
そう思うのに、まるで頭を殴られたかのように思考が回らない。
覚えているか覚えていないか、ただそれだけ。
フェリクスの横暴にすら聞こえる言葉は、ひどく的を射ているように思えた。
しかしだからといってすぐにその通りですなんて受け入れられるものではない。エドワードには前世の記憶があり、どうしたってその記憶が心の邪魔をする。もっと単純に――たとえばフェリクスのように割り切れたらどれほど楽だったろうか。
惑う瞳でフェリクスを見る。フェリクスは変わらず真摯な眼差しでエドワードを見返していた。
「強く会いたいと願っていた相手に出会える――それは奇跡のようなものだと、私は思うんだよ、エド。まして前世の記憶を持つ者同士が再び会える確率はどれほどのものだろう」
「……貴族の結婚にそんなものは関係ないだろう」
小さな抵抗はとても弱々しく、頼りなく落ちた。フェリクスはそんなエドワードに苦笑をこぼす。
「まったく、本当に君は難儀だね。いや、それはセラフィナもだね。前世の君たちは思慮深い……言い換えるなら考えすぎてしまう頭の固い人たちだったのかな」
フェリクスの予想はあながち間違いではないかもしれない。前世のエドワードやセラフィナは、その世界でも真面目な人種として知られる日本人だった。感情に任せて行動するよりも控えめで思慮深さが美徳とされていた。エドワードは前世と今世では別の人間であると自認していたけれど、こうして見てみると、根本的な物事の考え方は前世が大きく影響していたようだ。
しかしそれが悪いことだとは思っていないし、それがエドワードという人間であると納得もしている。エドワードはエドワードだ。前世の人格に由来する性格がエドワードの中にあったとしても、それを内包する全てがエドワードという存在を形作っている。
――ああ、そうか。
前世と今世。確かにそれは別の存在だ。しかし前世を含めて今世の自分が形成されている。前世の記憶によってもたらされる感情だろうと、それもまたエドワード自身のものであることに変わりはないのだ。
整理さえできればひどく単純な話だった。そんな単純なことにも気づかないくらい、自分は前世というものに深く囚われすぎていた。
詰めていた息を大きく吐き出す。体の力が抜けるようだった。肩肘を張ったつもりはなかったが、エドワードは知らず緊張していたようだ。
「……ありがとう、君の単純明快さは時に私が見落としている物を教えてくれる」
エドワードが告げた言葉に、フェリクスが満足そうに微笑んだ。
「おせっかいかもしれないけれどね。それでも私はセラフィナのことが大切だから、セラフィナが幸せになる為なら全力を尽くすと決めているんだ。セラフィナがずっと会いたがっていた人に会えた……だったらその相手と幸せになれるように手伝ってあげたいじゃないか」
そう言って冷めてしまったお茶を飲むと、フェリクスがほんの少し申し訳なさそうに首を傾げる。
「幼い頃のセラフィナは熱を出すたびにいつも誰かを呼んでいた。私の耳にはそれが『アイザック』と聞こえたから、セラフィナが探しているのはアイザックという名前の人物だと思っていたんだ。けれどどうやら違ったらしいね。もっと早く君とセラフィナを会わせていればよかった」
それはどうだろうか。もっと早くに出会っていても、それはそれで若さ故の頭でっかちだったエドワードは、やはり頑なにセラフィナのことも自分の気持ちも受け入れられなかったかもしれない。そう思って曖昧に苦笑いを浮かべた。
それにしても、『アイザック』というと少し前の夜会でフェリクスが聞き覚えはあるかと訊ねてきた名前だ。その時は寄宿学校時代からの知人であるアイザック・レイハートしか思い浮かばなかったが、今だったらその意味が分かる。
”彼女”が――セラフィナが熱に浮かされて呼んでいたという、その名前。それはおそらく。
――「相沢くん」
遠く耳の奥で、”彼女”がかつて自分を呼んだ声が聞こえた気がした。




