10.夜会
休暇中を思い浮かべて少し気分は浮上したものの、やっぱりわたしの心を占めているのはエドワード様のことだった。どうしても気になって落ち込んでしまい、家でも気分が塞ぎがちになってしまう。わたしの変化に聡い兄だけでなく、タウンハウスに滞在していた両親もおそらく気づいていたと思う。家族で顔を合わせる夕食時に何度か両親から体調を心配されてしまった。
わたしの両親はわたしの体調不良にとても過敏だ。おそらくそれは幼少期のわたしの体調が原因だと思われる。
幼い頃、わたしは前世の記憶というイレギュラーな要因のせいか、それはそれは頻繁に熱を出して寝込んでいたらしい。その頃のことは記憶にはないけれど、脳が前世の記憶と今世のわたしという人格を上手に切り分けて処理できるようになるまでは、オーバーヒートしてしょっちゅう熱を出してしまっていたのだろう。
成長してわたしが”わたし”という人格を形成してからは、前世の記憶はあくまでもただの記憶として処理できるようになった。だから前世の記憶を持ってはいるけれど、わたしは”わたし”という別の存在であると切り分けて認識している。
でも、だからこそ、今”わたし”が抱くエドワード様に対するこの感情が何なのかきちんと明確にする必要があると思っていた。
わたしはエドワード様のことが気になっている。けれどそれは”私”の記憶に引きずられているだけのまやかしのようなものなのかもしれない。今”わたし”が感じている感情が”私”によってもたらされたものなのか、それとも”わたし”自身が感じているものなのか。それはとても重大な問題であるように思えた。
エドワード様の縁談の話やわたし自身の抱える問題を考えれば考えるほど、わたしの気持ちは地の底へ落ちていく。ぐるぐると思考が混ざっていき、八方塞がりだった。
早く気持ちの整理をして元気な姿を両親に見せて安心させたいと焦るのに、ままならない。
やるせない焦燥に溜息をこぼす日々は、瞬く間に過ぎていった。
◇ ◇ ◇
休暇前の最後の社交として、わたしは再び夜会に出席することにした。今回は兄とナターシャお義姉様も一緒だ。というか、兄とナターシャお義姉様がパートナーとして出席し、わたしはそのおまけのような形だ。
休暇に入る前にもう一度エドワード様に会えないだろうかというわたしの目論見は、どうやら今回も空振りに終わりそうだ。夜会の会場に入ってからさりげなく辺りをきょろきょろと探っているけれど、エドワード様の姿を見つけることはできていない。
やはり避けられているのだろうか……。
落ち込むけれどできるだけ表情に出さないように気を付けながら、兄たちの社交について回る。兄とナターシャお義姉様の邪魔をするのは忍びないけれど、わたしを一人にするのは兄が承知しないので仕方ない。お義姉様には申し訳なさから頭を下げてしまったけれど、まるで気にしていないように微笑まれてしまった。
わたしがいるせいで兄たちはダンスひとつ踊れていない。兄とナターシャお義姉様がダンスに出てしまうとわたしが一人になってしまうからだ。
どうしたものかと思いながら兄たちに付いて会場を回っていたら、ブルネットの髪の青年が兄に声をかけてきた。
「やあ、フェリクスじゃないか。久しぶりだね」
「ああ、アイザックか。久しぶり。調子はどうだい?」
アイザックという名前とそのブルネットの髪と焦げ茶色の瞳から、アイザック・レイハート侯爵令息であると思い至る。数年前にベイリー子爵領のカントリーハウスで一度だけ紹介されたことのある、兄の友人だ。先日の茶会でも話題に上がっていたその人は、兄の傍にいるナターシャお義姉様とわたしにちらりと目をやり、眉を上げた。
「これはこれは美しいご令嬢たちだね。両手に花じゃないか」
「羨ましいだろう。彼女は私の婚約者のナターシャ。そしてこっちが妹のセラフィナだ。セラフィナには一度会わせたことがあったかな」
兄に紹介され、わたしたちは各々礼をした。兄の友人とはいえ侯爵家のご令息ということで少し緊張する。
「ああ、ずいぶん前にベイリー子爵家のカントリーハウスに招かれた時か。あの時も愛らしかったけれど、ずいぶんお美しくなられたようだ」
「ありがとうございます」
淀みなく紡がれる社交辞令に曖昧に頷く。
以前だったらつい目で追ってしまったブルネットの髪だけれど、不思議と今はあまり気にならなくなっていることに気づいた。わたしが求めていた黒髪黒目の存在を別の形で見つけたからだろうか。珍しい色味だとは思うけれど、今はその色を見ても郷愁や切なさは感じなかった。
自分の中の変化に内心で驚いていると、アイザック様が片手を差し出してきた。
「お嬢さん、一曲いかがですか」
「えっ」
驚いて間抜けな声を上げてしまった。
これはダンスの誘いだ。社交マナーとして知ってはいるけれど、実はこれまでダンスの誘いを受けたことはない。ずっと兄にくっついて回っていただけなので、わたしをダンスに誘ってくる男性はいなかったのだ。
戸惑って兄を見ると、兄もかすかに眉を上げて驚いている様子だった。けれど視線を一瞬だけちらりとどこかに向けると、すぐにいつもの表情に戻った。
「いいじゃないか、セラフィナ。折角のお誘いなのだから一曲踊ってくるといい。私もナターシャと踊ってくるから」
相手は侯爵家の令息だ。子爵家であるわたしたちからすれば、そのお誘いを断るのはあまりよろしくない。
兄もナターシャお義姉様と踊るらしいので、覚悟を決めておずおずと差し出された手に掌を乗せた。
「……よろしくお願いします」
「光栄です、リードはお任せください」
気取った様子で指先を取られ、緊張が高まる。初めて誘われるダンスの相手が侯爵令息だなんて、失敗したら目も当てられない。
ぎくしゃくとおぼつかない足取りで手を引かれてダンスホールに移動すると、兄とナターシャお義姉様も同じようにホールに移動するのが見えた。わたしがいるせいで二人でダンスができないことにうしろめたさを感じていたので、その点は少しだけほっとする。
音楽に合わせてステップを踏む。何度も練習したダンスだけれど、兄以外の異性と踊るのは初めてだ。いつも以上に緊張して体が固くなる。しかしアイザック様のリードはとても優れていて、ぎこちないわたしの動きを滑らかに導いてくれた。
「そんなに緊張しないでください。後で私がフェリクスに怒られてしまう」
優雅にリードしながらも茶目っ気たっぷりにそう言ってくるアイザック様にあわあわと返事をするのに必死で、わたしは妙にスムーズにダンスの誘いを受けるように促した兄の不自然さにも、会場の隅からわたしに向けられたヘーゼルの瞳にも、気づくことはできなかった。
完璧とはほど遠い足取りで一曲踊り終えて、わたしは再びアイザック様にエスコートされて壁際へと戻った。兄とナターシャお義姉様も同じタイミングで戻ってきて、たった一曲分の時間だったけれどまるで数年ぶりに実家に帰ったような安心感に大きく息を吐き出す。その様子に気づいたアイザック様が苦笑した。
「あっ申し訳ありません……! あの、あまりこういう場でのダンスに慣れていなくて……」
慌てて言い訳をするとアイザック様の苦笑が深くなる。
「いえ、私の方こそ、不慣れなご令嬢を無理に連れ出してしまい申し訳ありませんでした。フェリクスが止めないから、つい許されているのかと」
「侯爵家のご令息のお誘いを断るなんてできるわけないじゃないか。それにセラフィナと踊るのは妖精と踊るようで気分が良いだろう。だが妹は君にはやらん」
なぜか兄が尊大な態度でふふんっと腕を組み、アイザック様を睥睨した。侯爵家のご子息にそんな態度を取るなんてと肝が冷えるけれど、アイザック様は気にしていないのか軽やかに笑っている。
「相変わらず手厳しいな。こんなに愛らしいご令嬢を口説く栄誉すら与えてくれないなんて」
「妹は私が認めた相手じゃないと任せられないからね」
「君のお眼鏡に適う男なんているのかい?」
「どうだろうね?」
デビュタントの時に他の令息としていたやり取りのように軽口を叩きあう兄に、なんだか申し訳なくなってくる。
「いつも通りだから、気にしなくて大丈夫よ」
わたしが情けない顔をしていたからか、隣にやってきたナターシャお義姉様が扇の影で微笑んでそう言った。これが平常運転だというのも問題な気もするけれど、ここでこれ以上気にしても仕方ないのかもしれない。
まだまだ社交辞令に慣れないわたしの為にもこうして防波堤になってくれているのであろう兄にひっそり感謝しつつ、わたしもまたお義姉様に微笑み返した。
「お兄様とお義姉様がダンスができてよかったです」
せっかくの華やかな夜会なのだから、ぜひ二人で踊ってほしかったのだ。
そんな気持ちを込めて言うと、ナターシャお義姉様は一瞬きょとん目を瞬かせた後、「ありがとう」と花が綻ぶように笑った。
◇ ◇ ◇
「初めてのダンスは楽しかったかい?」
夜会が終わりナターシャお義姉様をカーク子爵家に送り届けた後、二人きりになった馬車の中で兄が訊ねてきた。
「楽しむ余裕すらありませんでした……」
「はは、相手は侯爵令息だったし、仕方ないかもしれないね。……でも収穫はあったかな」
「収穫、ですか?」
意味ありげに落とされた言葉に、わたしは首を捻る。
わたしがあまりに異性と踊り慣れていないと露呈したことが収穫なのだろうか?
よく分からず眉を寄せるわたしに、兄は人差し指を唇の前に立ててにこりと笑った。
「内緒だよ」
ますます意味が分からなくて、思わず頬を膨らませてしまう。けれど「怒ったセラフィナも可愛いなぁ」と兄がシスコン全開になってしまったので、その話はうやむやなまま、ベイリー子爵家へと帰り着くことになったのだった。




