8、「歓迎光臨。お待ちしておりました、お客様」
リューは指の先まで美しい所作で、老婦人に茉莉花茶を入れていた。
「昨日のジャスミンの歌も、とても素敵だったわね。あの黒髪の彼が弾く華夏の楽器と、背の高い彼のギターの伴奏も素晴らしかったわ」
「恐れ入ります、マダム。本日はどの歌をご希望ですか?」
リューの問いに、老婦人はふふっと笑った。
「あら、今日は貴方の方から尋ねてくれるのね。そうねぇ――」
彼女がリクエストしたのは、この茶館に訪れた時に、初めてリューに歌わせた曲だった。
「ごめんなさいね、貴方には、もう素晴らしい奥様がいるのですってね。銀髪の彼から聞いたわ」
歌が終わった後。茘枝のコンポートを混ぜたアイスクリームにラズベリーと薔薇のジャムをかけたアイスクリームを追加注文した老婦人は、リューにそう謝った。
「それなのに、私ったらおかしいわよね。貴方に良いお嫁さんを見つけてあげなくては、なんて」
リューはくすりと笑った。
「確かに、随分と参ってしまいました。もし妻に見られたら、きっと叱られていたでしょうから」
老婦人はリューを見つめた後、優しい笑顔を浮かべて頷いた。
「あら。貴方、とても優しい顔で笑うのね。そちらの笑顔の方がずっと素敵よ」
* *
オシアンは、夢を見ていた。もう千年以上昔、まだ彼が少年だった頃の夢だった。
「オシアン。この度の戦、父は無事に帰れるか分からぬ。お前が母と妹を守るのだ」
「はい、父上。必ずや、母上とミュリエルを守ってご覧にいれます」
父ユーアンにそう誓った自分の声が、思いのほか高く幼い声だったので、オシアンは驚いた。そういえば、その頃は声変わりも済んでいなかったのだ。
そして、戦に赴かんとする父も、今のオシアンよりは、ずっと若かった。夢の中の父は、ちょうどハワード卿と同じくらいの年格好に見えた。そして、その隣りで男臭い笑みを浮かべて、父子を見守るブラン――ユーアンの親友で、後にオシアンの継父となる男もまた、アーセンと同じくらいの年齢だった。
それにしても、夢の中のブランは本当にカイによく似ている。もしかすると、若い頃のオシアンもまた、ユーアンに似ていたのかもしれない。その頃は、まともに鏡を見ることなど、ほとんどなかったけれども。
「お前ならば、きっと母と妹を守り抜いてくれるだろうな」
ユーアンはその大きな手をオシアンの頭に置き、それから生まれたばかりのミュリエルを少しの間だけ腕に抱くと、すぐに母アルヴァの腕に戻した。
「ミュリエルは、我が祖母、女神フレイヤに生き写しの美しい娘となるだろう。必ずや戻って、この子の行く末を見届けたいものだ」
若い父の切実な願いを聞いて、オシアンの目から涙が一筋こぼれた。その願いが叶うことはないと、彼は知っていたからだ。
「何ば、泣きよるとかい、オシアン。お前の父ちゃんほど強か男はおらんとだけん、必ず俺と二人で帰って来るけんな。待っとれよ」
ブランの両目が、優しくオシアンを見つめた。ブランの右目はカイと同じ琥珀だが、左目は青かった。戦から一人、生きて戻って来たブランの左目は永久に閉じられたままだったから、オシアンはそのことをすっかり忘れていたのだ。
「オシアン。我らの悲願が叶わぬ時は、お前が代わってアヴァルスを討て」
「必ずや、父上の仰せの通りに」
ユーアンの言葉に、オシアンは胸に手を当てて応えた。彼はいつの間にか、少年から現在の初老の王の姿に変わっていた。
オシアンは目を覚ました。王たる彼は、もうあの頃の無力な少年ではない。自分自身を含めて、誰一人失うことなく勝利を掴まねばならなかった。
* *
事務室でその日の売り上げを確認し、帳簿に記入を済ませた後。
ディエンは短冊に切った紙の束を机上に置き、硯に数滴の水を垂らして心静かに墨を磨った。それから、筆に墨汁を吸わせ、紙の上に筆を走らせた。
せっかく甥の紫菀と巡り会い、行方知れずだった妹が生きているということも判明したのだ。何としても紫菀と共に生還し、療養中だという妹に会いに行かねばならない。そのためには、紫菀が十二分に力を振るえるよう、ディエンの持てる全ての技と力を出し切る必要がある。
それに加えて、どうしても死ぬわけにはいかない理由がもう一つ。一体、ディエン以外の誰が、有能でありながら実はかなり奔放な上司アーセンの手綱を握ることが出来ようか。ディエンには、恩人でもあるアーセンを、次長止まりで終わらせるつもりなど微塵もない。出来れば連合捜査局の長官に、果ては州連合の大統領に就任してもらいたいと思っているのだから。
「傀儡符(他人の身体を操る術)、祝融符(炎の術)、神農符(癒しの術)。……関帝符(雷電の術)を継承出来なかったのは残念だが、私にしか使えない符もある」
彼が愛おしげに抱きしめた符には「神虎符」と言う華夏文字が書かれていた。
* *
夜が更ける頃。邪竜アヴァルスは、特別に良い匂いのする場所に、とうとう辿り着いた。大きな街の一角にある建物は、これまでに見たことのない、異国風の建物だった。
中からは美しい音楽と、魅惑的な歌声が漏れ聞こえて来る。如何にも魔女たちが好みそうな、まだ少年と言っても良さそうな若く無垢な男の声だ。
アヴァルスの左の頭は考えた。この声の主を器にできれば、自分があの海の王に封印されて以来、一切の呼びかけに応じなくなってしまった彼女たちも、すぐに戻って来るだろう、と。
アヴァルスの右の頭は鼻腔をくすぐる香辛料の香りと良質な肉の脂が焼ける香ばしい匂いに、強い懐かしさを覚えた。
左右の頭が強い飢餓感に突き動かされた結果、器の足は躊躇うことなく建物の中に入って言った。
建物に入った彼を出迎えたのは、茶色の髪に翠玉の瞳と灰色の瞳を持つ、しなやかな身体つきの男だった。面白味など微塵もない生真面目な雰囲気だが、顔の造りは悪くない。こういう器を好む魔女もいる。
しかし、アヴァルスの左の頭は既にこう決めていた。
まずは歌声の主を捕らえてからだ。
* *
ハワード卿が茶館の入り口近くのキャッシュレジスターの前に立っていると、一人の男が入って来た。
「いらっしゃいませ。お客様お一人ですか?」
ハワード卿がそう尋ねると、男はこちらを品定めする目を向けてきた。
不快というだけでは言い尽くせない視線を浴びながら、ハワード卿もまた、相手をじっくり観察した。
男は上質な生地を使ったスーツを着ていたが、そのサイズは全く合っていなかった。特に腹の辺りの布がかなり余っていて、せっかくの仕立てが台無しだ。おまけにネクタイも結んでいない。首元のボタンは乱暴に引きちぎられ、よく見れば、襟には小さな血の染みが幾つかついている。無作法に開いた胸元には、種類の違う幾重もの金のネックレス。
男の手の全ての指には嵌められる限り、高価そうな指輪が幾つも嵌められていた。けれども、それらの指輪は意匠や宝石の色に統一感がないどころか、紳士用か婦人用かさえも構わない様子で、悪趣味という印象しか与えなかった。
しかし何よりも嫌悪を催すのは、男の顔だ。顔立ちこそ整っているが、明らかに肌には生気がない。だというのに底知れぬ欲望の深淵のような左目と、ギラギラと傲慢に輝く右目は、見ているだけで目眩がしそうだった。……これはもう、間違いない。
「ご案内いたします。お待ちしておりました、お客様」
ハワード卿がそう告げると同時に、手元のキャッシュレジスターが、ベルの音を店中に響かせた。
妖精王オーベロンの望んだ喜劇の、第二幕が始まる。




