9、「錦上添花と東方美人、どちらがお好みですか?」
飯テロに全力を尽くしました。
アヴァルスが建物の奥に進むと、舞台の上に、天から舞い降りて来たように清らかで美しい少女がいた。
いや、少女ではない。小柄で華奢ではあるが、その真珠のように白い喉で紡がれ、薔薇の唇からまろび出る無垢な歌声は、先程、表の通りまで漏れ聞こえて来た男の声で間違いなかった。
アヴァルスは、舞台の前に置かれた大きな寝椅子にどっかりと座り、惚れ惚れと男を眺め、その歌に耳を澄ませた。
――あの男、すぐに器にするのは惜しい。
右の頭と左の頭の意見が珍しく一致した。あの歌声と、繊細な花のような顔をじっくり堪能したい。一度器にしてしまえば、あの美しい顔を自分の目で見ることも、初めて耳にしたこの歌の続きを聴くことも出来ないのだから。
「薬湯を、お持ちいたしました」
背の高い銀髪の男が、玻璃の水差しと、軟玉を彫り上げたような鈍い青緑色の水差しを盆に載せ、背を真っ直ぐに伸ばして歩いて来た。その速すぎも遅すぎもしない足取りは、見ているだけで快い。
「こちらの玻璃の水差しに入っております薬湯は、湯の中で花が開くのを愛でたあとに、飲むものでございます。それから、もう一方の水差しには、甘い香りを楽しむ薬湯が入っております。こちらの赤瑪瑙の器にはたっぷりと石蜜(氷砂糖)を入れておりますので、どうぞ、お飲みになる際に、お好きなだけお入れください」
アヴァルスは、大きな赤瑪瑙の器に入った石蜜を一つ手に取り、口に入れた。ガリガリとそれを噛むと、蜂蜜とも水飴とも異なる、すっきりとした甘さが口に広がった。ここまで雑味のない石蜜は初めてだった。
銀髪の男が、軟玉色の水差しから、白く真っ白な杯に、琥珀色の薬湯を注いだ。
その瞬間に、甘く香ばしい匂いがふわりと広がる。
薔薇水とも果実水とも違う馥郁たる香りに、アヴァルスは思わず、大きく息を吸った。
銀髪の男が、その形の良い長い指で、石蜜を一つ、二つと薬湯の杯に入れると、黄金の匙で静かに混ぜて溶かした。
「どうぞ、こちらをお飲みになってお待ちください。すぐに料理をお持ちいたします」
「香辛料の効いた肉料理を持って来い。あるんだろう?」
「こちらには、貴方様がこれまでに召し上がったことのない種々の肉料理がございます。全てお持ちいたしましょう」
銀髪の男が恭しく一礼して去って行くのを、アヴァルスは見送りながら、薬湯を一口飲んだ。
柔らかく鼻腔を抜けていく香りは、彼がそれまでに味わってきた如何なる美酒にもないものだ。
そして、薬湯の澄んだ甘さと程良い熱さが、空腹のために冷え切った内臓を温めてくれる。
これほどに官能に訴えかける飲み物を、アヴァルスは他に知らなかった。
――あの男も、しばらくは取っておくとしようか。この飲み物ほど旨いものはない。
魔力持ちを喰らうことしか興味のないはずの左の頭が、そうひとりごち、右の頭がそれに頷いた。
どうやら給仕らしき銀髪の男は、生粋の人間ではない。そのことに気付かぬアヴァルスではなかったが、そのことには全く頓着しなかった。彼が封印されるよりも少し前の世界では、異種族間の混血が、もっとずっと多かったのだ。神々の子さえ、全く珍しくはなかったし、純血の精霊や妖精が人間の社会の中で普通に生活していたからだ。
それよりも気になるのは、魔女たちが自分の呼びかけに全く応答しないことだった。
――まあ、構わん。あの姦しい女どもが来ないのであれば、此処の飲み物も、料理も、麗しい男どもも、俺たちが独占して賞翫するだけのことだ。
かつてアヴァルスを取り囲み、持て囃していた魔女たちは、いずれもとりどりの美貌と魅惑的な肢体の持ち主だった。けれども、封印される前はあれほどアヴァルスの自尊心を満たした彼女たちの嬌声も、目の前の舞台で歌うあの若い男の歌声に比べれば、蟇蛙の呻き声に等しいのではないかという気がしていた。
適当な宮殿を手に入れて、此処の眉目秀麗な男どもを侍らせる方が、魔女どもに囲まれるよりも、ずっと愉快かもしれない。
アヴァルスの左右の頭がそう考えているうちに、先程の銀髪の給仕が、肉料理を運んで来た。
アヴァルスはそれらを手掴みで口に運んだ。深皿の中でまだ煮えたぎっているような料理に手を突っ込んだとしても、火傷をすることもなければ、熱さや痛みを感じる心配もないので。
スターアニスの香りの効いた、皮付きの豚の塊肉の煮込み。少し摘んだだけで、それはほろほろと崩れていく。銀髪の給仕が、まだ湯気の立つ白いパンを割り、その煮込み肉を挟んでくれたので、随分と食べやすくなった。臭みを全く感じさせない、とろりと柔らかな肉。香り高く甘辛い煮汁を吸った、白いパン。
なるほど、こういう美味があるのか、とアヴァルスの右の頭は感嘆した。
銀髪の給仕が、玻璃の水差しの中で咲いた花を示し、新たな薬湯を入れてくれた。
すっきりした味わいと香りの薬湯が、肉の脂っこさを押し流す。これはこれで、なかなか悪くない。
香ばしい油で揚げてすぐに、香味野菜や調味料で味付けした酢に漬けたという豚肉。甘酸っぱい肉というのもなかなか面白いものだ。油で揚げているにも関わらず、少しもくどくない。
肉だねを小麦を練って作った皮で包んで蒸したという料理は、溢れ出る肉汁が絶品だった。しかもそれぞれ、魚介類入り、牛肉入り、豚肉入り、仔羊肉入りで、ピリリと辛いタレや、香味野菜を刻み込んだタレ、酸味のあるタレも用意されていて、口にする度に新たな発見がある。
「もっと料理を用意しろ。甘い菓子も持って来い」
アヴァルスはすっかり上機嫌だった。
蒸して柔らかくした米に玉子とネギを混ぜて胡麻油で炒め、魚介類と肉と野菜を入れたスープにとろみを付けたものをかけた料理は、給仕に命じて、白い大きな匙で口に運ばせた。魚介類と肉と野菜の旨味を余さず味わい尽くせる良い工夫だ、と右の頭は唸った。
「何か、隠し味を使っているな?」
魚介類とも肉とも野菜とも違う旨味に、アヴァルスは首をひねった。
「熟成させた米の酢を、ほんの少し使っております」
そう微笑んだ銀髪の給仕の瞳は、右が灰色で左がエメラルドだった。
* *
「よしよし、見事に罠にかかったな」
茶館の屋根の上で、オーベロンが嘲笑った。
「……アヴァルス。お前が殺した男の息子が作る飯は、さぞかし旨いだろうな?」
オーベロンは、オシアンの実父と継父を知っていた。彼の同胞たちの亡骸がアヴァルスの貪欲な腹に収まらずに済んだのは、その二人のおかげだったから。
「せいぜい、腹がくちくなるまで『どうぞ召し上がって下さいませ、偽りの王様』ってな」
そう言いながらオーベロンが夜空に手を差し伸べると、その手に小さなコマドリが止まった。その正体はロビン・グッドフェロー。オーベロンと、愛しいタイタニアの間に生まれた一粒種だ。
「親父。ようやっと海の王が全快したよ。これから影を伝い、風と波に乗って、こっちに来るってさ」
オーベロンは、今度は満足の笑みを浮かべた。
「そうか。息子よ、知らせてくれてありがとう」
「それじゃ、俺はリューのところに戻るぜ」
そう言って飛び立とうとする息子を、オーベロンは呼び止めた。
「待て、息子。お前の母は、俺について何か言っていなかったか?」
ロビンは可愛らしく首を傾げた。
「暁の女神との浮気の件なら、まだ許してないってさ」
オーベロンは悔しげに言った。
「浮気じゃないだろう、夜の女王と暁の女神は同じ存在なんだから!」
ロビンは面倒くさそうに羽繕いをしながら答えた。
「仕方ないだろ、お袋には心が二つあるって自覚がないんだからさ」
お茶は錦上添花と東方美人茶、お料理はトンポーロー、本格的な酢豚、各種タレ付きの小籠包、福建炒飯です。
〈人物紹介〉
タイタニア︰夜を司る妖精の女王。オーベロンの妻にしてロビン・グッドフェローの母親。暁を迎えると同時に「暁の女神」に変化するが、本人はそのことに全く気付いていない。




