7、アイスクリームとトフィーナッツ
邪竜アヴァルス。そう呼ばれる怪物は、ひたすら北を目指していた。岸に上がって人間を捕食する時間も惜しむほどに。
何故なら、北に強い魔力の持ち主が集まっている気配を感じたからだ。
かつて、怪物を作った者たちが、ある者は艶やかな声で、またある者は甘い声で、別の者は小鳥のさえずるような声で、口々にこう囁いた。
――私たちは、お前を新たな海の支配者にしたいの。分かるでしょう?
――お前には力が必要よ。善き妖精の王を僭称する者どもを蹴散らし、踏み躙るための力が。
――私たちを喜ばせる姿も不可欠よ。醜い者を王として仰ぎたくはないの。見目麗しい男を見つけたら、その肉体をお前の器としなさい。
――強くなるには、たくさん食べなくてはいけないわ。この世のありとあらゆる物がお前の糧よ。
――私たちの言う通りになさい。そうすれば、この世はお前の思うがまま。永遠に面白おかしく暮らせるのよ。
だから、怪物はその通りに生きてきた。魔女と、美しい男の肉体以外、目に付く物は全て胃に収めて来た。しかし、次第に、怪物の二つの頭のうち、右の頭は気付き始めた。
本当に美味な物は、人間が手間暇を惜しまずに作り上げた料理だということに。
しかし、怪物の左の頭の意見は違っていた。
本当に旨い物は、魔力を持つ者の血肉だ。妖精でも人間でも、魔物でも良い。とにかく強い魔力の持ち主が一番だ。
千年前の戦いでは、あれほど多くの妖精が目の前にいたのに、どういう訳か、一匹も口にすることが出来なかった。
――我らが同胞の亡骸には触れさせぬ。
――俺たちの仲間ば指一本でん、こがん醜か化け物に食わせてなるもんか。
……そうだ、あの時、煩い二匹の猫が邪魔をしてきたせいだ。
怪物の左の頭は思い出した。黒猫の方は確かに仕留めた覚えがあるが、キジ猫にはとどめを刺した記憶がない。
次に見かけたら、すぐにも血祭りに上げてしまおう。
左の頭はそう結論を出すと、再び微睡み出した。
右の頭は、左の頭の怠惰さに舌打ちしながら、ひたすら泳いだ。
* *
暁嵐茶館の厨房に、ハンドルの付いた桶が運び込まれた。
それを運び込んだオーベロンは得意げだった。
「暑くなって来たから、アイスクリーム製造機を持って来た。茶を卸してくれる奴が華夏の果物も大量に持たせてくれたから、ちょっと珍しいフレーバーのアイスクリームを作れば、客が更に喜ぶこと間違いなしだ」
オーベロンが指を鳴らすと、大きな木箱が現れた。その木箱に詰まった大鋸屑の中から、赤い茘枝や山査子、楊梅、淡紅色の水蜜桃などが出て来たので、事務担当のディエンが、華夏語で感嘆の声を上げた。
リューも、新鮮な茘枝の実を見て心が躍った。以前、彼の婚約者であるメグは、まだ新鮮な茘枝を見たことがないと話していた。いつかメグと茘枝を食べる機会があれば、彼女の白い指が汚れないように自分が茘枝の堅い皮とその下の薄皮を剥いてあげたいものだ、と考えていると。
「リュー。これの食べ方を教えてくれないか。持って帰ってダイアナが食べやすいように皮を剥いたり、種を取ったりしてあげたら、きっと惚れ直してくれると思うんだ」
アーセンが茘枝を手に真顔でそう言ったので、リューは思わず笑ってしまった。
「茘枝は傷みやすいですから、持ち帰るのは無理ですよ。でも、幸運の象徴のような果物ですから、ダイアナさんに贈りたいという、アルの気持ちもわかります」
アーセンは感心したように声を上げた。
「ふうん、この赤くてゴツゴツした実がねぇ」
リューは頷いた。
「ええ、何しろ――」
突然、ディエンがリューの口を塞いだ。
「紫菀、それ以上はやめておきなさい。また次長を驚かせてはいけないからね」
そう言われて、リューは、はっとした。伯父が止めてくれなければ「茘枝の実を表す『茘子』は『立子(子を儲ける)』と音が通じるので縁起の良い果物なのだ」とうっかり言ってしまうところだった。
彼はそっとオシアンの方を見た。
料理長たるオシアンは、楊梅を一つ手に取り、真剣な眼差しで見つめ、香りを確かめ、少し齧ってから言った。
「ともあれ、華夏の果物が手に入ったのはありがたい。これなら、デザートの種類を増やすことが出来る」
アイスクリームの提供時間は午後二時と、午後九時と決まり、毎日、カイが袖をまくり上げ、その逞しい腕を露わにしてアイスクリーム製造機のハンドルを回すようになった。華夏の果物を使った珍しいアイスクリームはたちまち人気となり、特に、添えられた薄いトフィーナッツが華夏の茶に合うと評判になった。
何故、アイスクリームにトフィーナッツが添えられるようになったかと言うと、そこにはこのようなやり取りがあった。
初めて全員で水蜜桃のアイスクリームを試食した時。リューの顔を見たハワード卿が、何かを思い出すように微笑んだ。
「どうかしましたか?」
リューがそう尋ねると、ハワード卿が言った。
「お前がまだ七歳だった頃、初めてトフィーナッツを口にした時の顔を思い出してな」
何故ハワード卿がリューの子どもの頃を知っているのかといえば、華夏の租界で、独自に編み上げた魔法障壁の中で母と身を寄せ合っていたリューを発見し、母子ともども保護して北部連邦に連れて来たのが、他ならぬ彼だったからだ。
北部連邦に向かう船の中で、愛らしいリューは品の良い老婦人たちから、飴などの菓子をもらうことが多かった。
ハワード卿は言った。もらったトフィーを口に入れた途端、リューが初めて、花が綻ぶように微笑んだのだ、と。
「いつもの、戦う前や機嫌の悪い時の生意気な笑顔とは違う。あの時のリューの顔は、とても可愛らしかった」
他の者たちが妖艶と表現するリューの笑みを、どうやらハワード卿は「生意気」としか感じないらしい。
シェーンが、ハワード卿は魅了無効体質ですからね、と訳知り顔に頷いた。
「しかし、ハワード卿の仰る通り、リューの今の笑顔は可愛らしかったです」
それまで黙っていたオシアンが、なるほど、と呟いた。
「水蜜桃のアイスクリームに、トフィーナッツを添えよう。きっと人気が出るはずだ」
そして、その通りになったのだ。
* *
茶館には多くの客が集っていた。オシアンの料理と華夏の茶に魅了された者、リューやアーセンの歌声とシェーンの舞踊に惹きつけられる者。ディエンとカイの演奏にうっとりと耳を傾ける者。
オシアンが大きな鉄鍋を振り、厨房に戻って来たリューが野菜を刻み、カイが餃子の皮を包み、シェーンが客の前で茶を淹れ、アーセンが新たな客を席に案内し、ディエンがバックヤードで残り少なくなった食材や茶葉の発注をする。ハワード卿は真面目にレジを打ち続け、営業時間が終了すれば、皆と茶館の掃除をする。
そして、食事時には必ず皆で賄いのテーブルを囲む。
ハワード卿にはわかっていた。この華やかで賑やかな茶館での日々に、間もなく別れを告げなければならないことが。
――タレイアが、明後日の深夜に邪竜が到着すると教えてくれました。どうか、ご注意を。
ロビンを通じて、聖騎士団筆頭顧問ドミニク・トーマスが、自身の妻タレイアの予見の内容を伝えてくれた。
「先程、筆頭顧問から連絡がきた。決戦は明後日の深夜だ」
食卓で、ハワード卿は皆にそう告げた。
オシアンが頷き、カイが拳を握り、アーセンが緊張の面持ちを浮かべ、ディエンが凪いだ表情を見せ、リューが妖艶に微笑み、シェーンが信頼を込めた眼差しをハワード卿に向けた。
〈登場人物紹介〉
邪竜アヴァルス︰千年前、魔女たちによって造られた、双頭の怪物。
ドミニク・トーマス︰聖騎士団の筆頭顧問。妻タレイアの予言の内容を考察してまとめ、皆に伝えてくれる。
タレイア︰ドミニクの使い魔にして、最愛の妻。予見の能力を持つが、言葉がたどたどしいので、皆に予見したことを正確に伝えるにはドミニクが間に入る必要がある




