6、ほろ苦くて、甘い
不妊についての話題があります。ご注意ください。
早朝、閉店直後の暁嵐茶館。厨房の片付けをしていたリューは、オシアンが厨房の片隅で、ロビン・グッドフェローの分身である、黒いコマドリと話をしていることに気付いた。
「ヒルダには、こう伝えてほしい。『君のその判断より他に手はない。我は君の判断に賛成だ。マナナン・マクリルが一刻も早く回復しなければ、北の海の治安は更に悪化するだろう。海の底に封印されている危険な怪物は、何も邪竜アヴァルスだけではない。安寧のない世界では、何人たりとも安心して子どもを産み育てることなど出来はしないのだからね』と」
リューがオシアンの妻ヒルダに対して抱く印象は「果断に富む女傑」だ。だから、彼女がわざわざオシアンに相談するような事柄とは、一体どのようなことなのだろうかと思った。
けれども、それを率直にオシアンに尋ねることは、リューには出来なかった。他人が踏み込んではいけない領域なのではないかという気がしたのだ。
ロビンとの会話を終わらせたオシアンは、リューが厨房を片付けているところにやって来ると、黙ってコンロや流しを拭き始めた。
「今日は私がしますから……」
リューはそう言ったが、オシアンは首を振った。
「君の方こそ、ここは任せて早く休んだ方が良い」
リューも首を振った。
「何故だか、落ち着かなくて」
その返事に、オシアンが苦笑いした。
「奇遇だね、我もだよ。……ここの片付けが終わったら、簡易ストーブでホットチョコレートでも作ろうか」
その朝のホットチョコレートは、ほんの少し苦かった。
* *
聖騎士団本部では、ベッキーとメグが海の王マナナン・マクリルの治療を続けていた。
ベッキーがマナナン・マクリルの包帯を外し、無残に爛れたままの肌や白く濁った目を見て、難しい顔になった。
治療を開始して、はや半月。この日も、彼女はマナナン・マクリルに痛み止めの魔法をかけ、患部に甘露を塗り、マナナン・マクリルの妻ファンズの手を借りて新たな包帯を巻くことしか出来なかった。
昼の休憩時間。本部内の守護者控え室で、ベッキーが嘆息した。
「アムリタ、ネクタル、甘露……。内服と外用で試してみたけれど、常若の国の酒と同じく効果が薄い」
メグの神力による治療の効果も思わしくなかった。
「論文によれば、毒ガスの治療法は対症療法しかないのだとか。毒ガスが海の王を蝕むより前に時を戻すすべがあれば良いのですけれども……」
メグがそう言って考え込む。
二人の護衛を務めているヒルダは言った。
「皇国の神の桃なら、どうだ?」
聖騎士団の一級守護者とは表の顔、その正体は皇国の最も年若き女神であるメグ――久我愛子が、静かに首を振った。
「確かに意富加牟豆美は、病み、老い、傷付いた身体を元に戻すことが出来ます。ネクタルでは癒やすことの出来ない傷さえも。けれども、皇国の神々によれば、ここ数百年ほどはなかなか実がならず、花さえ咲かない年もあるということです。今年は七つの実がなりましたが、次に実がなって熟すのはいつになるのか分かりません……」
ヒルダは微笑んだ。
「幸い、その七つは、私の実家で爺やが管理してくれている。すぐにも持って来てもらおう」
「しかし、あれは……」
メグが言い淀んだ。皇国の神の桃をヒルダとオシアンに贈ったのは他ならぬ彼女だからだ。女神であるメグは、ヒルダに実子を持つ選択肢を諦めてほしくないと思ったのだろう。
ヒルダは優しく笑って首を振った。
「良いんだ、オシアンなら解ってくれるから」
しかし、思わぬ伏兵がいた。
ヒルダの実家フォスター屋敷に長年仕え、食糧庫の管理も行う老ブラウニーの爺やが、異を唱えたのだ。
「ヒルダお嬢様。どうか、お考え直しくださいませ。彼の神果は、メグ姫様より格別の御計らいで、ヒルダお嬢様と婿君がいつかめでたき日をお迎えになるようにと、賜った物にございます」
その言葉は、ヒルダの心に刺さった。
愛する夫の子どもを産むことが出来ないという負い目は、彼女にとって宿痾のようなものだ。何かの拍子に現れては、ヒルダに痛みを与える。
幾ら、ヒルダの夫であるオシアンが、「ケットシーの王位継承は実力主義だ」と言っても、「ヒルダが聖騎士団の若手は皆、我が子同然だと言うならば、その子らの父は当然我だ」と笑っても。
当然、フォスター屋敷の老ブラウニーがそれを知らないはずはない。だから、彼は皇国の神の桃を持って来ることを拒むのだ。
結局、一晩かけて説得を試みたが埒が明かず、ヒルダはロビン・グッドフェローの分身であるコマドリに頼み、オシアンと連絡を取った。
早朝、ヒルダは守護者控え室でロビンから伝えられたオシアンの考えに耳を傾けた。
「オシアンは私の意見に賛成だと言ってくれたよ。このまま北の海の怪物たちの封印が解けたら、誰も子どもを産んで育てるどころではないからってね」
ヒルダがそう言うと、メグが泣きそうな顔をした。
「……大戦争を起こした人たちが、本当に恨めしいです。もう戦争は終わったのに、今になっても――」
ヒルダはメグを抱き寄せた。
「泣かないで。私たち夫婦にとっては、君たちが子どもみたいなものだからさ。君たちが安心して結婚して子どもを産み育てられる世界を守る方が、ずっとずっと大切なんだ」
ヒルダがロビン経由で老ブラウニーにもう一度頼むと、老ブラウニーは泣き腫らした目で、皇国の神の桃が七つ入った籠を手に、聖騎士団本部に現れた。
「ごめんな、爺や。きっと爺やにとっては、私の子を腕に抱くことも楽しみの一つだったろうに」
ヒルダが謝ると老ブラウニーは首を振った。
「何も神果が二度と実らぬと決まったわけでもありません。ことによっては、来年は豊作かもしれませぬからな」
それを聞いたメグが、花のように微笑んだ。
「そうですよね。今年までが裏年だっただけで、来年になれば、きっと多くの実がなります。再来年も、その後も」
ベッキーが焦れったそうに言った。
「はいはい、多分向こう三百年くらいは表年だよ。それよりもすぐにそれを試そう。偉大なる海の王を、一刻も早く回復させなければならないんだ」
皇国の桃の甘い香りが、守護者控え室にしばらく漂っていた。
* *
「こちらは、当店だけの特別に甘くて新鮮なホワイトアスパラガスを、華夏風のクリームソースで仕上げたものです」
客に指名され、料理の解説を頼まれたカイは、誇らしげにそう述べた。
それも当然のことだ。何故なら、この店のホワイトアスパラガスはカイが丹精込めて育てたもの、ソースはカイの愛する異父兄オシアンの特製なのだから。
しかし当の客はカイの野性味溢れる精悍な顔立ちに見惚れている様子で、きちんと話を聞いているのかどうかは怪しかった。
ホワイトアスパラガスの皮を剥いていたリューに、厨房に戻って来たカイが声を掛けてきた。
「どうかしたか、リュー?」
リューが顔を上げると、カイがオシアンと似た笑顔を見せた。
「むくれ顔じゃないか、暁嵐茶館の見習い兼名物歌手殿」
「先程のお客様が、カイ殿のお話をきちんと聞いていらっしゃらないようでしたので」
リューが大真面目にそう言うと、カイは苦笑した。
「良いんだよ。一旦ナイフを置いて、客席をご覧」
カイが客席の方を見たので、リューも手を止めてそちらを見た。
カイの視線の先では、先程彼に料理の説明を求めた女性客が、夢中になって料理を口に運んでいた。
「俺には、ああして喜んで食べてもらうのが、一番嬉しいんだ」
〈用語解説〉
意富加牟豆美:皇国の神々の世界に実る神聖な桃。邪を祓い、食べた者を若返らせ、病や傷を完全に癒やす。
〈登場人物紹介〉
フォスター屋敷の老ブラウニー:ヒルダの実家、フォスター屋敷で家令を務める、老人姿のブラウニー。オシアンから神話級の食材の管理を任されている。ちなみに、この世界の新大陸のブラウニーは大抵、茶色の服を着ている。




