5、ソースと小鳥の歌と妖艶な笑み
正午の厨房に、加熱したバター特有の、甘い香りが漂っていた。
料理長オシアンは、このところ熱心にホワイトアスパラガスを使った新作料理を開発していた。せっかく愛する弟のカイが丹精込めて作ったホワイトアスパラガスなのだから、と。
ハワード卿以下、賄いとして試作品を出される度に絶賛するのだが、オシアン本人はどうにも気に入らないらしく、その日はアスパラガスに添える華夏風のクリームソースを作っていた。
「すまないが、少しソースの味見をしてくれないか?」
オシアンが味見用のスプーンを右斜め後ろに差し出しだが、そこには誰もいない。
溶き卵と刻み野菜のスープを厨房のテーブルに並べていたリューは、慌てて料理長の元に駆け寄った。
スプーンの先はリューの口がある辺りよりも少し高いところにあったので、リューは背伸びをしてスプーンをくわえた。
オシアンが驚いた顔でリューを見て、それからふっと優しく笑った。
「味はどうだろうか?」
「もう少し白胡椒を入れても大丈夫だと思います」
リューがそう答えるとオシアンは頷いた。
「忙しいところすまないね、率直な意見に感謝する」
二人はそれ以上何も言わない。しかし、リューには分かっていた。オシアンが本当にスプーンを差し出したかったのは、リューよりも少しだけ背の高い相手。この茶館にはいない最愛の妻に、オシアンは三十年来の習慣で、スプーンを差し出していたのだ、と。
オシアンの最愛の妻ヒルダは、ここから離れたアーケイディアの聖騎士団本部にいる。聖騎士団創設者にして「黒き森の大聖女」ベッキー・マールが、一級守護者メグシコ・コガと共に海の神マナナン・マクリルの治癒にあたっている間、彼女たちの護衛をしなければならないからだ。
長年寄り添って来た最愛の伴侶の不在が、普段は全く隙を感じさせないケットシーの王の調子を少し狂わせている。そのことにリューは気付いていた。今のオシアンは、まるで無理矢理片割れを引き離された比翼の鳥のようだと思う。……そう思ってしまうのは、彼自身もまた、自分の半身から引き離されているせいだ。
メグの、あの春の日差しのような笑顔が、夏の日差しのように凛とした眼差しが、無性に恋しい。
リューは首を振った。ここに来たのは、彼女を娶るのに相応しい男になるために実績が必要だったからだ。
賄い後の洗い物を一手に引き受けた彼は、皿を磨き上げることに没頭した。
「紫菀。今の演奏はどう思う?」
皿洗いの後、伯父ディエンの箏の演奏に付き合っていたリューは、今の演奏を耳にすれば、伯父が十五年以上も箏に触れていなかったとは誰も信じないだろうと思った。
哀切な中にも、隠しきれない情熱が表現されたその曲が、僅かここ数日で伯父によって作曲されたものだと聞かされ、リューは更に驚いた。
「非常に胸を打たれる曲ですね。歌詞はあるのですか?」
そう尋ねると、ディエンは静かに笑みを浮かべた。
「いいや。歌詞は君に任せようと思っていた。次長から、紫菀には、この国の言葉を用いた詩の才もあると伺っていたからね」
リューは、自分の頬が緩むのがわかった。
紫菀というのは、リューがこの国では既に成人と認められている十八歳だと知ったディエンが、「それならば、いつまでも君を阿儀と呼ぶわけにも行かない。すぐにも字を付けなければ」と言い出したことで、二人で考え、リューにとって最もしっくりくるものに決めたのだった。紫菀は、この北部連邦ではアスターと呼ばれる。花言葉は「忍耐」と「愛の象徴」――。
阿儀と呼ばれなくなったことで、先日の大司命との接触を思い出すことも少なくなってきた。今はただ、華夏と同じ文字を用いていても発音が異なる皇国出身のメグが、リューの字をどのように発音するのか、それを早く聞きたいと思うだけだ。
あの後、オシアンが大司命と、どのような話を付けたのかは知らない。だが、少なくとも当分の間は大司命がリューの前に現れることはないはずだ、とオシアンは言っていた。
――大司命は運命と正義を司る権能を持つ神だ。その立場に相応しく、決して邪悪な神ではない。だが、あの男は致命的に人の心の機微に疎い。また悪意なく君を傷つけられては堪らないからね。
慈父のようなオシアンの笑顔を思い出すと、リューは嫌でも考え込まざるを得なかった。
大司命は邪悪ではないかもしれないが、誰かを愛することも育むことも不得手だと思われる。リューの実父は問題外だ。それなのに、何故あの二人には子があって、オシアンのような情愛のこまやかな王には子がないのか、と。
(メグさん。いつか貴女の仰った通りです。私も、オシアン公とヒルダ夫人のように愛情深いお二人が、本当の両親であったならば、どれほど幸せだったことかと思います)
彼は密かに、心の中のメグにそう語りかけた。
* *
少女のように美しい見習いの少年をいつも指名する初老のマダムは、その日、彼が新曲だと言って披露した歌に息を呑んだ。
苦み走った大人の色香漂う黒髪の男が出て来て、少年と共に舞台に上がり、真剣な表情で華夏の伝統楽器を奏で始める。哀切なメロディの中に確かに感じられる情熱。
少年が優しく、それでいて熱を込めた美声で歌う様は、まるで伴侶を求めて歌う可憐な小鳥のよう。
まだ見ぬ恋人を想いながら歌い、舞い続ける少年の心情を綴った歌詞は、静かに胸を締め付ける。
ホールで歓談しながら茶と料理に舌鼓を打っていた客たちは皆黙り込み、少年と男が一礼してホールから去るまで、茶を飲むことすら忘れていた。
しばらくして、マダムは独りごちた。
「まぁ、大変。うちの親戚に、あの子と歳の合う娘はいたかしら?」
すぐにでも、あの美しい少年に相応しい恋人を見つけてあげなければ、と彼女はつい思ってしまった。
そして、そう考えたのは、どうやら彼女だけではなかったらしい。
翌日以降、暁嵐茶館の客は、前日の倍に増えた。これまで、この茶館に訪れる女性客といえば、時間と金銭に余裕のありそうなマダムばかりだった。しかし、急激に若い女性たちが、マダムたちに付き添われて茶館にやって来るようになったのだ。
彼女たちはアスターのコサージュを身に付けて舞台に近い席に陣取り、リューに熱い眼差しを注いだ。
一方、リューは完璧な作り笑いでそれに応え、どこまでも行儀の良い接客に務めた。彼の想い人は、「愛している」と言う代わりに、はにかみながらリューに向かって李を投げてくれる女性だ。彼に向かって黄色い声を張り上げるような、茶館の客たちとは違う。
リューはさらりと若い女性客の手を躱し、ガラスのポットに湯を注いだ。
「こちらは、少しお待ち頂きますと、ポットの中で茶葉の花が開きます。その瞬間を、どうぞお見逃しになりませぬよう。更に仕掛けがございますので」
体幹を鍛えているので、客の手を躱しても、盆に載せたポットから湯が溢れることはない。しかし、リューは女性客に、冷ややかな笑顔を向けた。
「お美しいレディに万が一、お湯がかかるようなことがあっては大変です。どうか、お戯れはほどほどにお願いいたします」
* *
「……それで熱狂する女性が増えたのが解せないって?」
就寝前にリューから愚痴を聞かされたアーセンは、ふんと鼻を鳴らした。
「冷ややかな笑顔だなんて、とんでもない。リューはあの時、とても妖艶に微笑んでいたよ。あの物に動じないシェーンとカイ叔父さんが、思わず頬を染めるくらいにさ」
リューは自覚していなかった。彼の笑みは攻撃的な気分の時ほど妖艶なのだということを。
時代的にリューの世代は字を付けなくなるのですが、本国から離れた人の方が伝統文化を頑なに保持する例は多いので。
〈登場人物〉
イー・リュー:聖騎士団の最年少守護者。伯父の勧めに従い、「紫菀」という字をつけた。




