17、朝が来て、そして……
邪竜アヴァルスは、自身の胴体がざっくりと斬られ、左後ろ足と残っていた尾が切断されたことに気付かなかった。ただ、強い衝撃を受けたその三箇所から膨大な魔力が激しい勢いで流出する感覚と、これまでに経験したことのない激痛を覚えていた。
歌さえ止めば、と左の頭は思った。
だが、間もなく右の頭の目が信じ難いものを捉えた。
それは、伸びやかに歌いながら、信じ難い速さでこちらに肉薄する美しい若者の姿だった。
その左手に構えるは橙朱に輝く剣、右手に持つは青白く煌めく剣。
――真正面から挑んで来るとは、俺たちを侮るにもほどがある!
怒りのために、邪竜の硬直が解けた。
邪竜は前足に力を込めて跳躍した。不遜な挑戦者を食らうべく、歯茎もあらわに左右の頭で迫る。
しかし若者は蝶のように竜の双頭を躱し、すぐ喉元まで迫って来た。
――まさか、知っているのか?
竜の喉元には、他の鱗とは逆向きに生えた鱗――逆鱗がある。その逆鱗のすぐ下にある魔力の塊、竜珠こそが竜の弱点なのだ。
アヴァルスの場合は、二本の首のそれぞれの付け根に、その竜珠があった。どちらか一方が破壊されるだけなら、残った竜珠でもう一つの竜珠を再生することが出来る。しかし両方を同時に破壊された場合は、流石のアヴァルスも絶命を免れない。
――いや、問題ない。大方の魔力が流出したとて、あの細い片腕では、二箇所の逆鱗の下の竜珠を一度に穿つことも俺たちの首の根元を断ち切ることも出来まい。馬鹿正直に正面から向かって来るのだ、どうにでも出来る……。
若者は高速で駆けているにも関わらず、その細い身体から出ているとは思えぬ声量を保ったまま、妖艶な笑顔で歌い続けていた。
右の頭は正面から若者に食らいつこうとし、左の頭はその流さを活かして若者の背後に回り込んだ。
けれども若者は余裕のある表情で右の頭を剣で払い、高く跳躍することで左の頭を巧みに躱し、地に足が着く前に、左手を横に振るようにして橙朱の剣を放り投げた。
橙朱の剣が、独楽のように勢いよく回転しながらアヴァルスの右の頭の方に飛んで来た。だが決して見切れない速さではない。
――やはり、大した威力ではない。
右の頭がその剣を口で咥え、そのまま噛み折ろうとした瞬間。剣がぐにゃりと口の中で曲がった。
須臾の間、アヴァルスは何が起きているのか分からなかった。
橙朱の剣だったものが、長くしなやかな帯に変わり、根元まで垂れ下がった。そしてそのまま蛇のように螺旋を描きながら右の頭と左の頭を束ねるように幾重にも巻きつき、動きを封じたのだ。
それと気付いた時には、アヴァルスの左右の首は二つの竜珠諸共、根元から断ち切られていた。
若者は歌うのを止め、青白く輝く剣を一振りした。その妖艶な目は、邪竜の首を冷然と見下ろしていた。
邪竜の双頭は、敵を罵ることも今際の呪詛を吐き出すことも出来なかった。どちらの口も橙朱の帯によって固く封じられていたからだ。
若者が言い放った。
「卑怯だ、と言いたげですね。自分たちよりも弱い者の命と尊厳を蹂躙してきた卑怯者の癖に」
彼はアヴァルスの首の向こうに目をやると、その場に跪いた。
「罪なくして邪竜の餌食となった全ての方々よ。貴方がたの仇は討ち果たしました。どうか心安らかに、行くべきところへ――」
アヴァルスの四つの耳が最期に聞いたのは、優しく美しい祈りの歌だった。
……けれども、その祈りの歌は、死にゆくアヴァルスのためには捧げられなかったのだ。
* *
アヴァルスが絶命したことで、その腹の中から解放された被害者たちの霊が続々と現れた。古い時代の霊はとうの昔にアヴァルスに吸収され、魔力に変えられてしまったのだろう。現れた霊たちの服装は、何れも最近の州連合のものばかりだった。アーセンが考えていた通り、その被害者の数は連合捜査局に届けられた報告書よりもずっと多かった。
リューが犠牲者たちに捧げる祈りの歌が茶館のホールに響き渡る中、猫の姿のオシアンとカイが、煉獄の炎を編んで重ねた網で邪竜の魂を捕らえ、厳しく絞め上げた。
邪竜の魂が苦痛のために悲鳴を上げた。今後その邪悪な魂は、いつ果てるともしれぬ責め苦に苛まれることになる。そのことに同情する者は誰もなかった。
ハワード卿が跪き、真紅の剣を丁寧に床に置いた。その剣は、すぐに普段の儚げなシェーンの姿に戻った。少し遅れて、古筝を演奏するための付け爪を外したディエンもアーセンと共に魔法障壁から出て来た。
ディエンが切り落とされた邪竜の尾と足、胴体、首に祝融符を貼り、アーセンとシェーンがそっと目を伏せた。
間もなく邪竜の亡骸が炎に包まれた。
最後の犠牲者がリューの歌によって冥府に導かれ、三種の浄化の炎によって邪竜が灰に変わった頃。
茶館の曇りひとつない硝子窓から、朝の眩い光が差し込んでいた。
* *
「リュー、お疲れ様」
アーセンは、跪いたまま黙り込むリューに声をかけた。
しかし返事はなかった。
「リュー?」
アーセンはリューの顔を覗き込み、再度声をかけ、肩に手を置いて揺すった後、慌ててシェーンを呼んだ。
「来てくれ、シェーン殿。リューが起きないんだ」
シェーンは急いでリューに駆け寄ると、その手を取り、顔に耳を近づけて脈と呼吸を慎重に確かめた。それから安堵の表情を浮かべ、大きく息を吐いた。
「呪詛でも急病の類でもありません。疲労と魔力切れで眠ってしまっただけです」
その場にいた全員が、表情を和らげた。
カイがリューの側に駆け寄り、労いの声をかけた。
「細い身体で、あれだけ朗々と歌いながら走っていたんだものな。うちの娘よりもずっと年下なのに、よく頑張ったよ」
ハワード卿はリューを寝室に運ぶために、横向きに抱えながらこう言った。
「リュー、すまなかった。守護者は舞いながら歌うものだとはいえ、お前が毎朝、大声で歌いながら稽古用の剣を振り回して走るのは正直に言ってやり過ぎだといつも思っていた。だが、きちんと意味があったんだな」
アーセンがくくっと笑いながら、ハワード卿に従った。
「君の出番だよ、と声をかけた時のリューと来たら、今までで一番良い顔をしていたよ」
オシアンがふわりと尾を揺らした。
「きっと目覚めた時には酷い空腹を感じることだろう。我も少し休んだら食事の支度を始めるとしよう」
シェーンがリューの靴を脱がせ、ハワード卿が腕の中のリューを優しく寝台に寝かせた。大きな猫になったアーセンがその傍らに寄り添って丸くなり、ディエンが上から丁寧に毛布を掛けた。
「おやすみ、紫菀。君の戦う姿は、まるで長沙桓王と陸丞相の再来だった。君は、私と、そして君の母の誇りだよ」
眠っているはずのリューが、ふわりと微笑んだ。
* *
リューがこれまでにない空腹を覚えて目を覚ますと、また一緒に寝ていたらしい猫の姿のアーセンが大きく伸びをした。
「目が覚めたかい、リュー。もう夕方だよ」
それほど眠っていたのか、とリューは焦った。
「いけない、早く支度をして仕込みに参加しなくては」
アーセンが喉を鳴らした。
「落ち着きなよ。もう邪竜は倒したんだ。茶館での役目も、もう終わったんだよ」
リューは昨夜から明け方まで続いた戦いのことを、やっと思い出した。
「……私たちは、勝ったのですね」
そこへシェーンが粥の大鍋を、ディエンが四人分の器と匙の載った盆を抱えて入って来た。
「やはり今起きたのですね。共に食べようと思ってこちらに運んで来たのですよ。さあ、食事にしましょう」
リューは近代西洋ハイファンタジーではなく武侠小説の主人公なのではなかろうか、という気がしてきました。この肺活量と身のこなし、京劇俳優に転職出来そうです。




