16、聖騎士団長、交換条件を飲む
ハワード卿の利き腕の肩の骨が、砕けた。
それは、単にこの場での戦力が減るというだけではない。聖騎士団長ハワード・ブライアン・キャンベル卿の今後に関わるほどの負傷だった。
演奏と歌唱にそれぞれ集中しているディエンとリューを除き、誰もが絶望の表情を浮かべた、その時。
「その傷、よろしければ妾が治癒して進ぜましょう」
ふわふわとハワード卿の許に漂って来たのは、アヴァルスの腹中から救出された運命の女神――少司命の魂だった。
「よろしいのですか?」
ハワード卿がそう尋ねると、少司命の魂が肯定の意を示すように揺れた。
「構いませぬ。その代わり、妾からも聖騎士団長殿にお願いしたきことがございまする。もしもその願いを聞き届けてくださったならば、御身にはまた別の難儀が振りかかるやもしれませぬが、如何なさいまするか?」
オシアンが口を挟んだ。
「華夏の運命を司る女神よ。まずはその条件をお聞かせ願いたい」
少司命は柔らかな声でオシアンに挨拶した。
「当代の猫型妖精の万乗の君に、ご挨拶を申し上げまする。お見受けいたしまするところ、御身は聖騎士団長殿を御子同然に思うておいでのご様子。なれば、包まず申しましょう。妾の願いは、これから人として生を受くるにあたり、聖騎士団長殿とその御妻女に、妾の父母となって頂くことにございまする」
ハワード卿は面食らった。
「よろしいのですか?」
少司命の魂が揺れた。
「妾はそもそも、人として生を受くるべく天界を離れた身。人の一生を全うせねば、天に戻ることは叶いませぬ。なればこそ、誰よりも心正しき御方々を父君、母君とお呼びしとうございまする」
オシアンが複雑な表情でハワード卿を見た。
「ハワード卿。もし少司命の頼み事を引き受ければ、今後ことあるごとに、あの大司命が関わってくることは間違いない。どうするかね?」
彼はハワード卿によく考えるよう勧めた。大司命は決して邪悪な神ではない。しかし彼の神は他者の心の機微に疎い上に、少司命に対する執着が並外れて強いのだ。必ず厄介なことになるだろうから、と。
しかし、ハワード卿は即答した。
「華夏の運命の女神よ。貴女がこの傷を治癒してくださるのでしたら、私は喜んで、貴女の父となりましょう」
「やれ嬉しや。どうぞお頼み申し上げまする、父君」
少司命の魂が、ハワード卿の肩にふわりと触れた。
「……腕が、違和感なく動くようになりました」
ハワード卿が不思議そうに右手の指を動かした。
オシアンが頷き、自らの弟に目を向けた。
「それでは、再び戦いに赴こう。カイも、まだ戦えるな?」
「はい、兄上!」
カイが勇んで返事をした。
シェーンは再び真紅の剣に戻り、その剣をハワード卿が力強く握りしめた。
* *
アーサー王とマナナン・マクリルは、アヴァルスの呼んだ嵐を掻き消した後も、茶館とその周囲を見守っていた。
「なるほど、華夏の人の子は面白い術を使うのだね」
マナナン・マクリルは、茶館の周囲に散らばる、小さな使い魔たちに目を向けた。
小さな使い魔たちは、それぞれの手に何枚もの符を手にしており、茶館に人間が近づこうとすると、その符をペタリと貼る。すると、符を貼られた人間は皆、決まって踵を返し、速やかに茶館から離れるのだ。術師は、きっと一般人をアヴァルスとの戦闘に巻き込まないためにあの方法を考えついたのだろう。
実際には、マナナン・マクリルや嵐の王は勿論、オーベロンでさえ茶館の中に入ることは出来ないが、たまに人間の中には無自覚に変わった能力を持つ者もいるので、念には念を入れてのことだろう。
「長く生きているが、初めて生きた人間に負担を与えずに操る術を目にした。術師はとても優しい子であるらしい。……そうは思わないか、嵐の王よ」
マナナン・マクリルは嵐の王に同意を求めたが、嵐の王は茶館で行われている戦闘の方に意識を傾けていた。
「ハワードよ、我らが愛し子でありながら、邪竜如きに後れをとるとは情けない」
嵐の王は苦虫を噛み潰したような顔をすると、自らの後に従えている妖精騎士の軍団を振り返った。
「――ロバート・ロイド卿はあるか?」
その声に応じて軍団の中から一人の妖精騎士が進み出た。銀色に輝く鎧を纏った、背が高く、整った顔立ちをした栗色の髪の青年だ。彼は流れるような所作で嵐の王の前に跪いた。
「御前に、我が王よ」
嵐の王は満足げに頷き、ロバート卿に命じた。
「ロバート卿。太古の九人の魔女のうち三人を斬り伏せしそなたの武技を、あれなる我が愛し子ハワード・ブライアン・キャンベル卿に、しばし貸し与えよ」
「御意」
ロバート卿の身体から金色の靄が立ち上った。その靄はロバート卿の身体から離れて小さく凝り、一片の鳥の羽根に変わった。
「我が武技よ、しばしハワード・ブライアン・キャンベル卿の助けとなれ」
ロバート卿は羽根を手に取り、そっと茶館に向けて落とした。
マナナン・マクリルは、その羽根がハワード卿の上に落ちる様子を見て、にっこりと微笑んだ。
嵐の王も面白いことを思い付くものだ、と。
「さて。私も、養い子たるブランの息子たちに、加護を与えるとしよう」
彼は茶館で邪竜と戦う猫型妖精の兄弟に、優しい眼差しを向けた。
* *
カイは硬直した邪竜アヴァルスの胴に二丁の斧を叩き込んだ。
しかし、鋼鉄のように鈍く輝く邪竜の鱗は、先程よりも遥かに多くの魔力を含んで、全く刃を通さなくなっていた。斧に煉獄の火を纏わせて、やっと少し罅が入る程度だ。
邪竜はガルーダの歌の効果で毒を吐くことも動くことも出来なくなった。だからその代わりに体表に魔力を集めて身を守ろうとしているのだろう。
邪竜の動きを封じるリューの歌も、無限に続くわけではない。今のうちに大きく邪竜の力を削ぐべきなのだが……。
カイの兄であるオシアンが邪竜の胴体をスティレットで刺し、三度目の毒雷を発動させた。
だが、どうやら邪竜は早くも毒への耐性を獲得したらしい。
視え過ぎる猫型妖精の目は、事態を楽観視させてくれなかった。それは、常よりも強くペリドットの目を輝かせているオシアンや、アーセンから左目を借りているハワード卿も同様だろう。
カイが眉を寄せた時、頭に直接声が響いた。
――我が養子ブランの息子たちよ。このマナナン・マクリルが、新たな魔法を贈ろう。
これまで接触したことはなかったが、相手が誰なのか、カイにはすぐにわかった。父ブランの養父というならば、海の王マナナン・マクリルをおいて他にない。
「感謝いたします、偉大なる海の王よ」
カイが胸に手を当てて一礼すると、その魔法の式が脳裏にはっきりと浮かび上がった。
* *
アヴァルスは全身の鱗に全身の魔力を集めて強化し、辛うじて身を守っていた。
左の頭は、何故か封印が解けた日に餌食にした若い男の顔を思い出した。
小さな包みを大切そうに手に持ち、早足で歩く男だった。
最期まで、死にたくないと言い続けていた。
男が持っていた包みの中には、男の小指がやっと通るほどの小さな指輪が入っていた。
今の自分もあの男と同じ顔をしているだろうか、と彼は思った。
左の頭は、こう考えていた。
――人間は、永遠に歌い続けることは出来ない。まして歌い手は少女のように華奢だ。歌はすぐに止む。反撃の機会もまだある。
幸い猫の王の針の毒も効かなくなってきた。強化した鱗が斧や剣の刃を通すことはない。
そろそろ歌が止む頃合いかと思われた時。
強い衝撃が、尾と胴、左の後ろ足を襲った。




