15、金翅鳥(こんじちょう)の歌
邪竜アヴァルスは二度目の毒雷の痛みに悶絶しつつ、どうにかこの場から逃れようと、今度は身体を小さくし始めた。
すると身体の大きさが仔馬ほどになった時点で、猫の王に突き立てられた忌々しい二本の太い針――邪竜はその武器の名がスティレットだということを知らなかった――が抜け落ちた。針は床に当たって音を立て、泡のように消えた。
針が抜けたことで、アヴァルスを苛んでいた激痛が治まった。
何故、もっと早く小さくなることに思い至らなかったのか、とアヴァルスの左の頭は舌打ちした。
苦痛にのたうち回っていた隙に、尾の一本は人間に斬り落とされ、両目は雉猫に潰されてしまった。どちらも元に戻るには最短でも一晩はかかるというのに。
だが、これで勝てると右の頭は呟いた。身体が小さくなったことで、先程とは比べ物にならないほど敏捷性が増したのだ。
人間の男と二匹の猫の攻撃を素早く躱し、残った尾と爪を、風を切るように振るう。
その尾は二匹の猫を薙ぎ払い、爪は人間の男の右肩を殴りつけて膝を付かせた。相手は服の下に鎧でも着込んでいたのか、肉を抉ることは出来なかったが、間違いなく骨は折れただろう。
左の頭が即座に口を開け、人間の頭に齧り付こうとした。目は見えなくとも鋭い嗅覚は健在だ。捕食に支障はない。
ところが人間の頭に肉薄した途端、人間とアヴァルスの間に突如、炎の壁が現れた。
鼻先に激痛を覚え、左の頭は慌てて人間の男から離れた。普通の炎ならば、このように感じることはない。それは、これまでに浴びたことのない特殊な炎だった。
右の頭は舌打ちした。左の頭が卑しい心を起こしたために、炎の壁に取り囲まれてしまったではないか、と。
炎の壁はすぐに消えたが、その時には二匹の猫と人間の男は姿を隠していた。
アヴァルスの双頭は再び嵐を呼んだ。
人間の耳には不気味な響きとしか聞こえないそれは、おおよそ次のような意味を持っていた。
――王が再び命ずる。暴風よ、このふざけた建物を跡形もなく吹き飛ばせ。雷よ、俺の敵を打ち砕け。毒の雨よ、この地を永久に蝕むのだ。
けれども建物はびくともせず、雷が敵の上に落ちることもなかった。
毒の雨の代わりに遥か上空から降り注いだのは、高笑いの声だった。力強く厳かな壮年の声と、華やかで麗しい青年の声。千年前、確かに耳にした、嵐の王と海の王の声だ。
「愚かなり、偽りの王よ。もはや雨も風も雷も、汝の声には従わぬ」
「風よ、雷よ、恵みの慈雨よ。心正しき者たちの力となれ」
邪竜の左右の頭は苛立った。千年前には自分たちを封印することしか出来なかった者どもから嘲笑される日が来ようとは。
千年前とは一体何が違うというのか――。
漸く、あの頃との違いに気付いたアヴァルスの双頭は、口々に雷鳴の如き怒鳴り声を上げた。
「魔女どもよ、何故俺たちの呼び声に応えぬのだ。お前たちの王が呼んでいるのだぞ!」
「お前たちは自ら誓ったはずだ、俺たちを王として永遠に仰ぐと!」
それでもやはり魔女たちは誰一人として呼びかけに応えなかった。
「あの決戦から千年以上も経つというのに、魔女どもが今も息災でいるとでも?」
何処からともなく、黒い猫の王の笑う声が聞こえた。その声はこう告げた。
「邪竜アヴァルスを創造し、偽王として担いだ九人の魔女は、我ら善き妖精の王と人間の手で、ことごとく討ち果たした。邪竜を王と仰ぐ者は、もうこの世には存在せぬ」
猫の王の声はこう付け足した。最後の魔女を討ったのは、つい二月ほど前だった、と。
アヴァルスの左の頭が咆哮した。
右の頭に比べ、彼には魔女たちに対する強い依存心と愛着があったからだ。
腹中に隠していた運命の女神の魂を奪われたために、神聖障壁は失せた。嵐の王と海の王が現れたことで、嵐は従わなくなった。憎い敵は姿を晦ました。
しかしアヴァルスには、まだ切り札があった。
「右の俺よ、あれを用いるぞ」
「……承知」
その切り札とは、東南亜大陸の竜族ナーガに由来する、猛毒を吐く能力だった。
ひとたびその猛毒を吐けば、辺り一帯は今後百年の間草木も芽吹かず、妖精や人間が足を踏み入れただけで命を落とす汚染地帯となる。その毒は上空にいる嵐の王と海の王にも届くだろう。
あの猫の王は「劇が終わるまで舞台からは降りられない」と言っていた。それはつまり、敵もこの場からは逃れられないということだ。ならば確実に毒で仕留めることが出来るはず。
もっとも、毒を吐いた後は酷い飢餓感に見舞われるので、何度も使いたい手ではないが。
アヴァルスの腹が血で爛れたように赤く染まり、左の頭と右の頭の口が同時に開いた。
しかし――。
あの、穢れなく麗しい若者の歌声が、再びその場に響き始めた。姿の見えない弾き手が奏でる異国の音楽と共に。
それがアヴァルスの耳に入った途端、腹から少しずつ熱が引いていき、尾の先が天に向かってまっすぐ伸びたまま、動かなくなった。
アヴァルスの左右の頭は混乱した。この歌は初めて耳にするはずだ。……だが、その旋律が、何故か非常に恐ろしくて堪らなかった。
* *
リューが歌い、ディエンが古筝で伴奏するその歌は、遠い昔、彼らの祖先である陸丞相が東南亜大陸出身の僧侶から聞き覚えたものだった。
曲名は「迦楼羅鳴」という。
「迦楼羅」というのは、東南亜大陸に棲息するナーガの天敵「ガルーダ」を華夏語に音訳したもので別名「金翅鳥」ともいう。巨大な鳥の神だった。
リューが幼い頃、母はこの歌を伝授する際に教えてくれた。猛毒を吐く竜を主食とする迦楼羅の鳴き声には、竜の毒と動きを封じる力が宿る。そして迦楼羅の鳴き声を再現したこの歌にも、同じ効果があると言い伝えられている、と。
その言い伝えは正しかったのだ。
ところで現在、リューが展開している魔法障壁の中には茶館のメンバー全員が揃っていた。先程アヴァルスが神聖な炎に怯んだ隙に、人間の姿に戻ったシェーンが、右肩を負傷したハワード卿を魔法障壁の中に運び込んでいた。また、アヴァルスの尾に薙ぎ払われたオシアンとカイは、自力で着地すると魔法障壁の中に駆け込んで来た。
ディエンの作った治癒術の符「神農符」を、シェーンがハワード卿の右肩に貼った。アーセンは、オシアンとカイに聖騎士団創設者ベッキーが作った特製ポーションを一本ずつ渡した。
「弱体化しているとはいえ、アヴァルスはレビアタンよりも遥かに手強いですね」
アーセンがそうオシアンに囁いた。オシアンが度々、海から上がって来る怪物レビアタンを一人で安々と倒していることを知っていたからだ。
特製ポーションを飲み干したオシアンは答えた。
「レビアタン如きが、彼の邪竜と比肩し得ると思うかね?」
邪竜アヴァルスの魔力と体力は、オシアンが千年以上に渡る生涯の中で対峙した、どの怪物をも遥かに凌ぐ。仕留めるには首を切断すべきだが、その際、左右の首をほぼ同時に切断することが望ましい。もし片方の首が残れば、凶暴化して手が付けられなくなる可能性が高いからだ。
「同時に、かつ速やかに左右の首を切断するためには、邪竜の体力と魔力を更に大きく削らねばならないのだが……。ハワード卿、右肩の具合はどうかね?」
オシアンからそう尋ねられ、ハワード卿は悔しげに首を振った。
「肩から先の感覚がなく、剣を握ることさえ出来ません」
ハワード卿の右肩を治療していたシェーンの表情も、いつになく暗かった。
「右肩の骨が砕けています。これでは、とても……」




