13、幕が下りるまで、舞台からは降りられない
アヴァルスの左の頭は、目の前に現れたカイを千年前に仕留め損ねた猫型妖精だと誤認して殺害しようとしていた……。
突然、アヴァルスの双頭がそれぞれ、苦痛に満ちた呻き声を漏らした。
先程ハワード卿が、神虎と少司命を脱出させるためにアヴァルスの体表に付けた傷。その傷に、人間形態のオシアンが、深々と短剣を突き刺したからだ。
アヴァルスの左の頭も右の頭もそれぞれカイとハワード卿に気を取られて、いつの間にオシアンが忍び寄っていたのか、全く気付いていなかったに違いない。
「……王の面前にて王のものを奪わんとする意味、その身に刻み込んでくれよう」
ハワード卿とカイが硬い表情で大きく後ろに引いたのは、オシアンから白い怒りの炎が立ち上っているように見えたからだろう。
「二人とも、邪竜から離れよ」
オシアンが短剣の柄から手を離し、ハワード卿とカイにそう命じた。
二人が言われた通りにそうすると、空気が裂ける音が響き、アヴァルスが再び苦悶の叫び声を上げた。
ホールに漂う独特の臭気。少し刺激のある独特の生臭さと、蛋白質が燃えた時の強い焦げ臭さ。
「……雷撃を浴びた瞬間に、毒のもたらす痛みが全身に走る。兄上の編み上げた魔法、『毒雷』だ」
鼻を上に向けて臭気を嗅いだカイが、そう言った。
誇り高き王オシアンは、確かに料理に毒を入れるようなことは絶対にしない。だが、それは正々堂々と戦う姿勢や敵への慈悲を意味するものではない。
彼は必要とあらば、武器に痺れ薬を仕込んだり、毒を組み合わせた魔法を使ったりすることに躊躇いはない。彼の誇りは愛する臣民及び家族を誠実に守り抜くという一点のみ。
それに、種族を問わず、妖精の王というものは、自分のものを奪おうとする者を許さないし、許すことが出来ないのだ。それを許すことは何れ、その種族の尊厳や同胞の命を軽侮されることに繋がる故に。
まして、オシアンにとってカイは単に異父弟というだけではない。側近の中でも特別な「王の左目」なのだから。
雷撃を受けて数秒の間、床の上で硬直した邪竜は、やがて苦しげに呻いたり吠えたりしながら、床の上をのたうち回り出した。彼らにカイの言葉が聞こえたかどうかは分からない。しかし――。
「……これまで随分と多くの弱者を嬲り殺しにしてきた身で、少しばかりの責め苦にも耐え切れぬなどとは、よもや言うまいな?」
黒猫の姿に変わったオシアンが嘲笑う声は、耳にしっかりと届いたらしい。アヴァルスの双頭はどちらも咆哮を上げて更に暴れた。そして暴れながら茶館の窓に尾を打ち付けた。
木枠に板ガラスを張っただけのその窓が、その衝撃に耐えられるはずがない、通常ならば。けれども窓が枠とともに木っ端微塵になることはなかった。
「邪竜よ。一度逃げて毒の効果が消えるまで隠れるつもりであったろうが、そうはいかぬぞ。ここはお前が最期を迎える舞台だ。ひとたび舞台に上がった者は、幕が下りるまで、舞台から降りることは出来ぬ」
オシアンがそう告げた。
ハワード卿は、妖精王オーベロンの言葉を思い出した。
――今夜、君たちは悲壮な戦いに身を投じるのではない。この茶館という素晴らしい舞台で、全員が朝まで極上の喜劇を演じるんだ。
苦しげな息を吐きながら、アヴァルスがどんどん巨大化していった。もしかすると、天井を突き破って脱出しようという狙いがあったのかもしれない。しかし、どれほどアヴァルスが巨大化しても、茶館の天井にアヴァルスの頭が届くことはなかった。
この茶館には、建物を保護する魔法と空間拡張魔法が重ねがけされているからだ。
オシアンの声が大きく拡がったホールに響いた。
「邪竜よ、もはや逃げ場はないと知れ」
アーセンが、するりとリューとディエンが身を隠す魔法障壁に入って来た。彼の右の瞳が灰色から銀色に変わっているのは、そこに最大限の魔力を込めている証。
「伯父上の『毒雷』でも、アヴァルスの体力は思うように削り切れなかったようだね」
猫型妖精の血を引いているせいか、アーセンも本気を出しさえすれば敵の体力や状態をかなりの精度で見抜くことが出来るのだ。
「君の出番は、まだずっと先だ。しばらくは年長者たちに任せておきたまえ」
彼はいつもの胡散臭い笑みを浮かべ、リューの肩を叩いた。
やがて邪竜アヴァルスの様子が変わって来た。闇雲に吠えていた二つの頭が、高く、低く、声を合わせ始めたのだ。それは酷く禍々しい歌声だった。
――邪竜めが嵐を起こしおった。思うに、この建物を嵐で外から壊す気であろう。
少司命がリューの懐の中でそう言った。
「アヴァルスが、嵐を呼んでこの茶館を外から破壊しようとしているそうです」
リューがそう言うと、彼の肩に止まっていたロビンが言った。
「問題ないさ。こっちには、本物の海の王と嵐の王がついてるからな」
ハワード卿とカイ、そしてオシアンが、再び武器をアヴァルスに向けた。
* *
「……風が強くなって来たね」
聖騎士団本部。倒れた女神ファンズを客人用のベッドに寝かせ、看病していたベッキーが、窓の外を見た。
「嵐の王が何処かで嵐を起こしたみたいだね。この聖騎士団本部全体に魔法障壁を張っておいて良かった」
「鎧戸を閉めた方が良いか?」
ヒルダがそう言ったが、ベッキーは首を振った。
「必要ないよ。カーテンを閉めるだけで構わない」
「それでは、私が――」
メグが立ち上がりかけたが、ヒルダはそれを制止した。
「待て。何だか嫌な気配がする」
彼女はコマドリ型の使い魔、ロビンを呼んだ。
「ロビン。本部内の皆に知らせてくれ。『本部南の塀の外に、敵意ある者たちの気配あり』と」
ややあって、ロビンがドミニク・トーマス筆頭顧問からの言葉を伝えた。
「警備A班より報告あり、『華夏人、或いは皇国人と思われる、武器を所持した二十名を制圧した』と」
「……全く。随分と舐めた真似をする連中だ。聖騎士団長が不在と聞きつけての襲撃だろうな」
ヒルダが肩を竦め、ベッキーが小柄な身体を強張らせていたメグを見た。
「間違っても、自分のせいだなんて思ってはいけないよ。こんなことは、聖騎士団には百五十年前からよくあることなんだ。聖騎士団員には訳ありの子が多いからね」
「……分かりました」
メグはこくりと頷いた。
* *
聖騎士団本部のロビーで他の老人たちと談笑していることが多い老人、ノア・ジョンソンは多くの者たちからは既に引退した団員だと思われている。
だが、彼は実のところ、まだ引退してはいない。
不審な者たちが聖騎士団本部の南側の塀に集まって来た時、彼は好々爺然とした笑みで彼らに声をかけた。
「こんなに遅い時間に、どうなさったのかね?」
不審者たちのうちのある者は、突如声をかけて来た老人に胡乱な目を向け、ある者は舌打ちした。
捨て置くか、口封じに捻り潰すか。彼らの一瞬の隙が命取りとなった。
瞬時に全員がふらふらと力が抜けたように崩れ落ち、倒れていく。
それを見届けたノア・ジョンソンは、自分の頭上に現れた、青い蝶の姿をした使い魔を見上げた。
「ありがとう、エアリアル。後は淑女たちの仕事だ」
彼が手を上げると、姿と気配を魔法で隠していた警備A班のメンバーが現れ、全ての不審を拘束するとガソリン式自動乗用車に乗せて何処かへと連れ去って行った。万が一のことを考え、本部の中に連行することは決してない。
ノア・ジョンソンは一つ伸びをすると、悠々とした足取りで、再び本部の中に戻って行った。
不審者たちはこれから、尋問上手な苛烈な淑女とその使い魔により、情報を搾れるだけ搾られることになるだろう。だが同情はしなかった。
「何しろ彼奴らは、悪意あって俺たちの家族を狙ったんだからな」
〈登場人物紹介〉
ノア・ジョンソン︰引退したはずなのに、いつも聖騎士団本部のサロンでのんびりしている老人たちの一人。使い魔は風精霊のエアリアル。




