11、妖精王オーベロンは、喜劇を演ずる者を嘉す①
ハワード卿は、茶館の奥に駆け込み、身動き出来ずにいるアヴァルスに対峙した。
アヴァルスがハワード卿を見て叫んだ。
「この、恩知らずの卑怯者ども。俺はお前たちをすぐには食わず、器にもせずに飼ってやろうと思っていたのだぞ!」
ハワード卿は鼻を鳴らした。
「お前などに飼われても嬉しくはないし、卑怯と言われても、何も心当たりはないんだがな」
アヴァルスが怒鳴った。
「薬湯や料理に毒を入れただろう!」
ハワード卿は冷静に答えた。
「まさか。この茶館の誇り高き料理長と料理人が、自分たちの作った飲み物や食べ物に毒など入れるものか。お前が行儀悪く食べ物以外のものを口にしない限り、お前の身体には異変など起こらないはずだ」
彼は真紅の剣先を真っ直ぐにアヴァルスに向けた。
「覚悟せよ、邪竜アヴァルス」
しかし、ハワードが真紅の剣を振るうこと十数回、いずれの斬撃もアヴァルスの鱗を裂き、皮膚を傷付けるだけに留まった。
* *
オーベロンが、大司命からその話を聞いたのは、茶館にアイスクリーム製造機を持って行く途中のことだった。
秀麗な顔立ちを重苦しいほど曇らせた大司命に呼び出されたのだ。
大司命曰く、オシアンから茶館に出入りすることを禁じられた自分の代わりに、この箱いっぱいの果物を茶館に届けてほしい、と。
「……運命と正義を司る神の子孫が道を踏み外すとは、洒落にもならんな」
事情を聞かされたオーベロンの口から漏れたのは、実に陳腐な感想だった。
「それにしても、だ。あんたもあんただよ。よくもまあ自分の末裔が租界の犯罪王に堕ちるまで放置していたな」
オーベロンの歯に衣着せぬ物言いに、大司命は痛切な面持ちで答えた。
「……私が、半身たる少司命を探しているうちに、傅役に付けていた神どもが堕落していたのだ」
大司命はこう説明した。彼に人間の罪を報告する三尸虫や竈神は、柳家の前当主がどれほど罪を犯しても口を噤んでいた。縁結びを司る月下老人に至っては、国母となるべきだった絶世の美女と柳家の前当主の足首を、勝手に赤縄で繋いでいた。赤縄は夫婦の二世の仲を繋ぐもの。ひとたび結ばれれば、その男女はどれほど身分差や貧富の差があろうとも、相性が悪かろうとも必ず結ばれてしまい、今世どころか来世も離れられなくなるというのに。
オーベロンはすっかり呆れてしまった。
「それはまた、随分と酷い甘やかしじゃないか。何故そこまで暴走したんだろうな」
大司命は呻くように答えた。
「……アレの容姿が、あまりにも私に似過ぎていたからだそうだ」
大司命配下の神々は、大司命に心酔していた。けれども、大司命は行方知れずの半身、少司命を探すことばかりに没頭してしまい、彼らを顧みることも労うこともなくなってしまった。そのため、配下の神々は柳家の前当主を身代わりとして甘やかすようになってしまったのだ。
「……元々、私は大金帝国の王朝を、あと百年は存続させるつもりでいた。だというのに、あの者たちはアレに甘い汁を吸わせるためだけに、王朝を見限った」
それを聞いたオーベロンは嘆息した。
「なぁ。それって全部、あんたに対する凄まじい当てつけじゃないか?」
柳家の前当主を大司命の身代わりにしただけではなく、大司命に幾らかの恨みを晴らすつもりだったのかもしれない。幾ら長命な神々とはいえ、心酔していたはずの主君から、千年もの間、ただ放置されることが、どれほど耐え難いことだったか。大司命の配下とは面識のないオーベロンでも、そのくらいは容易に察しがついた。だが。
「……そう、だったのか?」
大司命が不思議そうな顔をしたので、オーベロンは再びため息をつくことになった。
「それで、あんたが何もかも放ったらかしにして探していたという少司命は、見つかったのかい?」
気を取り直したオーベロンがそう尋ねると、大司命は力強く頷いた。
「実は、ここ千年ほど途切れていた少司命の気配を、薄っすらと感じることがあるんだ」
それは非常に弱々しい気配だが、大司命が間違えるはずもない。州連合の東部沿岸から、この北部連邦に向かって少しずつ近付いて来ているのだ。
「……おい、おい、おい。待てよ。それって、ものすごく嫌な予感がするんだが」
しかしそれならば、これまで千年もの間、華夏の最上位の神々の一柱たる大司命が少司命を見つけ出せなかった理由に説明が付く。
「要するに、あんたの少司命は、あの邪悪で醜悪な爬虫類野郎の腹の中ってことじゃねえか!」
オーベロンは大司命の襟を思わず掴んだ。
「生身の状態だったか、魂の状態だったかは、そこまでは分からんが、何らかの理由で、少司命はあの千年前の決戦の前にアヴァルスに呑み込まれていたんだよ。道理で、千年前の決戦で、どうしても奴を殺すことが出来なかったわけだ。上位の神を守る聖なる障壁が、あのアヴァルスを包み込んでいたからだ」
彼は興奮し、大司命の襟を掴んだまま、強く揺さぶった。
「おい、少司命がいなくなった時のことを正直に話してくれ。彼女が生身だったか、それとも魂だけだったのか。事と次第によっては――!」
* *
身動きもままならない状態で剣を向けられた時、アヴァルスは初めて恐怖を覚えた。これまで、数え切れないほど無抵抗の相手を蹂躙してきた彼らだったが、その逆の立場になったことは一度もなかったからだ。
しかも、相手が手にしている剣は、どう見てもありふれた剣には見えなかった。神聖な炎の塊が、一振りの剣に姿を変えたものとしか思えなかったのだ。
――逃れられない!
アヴァルスは思わず死を覚悟した。男が剣を振るう度、強靭な鱗に守られているはずの皮膚に灼熱感が走る。
……けれども、それだけだった。その真紅の剣は、アヴァルスの皮膚を十数回にも渡って傷付けはしたが、肉を切り骨を断つには至らなかったのだ。
アヴァルスは大いに安堵し、男をせせら笑った。
「思ったよりも、大したことはないようだな」
「いや、これで良いんだ」
目の前の男の落ち着き払った様子に、アヴァルスは苛立った。
「負け惜しみもいい加減にするが良い。運命の女神を呑んだ俺たちを、人間風情にどうすることが出来る?」
男は答えなかった。しかし、アヴァルスの死角になっていた場所から、目の前の男とは違う男の、鋭く叫ぶ声が聞こえた。
――これは、華夏語か?
何となくそういう気はするものの、その見えない男が何を言っているのかまでは聞き取れない。
しかし、叫び声が止んだその刹那。
アヴァルスの体表に刻まれた傷を通じて、その体内から大きな魔力の塊が抜け出て行くのがわかった。
「お前が呑み込んでいた運命の女神は、こちらに返してもらうぞ」
紅い剣を手にした男が、再びアヴァルスに剣を向けた。アヴァルスの身体から抜け出た魔力は大きな黄金の虎となって、アヴァルスの死角へと駆け出していく。
アヴァルスは、これまで自分を守っていた神聖な障壁が消えたことを感じた。
* *
アヴァルスの死角に隠れていたディエンの元に、大きな神虎が駆け寄って来た。
「……ありがとう、小李」
ディエンはその虎を、愛おしげに抱きしめた。この神虎は、十二年前から去年までの間、ずっと彼の側に寄り添って苦楽を共にしてきた虎の生まれ変わりなのだ。
そして、神虎がアヴァルスの体内から奪還して来た少司命の魂は、ディエンの側に待機していたリューが抱き止めた。
「娘々にご挨拶を申し上げます。私は貴女様の子孫で、柳紫菀と申します」
女神の魂が笑った。
「ほんに嬉しいこと。そなたは大司命には似ておらぬ」
〈登場人物紹介〉
少司命︰大司命の伴侶たる女神。リューの祖先神の一柱でもある。
神虎︰愛称は「小李」。ディエンが長年苦楽を共にし、去年死別した虎の生まれ変わり。




