暗躍する者達3
雲が流れる。
吹き抜ける夜風に押し流され、時々刻々と形を変えていた雲海に切れ間が生じると、覆い隠されていた半月が青白い光を地上へと届かせた。
そこだけ切り取られたように月光が降り注ぐ中、離れの中庭、その中央に陣取っていたのは、甚兵衛羽織を着崩した初老の男性であった。
薄くなりかけの頭髪の下には、鮫を彷彿とさせる静かで凶暴な笑みを浮かべている。
夜道でばったり遭遇した日には、気の弱い者ならば一瞬で卒倒してしまっても不思議はないほどだ。
その立ち姿は素人目にはただ無防備なだけに映るかもしれない。しかし、男が意図的に隙を作っていることを、茂みに隠れるシキは過たず見抜いていた。
シキの気配を察知して、わざわざ侵入者の顔を拝みに出てきたほどの人物だ。
であれば悠然と晒している隙は、姿を見せぬ侵入者を誘い出すための餌なのだろう。
よほど己の腕に自信があり、かつ並外れた剛胆さも持ち合わせていなければ、こんな無鉄砲な真似はできない。
老人と判断して侮るような真似をすれば、手痛い反撃を食らうのは確実だった。
もっとも、敵対するならばの話だが。
「夜分遅くに邪魔して悪いな。けど、ネズミ呼ばわりは止めてくれねえか」
「ふむ、挨拶くらいはできるらしいのう。まあ久方ぶりの来客じゃ。茶の一杯くらいなら淹れてやるわい。遠慮せずに上がっていくとええ」
ばれているなら隠れ続けても無駄と判断し、シキはがさがさと茂みをかき分け、男の前に姿をさらす。
まさか出てくるとは思っていなかったらしく、老人の太めの眉がぴくりと動くも、彼が外に出した反応はそれだけだった。一応は歓迎に分類される言葉を投げかけつつ、くるりと背を向けすたすたと歩き出す。
驚くべきは、その後ろ姿に警戒が一切無いことだ。
ほんの少し相対しただけで、シキが害意を持っていないと見抜いたのである。
単なる当てずっぽうとは異なる直観の成せる業。たったこれだけの所作からでも、老人が歩んできた人生経験の密度が垣間見える。
離れへと招き入れられたシキは、ブーツを脱いで土間から上がると、短い廊下を抜けて畳敷きの一室へと通された。
奥まった位置に敷かれた座布団の脇では、鉄瓶が火鉢の上でちんくらと湯を沸かしている。
そこかしこに見え隠れする生活臭からして、客をもてなすための部屋ではなく、老人が寝泊まりに使っている居住空間らしい。
厳つい外見に反してかなりの読書家のようで、天井まである本棚が壁際を占拠しており、それでも収まらない紙束が山と積まれていた。並んでいるジャンルに節操はなく、触れれば崩れてしまいそうな古文書の類までもが丁寧に保管されている。
「汚いところじゃが、案外と住めば都というやつでな。茶の準備をしてくるので、適当にそこらに座って待っといてくれんか」
そう言うなり返事も聞かずに隣室へ行ってしまう。耳を澄ませば、戸棚を開けたり物をひっくり返すような音が聞こえてきたので、とりあえず大人しく待ってみたところ、数分もせずに小奇麗な湯呑を携えて戻って来た。
「客なんぞ滅多に来ないもんじゃから、どこに仕舞ったかうっかり忘れてのう」
老人はからからと笑いながら座布団の上にどっかと腰を下ろすと、すっかり沸騰している鉄瓶を取り上げ、慣れた手付きで湯呑に熱湯を注いだ。
湯気と共にやんわりとした香りが部屋中に広がる。満足げに頷いた老人は、湯呑に投じられていた紐付きの三角錐を引き上げた。薄暗い照明では判別しづらいが、三角錐の中には茶葉の塊が封じられている。
「って、ティーバッグかよ。久々の客をもてなすにしては、手抜きじゃないのか?」
「押しかけといて図々しい小僧じゃな。いいから騙されたと思って、四の五の言わずに飲んでみい。美味くて腰を抜かしても知らんぞ」
「強引な爺さんだなあ……お、本当だ。結構いける」
軽口を叩きつつ、受け取った湯呑をぐいと傾け、熱々のお茶を流し込む。
物怖じすることのないシキの振る舞いに、老人は愉しそうに目を細めると、湯呑を傍らに置き、胡坐をかいて膝の上で片肘をついた。
「一息ついたところで、改めて聞かせてもらえんか。兄さん、どこの組の回し者じゃ?」
「組? 回し者? なんか勘違いされてる気がするんだが、俺はただの旅人だぜ。シキって呼ばれてるんだ、よろしくな」
「呼ばれている、か。ちと気になるが、まあ置いといてやるわい。そのシキさんがこんな老いぼれに、一体全体どんな御用かの?」
眼光鋭く老人が問うと、シキは相手に合わせるように飲みかけの湯呑を脇へやり、腕組みをして困惑の表情を作ってみせた。
「うーん、実を言うとあんたに用事があったわけじゃないんだ。八徳會の内情を探ってこいって放り込まれたんだが、具体的に何をどうすりゃいいかさっぱりでさ。とりあえず、向こうの屋敷に忍び込むための足掛かりくらいは探そうと思ってたところなんだよ」
離れとはいえ八徳會の敷地に住んでいる以上、この老人も八徳會の関係者であるはずなのだが、その辺りをまるで考慮せずに洗いざらいぶちまけるシキの顔をまじまじと眺め、どこか近寄り難い空気を放っていた初老の男は、一拍の間を置いて呵々大笑した。
「くかかかっ、こりゃあたまげたわい。てっきり二束三文で雇われた鉄砲玉かと思うとったが……いやはや参った。随分と明け透けな盗人もおったものよ」
「俺としちゃあ嫌々なんだけどな。まあ、こっちにも事情があるってことにしといてくれ」
拗ねた口調での返答がますますツボに入ったのか、老人はひとしきり腹を押さえてくつくつと笑う。ぺしぺしと膝を叩きながら身を震わせていたが、目尻の端に涙を浮かべながらも、こみ上げてくる思い出し笑いの衝動をどうにか噛み殺すことに成功した。
「いやいや、すまなんだ。詫びというわけではないが、後で土産として儂の蔵書を一冊くれてやろう。その代わり、もう少しだけこの爺の相手をしてくれんかね?」
「んー、それは別にいいんだけどさ……爺さん、そろそろ名前を教えてくれよ」
真っ向から訊くと、老人はしまったと言わんばかりに、ぺしりと自身の額を叩いた。
「こいつは失礼しておったわい。儂はソウカク、見た目通りの隠居爺じゃよ」
「ソウカク? どこかで聞いた名前だな……あ、思い出した。八徳會を作ったっていう侠客だ」
先程聞かされたばかりの名前に、シキはつい膝を叩いていた。
ところが当のソウカクはというと、くだらないと吐き捨てんばかりの仏頂面である。
「所詮は昔の話じゃよ。ここにおるのは、組の行く末を子分共に委ねちまった挙句、そいつらが道を踏み外していくのを止められんかった、馬鹿で無責任な耄碌爺に過ぎん」
「道を踏み外した?」
「ああ、そうじゃ。儂が八徳會を作ったのは、虐げられ奪われるだけの人生に嫌気が差したからよ。てめえの生き方をてめえで決められんというのは、ただ死ぬよりも何倍も恐ろしいもんじゃからな。そして、先に逝っちまったダチ共に顔向けできんというのは、それに輪をかけて恐ろしいもんじゃと、この歳になって痛感しとる」
どこか遠くを見つめるような瞳でソウカクは述懐する。虚空に向けられた視線の先にあるのは、現在でなければ未来でもない。過去に交わした約束と、ソウカクを任侠の道へと歩ませた誰かだ。
それも束の間、歳経た双眸の焦点が現在へと戻ってくる。
「お前さんが知っておるかは分からんが、儂の息子は抗争でくたばった。じゃが、それはもう終わった話なんじゃ。そもそもタマの取った取られたなんぞ、儂等の稼業からすりゃ切っても切れぬ腐れ縁よ。仇討ちもしかと果たしたからにゃあ、それで良しとせにゃなるまいて。だというのに、子分共はそこで止まらんかった」
寂しそうに、あるいは苦しそうに言い捨てて、残っていたお茶を一息に呷ると湯呑を畳に叩きつける。
「抗争はとうの昔に終わったというのに、取り憑かれたように人と武器を集めて続けておる。あれだけの金、人の道に外れた商いでもせにゃ到底手に入るまいて。要するに、人生をまっとうするために作ったはずの組と子分共は、人様の人生を食い潰す外道に堕ちたというわけじゃ。いや、それは止められなかった儂も同罪じゃな」
「外道か」
「そうともさ。悪党といえど人の子。決して踏み外しちゃならん道ってもんが、世の中にはある。そこから先に立ち入ったら、お天道様に顔向けできなくなる境界線というやつがな」
訥々と語るソウカクからは、出会った際に肌を痺れさせた強烈な覇気が、綺麗さっぱりと消え失せていた。
シキの目の前にいるのは、年相応に曲がった背中で愚痴を吐き出す、枯れ果てた敗残者以外の何者でもない。
「挙句の果てに、どこの馬の骨とも分からんイングレイヴ使いにへいこらしおって、借り物の力を笠に着て威張り散らしやがる。情けないったらないわい。たとえ租界中の誰もが平伏そうが、あんなもんは絶対に儂の仁義が認めん」
「それだ」
ようやく目的の単語に辿り着き、シキは反射的に口を挟んでしまった。
怪訝な顔をするソウカクに、勢い込んで尋ねる。
「爺さん、俺はそのイングレイヴ使いがどこから来たかを調べたいんだ。あんたの息子が死んだっていう抗争も、イングレイヴ使いを送り込んできている黒幕が糸を引いていたらしい。頼む、本当の仇を討つためにも手を貸してくれないか」
それこそが八徳會と黒幕とをつなぐ、非常にか細いたった一本の糸であった。
武器も資金も、楼都から租界へ水面下で横流しするルートは無数に確立されている。少なからず租界が楼都の後ろ暗い面を担っている以上、こうした仕組みは必要悪だからだ。
そのルートを使われてしまえば、いかにリュシーカが実力のある情報屋であろうと、たった一人で全てを詳らかにすることは不可能となる。
だが横流しの対象が人間であれば話は別だ。しかもイングレイヴ使いとなれば尚更。
どうやって隔絶の壁を通過させているかを含め、八徳會に送り込まれるまでの足取りを追うことができれば、差配した者の尻尾を掴めると踏んだのである。
そして調べるのであれば、派遣先である八徳會の内側から探るのが最も効率が良い。
そういう一応の筋は通った理屈で押し切られ、シキはここに送り込まれる羽目となっていた。
冷静になってみれば、諜報の心得のない素人をたった一人で潜入させるなど狂気もいいところなのだが、実はこれには裏がある。シキ本人には知らされていなかったが、リュシーカが八徳會の本拠地を一望できる場所で待機しているのだ。
もっとも目的はシキのサポートではなく、シキが発見されて騒ぎとなった際に警備の綻びを突き、リュシーカ自身が潜り込むため。身も蓋もない言い方をすれば囮である。
万が一、使えそうな情報を掴んでくればそれで良し。もし失敗しても、八徳會の連中を右往左往させてくれさえすれば本命のアシストになるという、二段構えの計画というわけだ。
それはともかく、シキの頼みを聞かされた途端、ソウカクから放たれる気配が鋭さを帯びた。初めて出会った時と同様、抜き身のナイフもかくやとばかりに、寄らば斬るといった雰囲気を放っている。
「シキさんや、その冗談、冗談じゃなかろうな?」
「少なくとも俺は、黒幕がいると聞かされてるぜ。楼都の事情にも通じている情報屋が、その前提で俺をここに送り込んだんだ。ある程度の信頼性はあると思ってくれていい」
あっけらかんと手札をさらけ出してみせるシキに、ソウカクは躊躇しなかった。
「いいじゃろう。儂の知る全てを教えてやる。とはいえ、ここ何年かはずっと引き籠っておったんで、役に立つかどうかは保証できんがな。とりあえず確実なのは、連中は十中八九クレイドルの人間ということじゃ。隠しておるつもりかもしれんが、言い回しに独特の癖がある。それから奴等の中に、少しばかり見覚えのある顔もおった。どいつも租界出身で能力に目覚めて粋がった挙句、クレイドルにしょっ引かれていった馬鹿共じゃったわい」
「やっぱそうか……薄々予想はしちゃいたが、これで確定したな」
楼都の守護者とも呼ばれる対イングレイヴ特殊部隊クレイドル。
実戦部隊の構成員が全員イングレイヴ使いであるかの組織でもなければ、定期的にイングレイヴ使いを派遣などできようはずもない。
消去法から予想されてはいたが、こうして証言が出てくると気が重くなる。
敵は楼都の誇る腕利きのイングレイヴ使い達だと、念を押されたようなものなのだから。
「そういえば、一番最近に派遣されてきたイングレイヴ使いが、離れの近くでこそこそと通信しておったことがあったな」
「もしかしてグエンとかいう眼鏡野郎じゃなかったか? 白スーツでオールバックの」
「おお、確かにそんな奴だったかもしれん。シキさん、どうして知っとるんじゃ?」
「あー、うん、ついさっき俺がぼこったばかりなんだわ、そいつ。本邸の方が騒がしいのも、多分それが原因だ」
包み隠さず正直に。どこか照れ臭そうにはにかみながらの返答が、あまりに意表を突いたものだったため、ソウカクは声に出すことなく瞠目する。
しかしすぐに気を取り直すと、愉快そうに喉を震わせた。
「くくく、儂の目も節穴になったものじゃのう。クレイドルのイングレイヴ使いを倒すほどの人間を前に、そうと気付かんとは。いやはや、お前さんは一体何者なんじゃ?」
「んー、実は俺にも分かんないんだよな、これが」
探るような視線に、シキがぽつりと呟いた答えは、どうにもはっきりしないものだった。
一方ソウカクは、滅多にない刺激を立て続けに受けて脳細胞が活性化したのか、連鎖的にとある事実を思い出していた。
「そうそう、先程の続きなのじゃが、奴が話していた内容が少しだけ聞こえたんじゃ。距離があったんで全部は無理じゃったが、確か“埒外”がどうのと言うておったな」
「埒外?」
埒外とは、限界範囲を超えた許されない事物への形容だ。
とはいえその単語だけでは、一体どういう埒外なのかまでは掴めぬため、ひとまず心の片隅へとどめ置くだけにする。
「色々と聞かせてもらって助かった。俺にはさっぱり分からない話もあったけど、それに関しては頭のいい奴に調べてもらうとするよ」
「おう、そうするとええ。こういうのは適材適所じゃからのう」
暗に頭脳労働には向かないと言われているのだが、その意味に気付いているのかいないのか、シキは迷わず首肯してのけた。
「よし、話も聞けたし、そろそろお暇させてもらうんで」
「待たんか」
聞くべき事は聞いたとばかりに、勢いよく立ち上がったシキが辞去しようとする。
その背にソウカクの声が投げかけられ、まだ何かあるのかと振り向いたところ、一冊の紙束が投げて寄越された。
際どいながらも落とさず受け止めたシキに、ソウカクは約束の土産だと告げる。
「儂は若い頃、旧世界の遺跡を探索して糊口をしのいでいた時期があってのう。その時に見つけた古文書の一冊なんじゃが、儂にはどうにも解読できんかった。クーロンがどうとか書いてあるようなんじゃが、それ以上はさっぱりでな。折角じゃし、シキさんにやるわい」
「……それは不用品を押し付けたって言うんじゃないのか?」
半眼で投げ渡された古文書を見やる
ソウカクは顎を撫でつつ、肯定も否定もせず、代わりに付け加えた。
「五年前にイングレイヴ使いが派遣されるようになってすぐ、目を離した隙にこの部屋に盗人が入りおった。その時に盗まれたのは旧世界の古文書が数冊。売れば多少の値は付くのかもしれんが、八徳會を敵に回す代価に足りるとはとても思えん。そして犯人はいまだに捕まっておらん。勘じゃが、この先も捕まることはあるまい。今くれてやったのは、盗まれた古文書と同じ遺跡から回収してきて、偶然にも難を逃れた一冊じゃ。調べてみれば、なんぞ繋がりが見つかるかもしれんぞ」
ソウカクの言わんとするところを悟り、シキは無造作に放り渡された紙束が重みを増したように錯覚した。表情を引き締めて軽く頭を下げる。
ゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐにソウカクを見つめ返した。
「ありがたくもらっておくよ。それにしても爺さん、それだけ元気があり余ってるんだったら、もう一回くらいあんたの仁義ってやつを通すために足掻くのも面白いんじゃないか?」
「!」
特大の爆弾を去り際に設置し、反応をうかがうことなくシキは離れを後にした。
そのため、黙って見送ったソウカクの胸中で、燻っていた熾火にかすかな炎が灯ったことを、この時のシキが知る由はなかった。




