東亜租界ラプソディ1
「やべっ、寝過ごし……た?」
涎を垂らしながら爆睡していたシキが、寝床代わりのソファからずり落ちて目覚めたのは、すでに太陽が中天に差し掛かろうという頃合いだった。
寝癖のついた頭で大欠伸をしつつ、隣に落ちている毛布を手持ち無沙汰に弄っているうちに、ようやく脳が正常に活動を始め、眠りに落ちる直前の状況を断片的ながら思い返す。
ソウカクから聞いた情報と古文書を持って帰還した後、一仕事終えた気の緩みとグエンとの戦闘による疲労が一挙に襲い掛かり、あっという間に夢の世界へと引きずり込まれてしまったのだ。
「ふあぁ、我ながらよく寝たもんだ。とりあえず腹ごしらえだな、こりゃ」
「あ、あの……」
生きていれば腹が減るのは自然の摂理。保存食の備蓄くらいはあるだろうと家探しを始めようとした時、今にも消え入りそうな小さな声がシキを呼び止めた。
その声の主は、だぼだぼ気味のパーカーを着込んだ幼い少女だった。一瞬、誰だか分からず警戒気味に目を細めてしまうが、すぐにツクモだと気付いて相好を崩す。着ている服が病院着から年相応の装いに変わっていたため、咄嗟に印象が繋がらなかったのだ。
シキは関与していないため、消去法でリュシーカに着せ替えられたのだと推測が立つ。
ちなみにシキの方は、グエンに燃やされた布の代わりとして長めの包帯を渡されており、右腕は大怪我でも負ったかのようにぐるぐる巻きとなっていた。
「シキお兄ちゃん、お、おはよう。ご飯なら、準備できる、よ」
「……そっか。じゃあ、頼むわ」
たどたどしい口調のツクモに何を感じ取ったのか、ワンテンポ遅れるも穏やかに返答する。
見る人によってはわざとらしく映るのかもしれないが、それでもどうにかぎこちない笑顔で頷くと、ツクモは顔を輝かせ、ペタペタと足音を立てながらリビングから出ていった。
なお、準備といってレトルトを温め直すだけだったらしく、隣の部屋からチンッという電子音が聞こえてくる。
さほど待つことなく、大皿に盛りつけられた湯気を立てる朝食を抱えて、ツクモがシキの元へと戻ってきた。受け取ろうとして手を出したところで、先に一枚のメモを渡される。
「何だこれ?」
「リュシーカお姉ちゃんから、伝言、だって。起きたら渡して、欲しいって」
「そっかそっか。確かに受け取ったよ。ありがとうな」
ツクモの頭をひと撫でし、丁寧に礼を言ってメモと朝食を受け取る。
期待していたよりもずっと美味なお手軽A定食に舌鼓を打ちつつ、渡されたメモ用紙にざっと目を通してみれば、記されていた内容は概ね二点であった。
一つ、シキの持ち帰った情報をリュシーカのコネクションフル活用で精査するため、丸一日ほど留守にすること。
一つ、リュシーカが不在の間、ツクモの護衛を任せるということ。
「ほいほい、任されたっと。まあ、今日は休みってわけだな」
咥えたスプーンをひょこひょこと上下に揺らしながら、軽い口調で了承するシキ。とはいえ聞かせる相手のいない返事は、あっさりと虚空に溶けて霧散してしまう。
しかしそうなると、極めて重大な問題が一つ。
すなわち、どうやって丸一日もの間、留守番をしながら暇を潰していればよいかという、崇高にして深淵な命題だ。自慢ではないが、シキは自分自身が黙って時間が過ぎていくのに耐えられる性格だなどとは、小指の先ほども考えてはいなかった。
租界に来るまでの鋼殻キャリッジでは、案外喋りたがりだった運転手が事あるごとに話しかけてくれたので問題なかったのだが、どうやらシキにとってはそんじょそこらのイングレイヴ使いよりも、退屈の方がよほど手に余るらしい。
無駄な抵抗はさっさと諦めて白旗を上げたシキは、ツクモに助けを求めることにした。
「おーいツクモ。ちょっと良いか? リュシーカの奴、今日は帰って来ないらしいんだが――」
呼びかけながらキッチンを覗き込む。
しかし、そこに少女の姿は見当たらなかった。炊事場には水洗いされた食器が並べられ、水道からは水が勢いよく流れ出しているのだが、肝心のツクモだけがいなかったのである。
だが、そんな事はありうるのだろうか。構造上、キッチンからはリビングを経由しなければ他の部屋には移動できない。
そしてシキに朝食を渡した後、後片付けがあるからと言って、間違いなくツクモはキッチンへ入っていったはずなのだ。
「んー、便所に行ったのを俺が見落とした、とかか?」
推測を呟きながらもとりあえず水道を止めようと、テーブルを回り込んで炊事場に近付いていく。と、その歩みがぴたりと止まった。
その理由はこの上なく明快だった。リビング側からはテーブルの陰になって見えなかったのだが、キッチンの床にツクモが倒れ伏していたのである。
「お、おいっ、大丈夫か!?」
慌てて駆け寄り介抱する。
幸いなことに脈や呼吸に乱れはなく、出血の痕跡も周囲には見当たらない。ひとまず命の危険は無いように思われたが、素人であるシキが軽率に判断して、もしもの事態があっては取り返しがつかない。
それに何故ツクモが倒れたのか理由をはっきりさせねば、いつまた前兆無しにツクモが倒れたとしても不思議ではないのだ。
さすがのシキも、そんな危険性を許容することはできなかった。
まさかとは思うが、病気の類だろうか。
そういえば初めて遭った時、彼女が着ていたのは病院着、言い換えれば入院患者の正式装束だったではないか。ということは、ツクモには元々持病があり、小康状態だった症状が急に悪化したという可能性も十分に考えられる。
「くそっ、もう少しだけ頑張ってくれよ。すぐに医者へ連れて行ってやるからな」
弱々しく呼吸を繰り返すツクモを背負うと、シキは取る物もとりあえず、セーフハウスを飛び出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
小柄な体を揺さぶり続ける振動でツクモが目を覚ますと、視界に映る光景が次から次へと凄まじい速度で背後へと流れていくところだった。
「え……これ、は……?」
起き抜けということもあり、事態が飲み込めずに呆然となってしまうも、答えはすぐ近くにあった。
「良かった! 気が付いたか!」
聞き慣れた、しかし明白な安堵の色が滲んだ声。同時に全身をシェイクしていた上下動がぴたりと止んだおかげで、ツクモは自分がシキの背中にいるのだと遅ればせながら理解する。
シキが血相変えて走っていたため、背負われていたツクモにも少なからず振動が伝わっていたというわけであった。
「走って、いたの?」
「お前が急に倒れたから、大急ぎで医者の所に向かう途中だったんだよ。大丈夫か? 痛いところとか、苦しいとかはないか?」
次々と重ねるように問われ、ようやく気を失った理由に意識が向く。
確か、食器を洗い終わったと思った瞬間に、神経という神経に釘を打たれたかのような激痛が走ったのだ。文字通り全身を貫いた衝撃により、悲鳴や苦悶の叫びすら上げることかなわず、その場に倒れ込んでしまった。
最後の光景はゆっくりと近付いて来る床で、次に目を覚ましたらシキの背中で揺られていたというわけである。
ちなみに元凶となった激痛は、まるで夢か幻だったのではと疑ってしまうほど完全に消え去っており、痺れや倦怠感といった後遺症の類も残っていない。
普通ならば現実に起きた体験だったのか頬をつねりたくなるところだが、全身をぐちゃぐちゃに潰されたかのようなあの感覚だけは、絶対に気のせいなどではなかったと断言できる。
「なんとなく、だけど、思い出した。ごめんなさい、迷惑を、かけて……もう大丈夫、だから……」
「ばーか、遠慮なんてするんじゃねえよ」
余計な手間を掛けさせたと落ち込むツクモの謝罪を、シキはあっけらかんとした調子で一笑に付した。
てっきり怒られるものと思い込んでいたせいで、正反対の言葉に吃驚する少女の顔を眺めやり、少年はしてやったりとでも言いたそうに口の端を持ち上げる。次いでツクモの背負い位置を調整すると、今度は走るのではなくゆっくりと歩き出した。
「お前くらいの歳なら、保護者に迷惑をかけるのは義務みたいなもんだ。あんまりお行儀よくまとまってると、世の中を仰天させる大人になれないぜ」
「えーと……」
「ま、そいつは冗談だとしてもだ。少なくとも俺は、怪我だか病気だかで倒れた奴を責めるほど、鬼畜野郎になったつもりはないからな。というわけで、お前さんが何を言おうが、俺はお前を医者に診せる。こいつは絶対だ」
てくてくと歩を進めながら力強く言い切る。
もしもその姿を見た者がいれば、歳の離れた似ていない兄妹だと思ったことだろう。
ツクモはしばしの間、驚きで固まっていたが、やがて声に出すことなく小さく頷くと、大きくて温かい兄の背中へひしと抱き着いた。
そのまま、たった今芽生えた疑問をシキの耳元で囁く。
「あの、一つ聞いていい、ですか?」
「ん? いいぞ、俺が答えられる質問ならな」
「どうして、シキお兄ちゃんは、こんなにわたしに優しく、してくれるんですか?」
たどたどしくも真剣な口調で発せられた問いに、今度はシキが固まる番であった。
腕を組み、首をかしげ、目をぐるぐるさせる。うんうん唸ることしばし、己の内にあるはずの答えを必死に探していたシキは、突如として自らの両頬を大きな音と共に張ると、どこか晴れ晴れとした表情で言い切った。
「うん、全然理由が思い当たらねえわ。ただ、お前さんが記憶喪失だと知った時に、納得できるまでは付き合おうと決めたんだ。俺が、俺自身に納得できるまではな。今でもそのつもりだし、多分、これからもそうだと思う。んー、どう言ったらいいのかな、目が離せない感じなんだよなあ」
抽象的で感覚的に過ぎるシキの返答を、案の定ツクモは上手く咀嚼できなかったようで、疑問符を浮かべつつもどうにか理解しようと試みる。
果たして、集中し過ぎて背中から滑り落ちかけるまで考えた結果、ようやくツクモは一つの答えに辿り着いた。
「やっぱり、シキお兄ちゃんは、ろりこん、なの?」
「ちょい待て。というか、やっぱりってのはどういう意味だ」
相手がツクモでなければ、胸倉を掴んで激しく揺さぶっていたところである。
引き攣った笑みを浮かべて問い質すシキに対して、ツクモはちょこんと首をかしげてみせた。
「リュシーカお姉ちゃんから、聞いたの。小さい子ばかり見て、いつも近くにいようとする人を、ろりこんって呼ぶんだって」
間違っていない、が間違っている。
いつかリュシーカの奴をぎゃふんと言わせてやると、固く心に誓うシキであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「標的が見つかったって、本当なの?」
どこか幼い響きを残しつつも、獲物に襲い掛かる寸前の肉食獣を連想させる嗜虐心を内包した声。東亜租界に常駐しての不穏分子監視を任務とする、クレイドル所属の監視員B-32号は、上から下まで緊張しきった態度で肯定した。
「イエス、マム。特務隊員殿のご指示通り、直近で東亜租界を訪れた鋼殻キャリッジの乗員名簿と報告書を照会したところ、昨日到着した便が荒野で遭難者を回収しており、その遭難者がイングレイヴ使いでした。足取りを見失っておりましたが、本日1415に監視員A-11より発見の報告あり。同行者は一名、推定十歳未満の女児とのこと。なお、そちらは体調不良であるようです」
「ケイロン様の仰っていた“翻訳機”と本体を一時的に強制接続する作戦、狙い通りの効果だったみたいね。本命の方も無事に釣れたみたいだし、さっすがケイロン様!」
ぱちりと指を鳴らし、特務隊員と呼ばれた声が嬉しそうに弾む。
と、そこに新たな声が混ざり込んできた。
「この程度でいちいち称賛していたら、逆にケイロン様に失礼というものだよ、姉さん」
最初の声と混同してしまいそうなくらに酷似している。だが、言葉に込められた熱量が微妙に低い。冷めているというべきだろうか、厭世的な雰囲気を漂わせていた。
「あら、そうかしら。うん、そうかもしれないわね。じゃあ続きは、九十九号を確保してケイロン様に褒めてもらう時にしましょう」
「お、お待ちください。もしや、今から襲撃をかけるおつもりですか!?」
好戦的な気配を嗅ぎ取ったB-32号が、小さく悲鳴を上げる。
まだ顔を会わせてわずかだが、新たに派遣されてきた特務隊員二名の性格はすでに骨身に沁みていた。
ブレーキの壊れたダンプカーとでも表現するべきか、一度目標を見定めれば桁外れの推進力でぶつかっていく性格をしている。その結果、どれだけ周囲に被害を撒き散らそうとも、だ。
そして厄介なことに、標的が向かったのは租界で一、二を争う大規模病院だった。街の中心近くに位置しており、近隣の区画も含めれば人の出入りは極めて多い。
こんなところで戦闘を始めれば未曽有の大混乱となるであろうことは、B-32号には手に取るように想像がついた。
「せめて襲撃場所を考慮いただけないでしょうか。人口密集地で騒動を起こしては、租界の治安に不要な負荷を与える懸念が――」
「関係無いわ」
必死に訴えるB-32号の言葉は、しかしにべもなく一蹴された。すぐさま後を継ぎ、片割れが酷薄に言い添える。
「租界の治安なんてどうでもいいよ。僕達は任務を完遂して、ケイロン様に褒めてもらうんだ。邪魔する奴を排除する許可はもらっているしね。ただの監視員に過ぎないくせに僕達に意見するなんて、もしかしてお前も処理して欲しいのかい?」
「い、えっ、そのようなつもりは……」
「だったら黙って、僕等の後片付けをすればいいのさ」
暴君の決定が、鉄槌さながらに儚い抵抗を叩いて砕く。
制御不能な大嵐が、東亜租界に解き放たれた。




