風来坊と白皙の少女3
リュシーカの誘いを突っぱねてから三時間後、シキは東亜租界を彷徨っていた。
「やばい……本格的に迷った」
偶然か狙っていたのかは不明だが、リュシーカに連れ回されたのが曲がりくねった裏道ばかりだったせいで、現在地がまるで分からないことに気付いてしまったのが発端だった。
とりあえず真っ直ぐ行けば、迷路のような街並みであってもそのうち抜けられるだろうと、甘い見通しで歩き始めたのが運の尽き。結果として完全に方角を見失い、こうして絶賛迷子中というわけである。
そろそろ日も傾きかけ、どうしたものかと途方に暮れ始めた時だった。
ぽすっ、という軽い感触が背中から伝わってくる。
背後を覗き込んでみれば、子供が尻もちをついていた。どうやら前方不注意でシキにぶつかり、はずみで転んでしまったらしい。
羽織っているのは脱ぎ着のしやすい簡素な造りの衣服で、一般に病院着とも呼ばれる類のもの。本来は清潔さを保つために真っ白だったはずの布地は、転倒した際に付着した泥だけではなく、一目見ただけでは正体の判別できない様々な汚れによって、完全にその用を為さなくなっていた。
おまけに梳られていない前髪が顔を隠しているため、その表情を窺い知ることもできない。
「怪我してないか? ちゃんと前を見て歩かないと危ないだろ」
注意しながらシキが手を差し伸べる。
子供は怖々と腕を持ち上げかけたが、結局はシキの手を取ることなく引っ込めてしまう。
が、そうは問屋が卸さないのがシキであり、引っ込めるより早く小さな手を掴み取った。
驚いたように全身を緊張させ振り払おうとする子供だったが、シキは絶妙な力加減で抵抗をいなすと、相手の肩が抜けないように注意しつつ、軽々と引っ張り立ち上がらせてしまう。
「よいせっと」
「ひゃうっ!?」
頭が揺れた拍子に前髪が横に流れ、隠れていた顔が露わとなった。
大きな目を丸くして呆然としていたのは、まだ年端も行かない少女だった。舌っ足らずな声から推測するに、おそらく十歳にも達してはいまい。
頬や手足は血の気が通っていないのではと疑ってしまうほど白く、ともすれば透き通っているような錯覚にさえ陥る。加えて、引き起こす際に触れた手は、まるで変温動物かと思うほどひんやりと冷たかった。とはいえ寒くて震えるといった様子は見受けられないので、薄着で凍えているというわけではなく、純粋に体温が低い体質なのだろう。
その少女はといえば、己を観察するシキの視線に混乱し、あわあわと無秩序に両手を振ったり四方八方へ首を巡らせてみたりと、さながら挙動不審の見本市となっている。
ここまで一目瞭然な慌てぶりも、なかなかお目にかかれるものではない。
まあ、見知らぬ年上の人間といきなり衝突してしまったのだから、幼い子供がパニックになるのも無理からぬ話かもしれないが。
とはいえこのままでは話もできない。視線が泳ぎまくっている少女を宥めるため、シキは単純かつ効果的な対応を取ることにした。
「落ち着けって。別に取って食ったりしないからよ」
「あ……う、うん……」
烏の濡れ羽色という形容がしっくりくる髪の毛に、ぽんと無造作に手を置いたのだ。
触れられた瞬間は身を強張らせた少女だったが、それ以降はシキが微動だにしないため少しずつ警戒が解けたのか、おずおずと見上げてくる。
そこで初めて少女の瞳を覗き込み、わずかな違和感をおぼえたシキであったが、頭を振って気を取り直すと、聞き取りやすいようゆっくりとした発音で話しかけた。
「俺はシキ。お前さんの名前を教えてくれるか? 家はどこだ? 近くに親はいないのか?」
持ちうる限りの猫撫で声と愛想笑いを駆使し、コミュニケーションを試みる。
畳みかけるように質問を重ねてしまったのは減点だが、それ以外はどうにか及第点だったらしく、少女は黙ってシキの言葉に耳を傾けてくれた。
だが、十秒程度の沈黙を挟んで返ってきた答えは、シキの期待と予想の両方を裏切るものであった。
「ごめんなさい……わたし、名前とか……全部、分からなくて……」
「分からないって、そいつはつまり――」
記憶喪失というやつではなかろうか。
ただの迷子の範疇にとどまらない事情がありそうだと予想はしていたが、記憶喪失はさすがに色々な意味で想定外だった。とはいえ関わってしまった以上、せめて信頼できるところに預けるくらいはせねばなるまい。
可能ならば親元に帰してやるのが一番なのだろうが、そのためには少女の身元を速やかに特定する必要がある。
せめて手掛かりだけでも身に着けていないかと、目を皿のようにしてみれば、ふと病院着の袖口が目にとまった。手首の内側の部分に、名札らしき物が縫い付けられていたのである。
名前か住所が書いてあればと期待に胸を膨らませる。しかし、記されていたのは意味の分からぬ数字だけだった。
「なんだこりゃ、九十九……?」
「多分だけれど、ツクモと読むのじゃないかしら」
「へえー、そうなのか……って、リュシーカ!?」
感心からの驚愕。
何食わぬ顔で注釈を入れてきたのは、少し前にシキに護衛の依頼を持ち込み、取り付く島もなく断られた自称情報屋ではないか。
依頼を蹴られた意趣返しのつもりか、シキの狼狽する様をたっぷり堪能した後、リュシーカは腰をかがめて真っ白な少女と視線を合わせると、名札を指して柔らかい調子で尋ねる。
「これはあなたの名前?」
「……分からない……でも、わたしがいた部屋、同じ文字が書いてあった……思い、ます」
「敬語はいらないわ。そういう事ならあなたの名前と考えて間違いないでしょうね。とりあえずツクモちゃんと呼ばせてもらうから。私はリュシーカ、もしくはお姉ちゃんと呼んで頂戴。あ、あっちのはシキとでも呼んでおけばいいわよ」
「扱いに差があり過ぎないか。というか、実はずっと後をつけてただろ。手伝う気があるならとっとと出て来いよな」
我が物顔で仕切り始めたリュシーカに、あっさりと主導権を奪われたシキが苦言を呈する。ところがリュシーカは、悪びれるどころか全身全霊を傾けて力説した。
「こんな可愛い子とシキ君を同等に扱うだなんて、世界に対する叛逆に等しいわ。それに私の計画は、可愛らしさに目がくらんだシキ君がこの子をかどわかそうとする現場を押さえて、弱みを握って依頼を受けさせることだもの。最初から顔を出していたら意味がないじゃない」
「そのアイディアがさらっと出てくることも、これっぽっちも隠そうとしないことも、どっちもドン引きだなっ!」
ゲスのゲスによるゲスい発想。
正直、今この瞬間にきっぱり決別の道を選ぶべきなのではという誘惑に駆られるが、ツクモが記憶喪失であるという一点のためにそれは得策ではない。何故ならシキは東亜租界の情勢に疎く、おまけに人脈も皆無だからだ。右も左もわからぬ有り様でツクモを保護しても、貢献できる要素が何一つない。
一方で、本人の性格を脇に置くことがかなうならば、情報屋であるリュシーカはこれ以上ないほどに頼り甲斐があるといえるだろう。
しかし、リュシーカがその期待に応える未来は訪れなかった。
それより早く、事態が決定的に動いてしまったからである。
「ようやく見つけましたよ、九十九号!」
薄暮の向こう側から、まるで隠す気のない歓喜の声が届く。
声のした方へ目を向けてみれば、少し離れた十字路上に、五人ほどのいかにも無頼漢といった風体の連中と、彼等を従える楼都様式の格好に身を包んだ男性が立っていた。
租界ではまず見かけることのない、皺一つない白のスーツにオールバック。そして怜悧な印象を与える銀縁眼鏡。
落ち着いた物腰を想起させる風貌とは裏腹に、白スーツは全身で喜びの感情を表現し大仰に天を仰ぐ。
「ああっ、これで我が主に良い報告ができるというものです。捜索を始めた初日で発見してしまうとは、我ながら幸運の女神からの贔屓が恐ろしい!」
人目を気にすることなく、テンションを空回りさせる白スーツ。
正直、街中ですれ違った際にはこっそり距離を取りたくなる手合いであったが、残念なことに向こうの方がシキ達に用件があるらしく、芝居がかった調子で両手を広げたまま、一歩また一歩と近付いて来る。
粘ついた光を宿す眼鏡越しの双眸は、よく見てみればシキやリュシーカなど映してもおらず、ひたすらツクモだけに向けられていた。
そのツクモはというと、全身を小刻みに震わせ、唇も固く引き結ばれている。強い恐怖と緊張を抱いている際の生理的な反応だ。
更には一番近くにいたリュシーカの衣服の裾を、まるで縋りつくように握り締めているとなれば、シキがやるべきことは唯一つであった。
一直線に迫ってくる白スーツの進路上に、ゆらりと立ち塞がったのである。
「……何か御用でしょうか?」
「そいつはこっちが聞かせてもらいたいところだな。あんた、ツクモ――この子の保護者か?」
「ええ、そうですとも。我々はそちらの九十九号の保有者です。紛失したそれを回収に参上しました。あなた方が拾ってくださっていたのであれば、謝礼は後ほどさせて頂きますよ」
お定まりの文句を事務的に言い放ち、白スーツはシキの脇を通り過ぎんとする。だが眼前に突き出された布でぐるぐる巻きの腕が、傍若無人の歩みに待ったをかけた。
明確に示された拒絶の意志に、白スーツはうんざりとした表情を浮かべる。
「理由をお伺いしても?」
「保有だの紛失だの、子供を物みたいに扱う言い草が気に食わねえ。それにツクモの方も、あんたらと一緒に行くのはお断りだとさ」
「九十九号の意志など関係ありませんよ。いえ、そもそも道具に過ぎない九十九号に、意志の自由など――」
「あ、ああっ!? てめえ、どこかで見た顔だと思ったら、さっきの!」
饒舌に演説を始めた白スーツの出鼻を挫いたのは、取り巻きたる無頼漢達の一人であった。その頭頂部は光り輝かんばかりに剃り上げられている。いわゆるひとつのスキンヘッドだ。
「あん? 誰だ、あんた。どこかで会ったっけか?」
「しゃあしゃあとほざくんじゃねえ! ついさっきだろうが! 忘れたとは言わせねえぞ!」
「シキ君、シキ君。焼きそば屋台での騒ぎの時、膝蹴り一発で沈んじゃったがっかりさんよ」
「おお、言われてみりゃそんな奴もいたな。悪い悪い、あんまり弱っちかったもんで、印象薄くてすっかり忘れてたわ」
リュシーカの助け舟のおかげでようやく思い出したらしく、わざとらしくポンと手を打つ。
天然かそれを装った挑発かは判然としないが、絶妙に神経を逆撫でしてくるシキの言動に、自制心の低さにかけては実証済みであるスキンヘッドの顔が見る見るうちに茹で上がった。このまま暴発するかと思われた、その直前、
「旧交を温めるのは勝手ですが。ワタクシの言葉を遮るとは不遜極まりません。我が主からの命令遂行を邪魔するというならば、尚更に」
底冷えのする呟きが、破裂寸前であったスキンヘッドの怒りを一瞬で凍てつかせた。
膨れ上がって発散する単純な激昂とは似ても似つかぬ、圧縮してぐつぐつと煮詰められた粘度の高い怒気。それを滲ませるのは、表面上は静かな雰囲気を保ったままの白スーツだ。
なまじ外見から心中を見通せないため、かえって鬼気迫る気配を醸し出している。
「あなたは、こちらの少年と面識があるのですか?」
「は、はい、いえ……昼間にデイルの兄貴を馬鹿にしやがった小僧です。ガキですが滅法腕が立ちまして……」
「敗走したと。なるほど、事情は把握しました。ところで少年――確か、シキと呼ばれていましたか。九十九号をこちらに引き渡すつもりはありませんか? 我々の邪魔をしても、あなたに得るものなど皆無でしょうに」
提案の皮をかぶった最後通牒。一触即発の空気が辺りに満ちる。しかしてシキは、迷うことなく導火線に点火してのけた。検討する真似すらしてみせることなく、即座に中指を立てて返答としたのである。
「おととい来やがれ」
「度し難い、実に度し難い回答だ。数々の無礼な言動には然るべき報いが必要と判断します。このワタクシ、【鋭利なる焔刃】を操るグエンが、あなたに相応しい罰を進呈して差し上げましょう」
宣戦布告と同時、白スーツ――グエンの両手から溢れ出た鮮血が、一振りの鋼へと姿を変えた。




