風来坊と白皙の少女1
『皆様、お疲れさまでした。終点、東亜租界に到着致しました。お降りの際はお忘れ物をなさいませんようご注意ください。なお、次の出発予定は――』
「くあぁぁ、ようやく着いたかー」
降車を促す車内放送をBGMに、欠伸を噛み殺したシキが東亜租界の地を踏んだのは、ドルトン・ギャングを潰走させてから三日後の昼下がりのことだった。
距離的には二日もあれば到着したのだが、落石に潰されかけるはイングレイヴ使いに襲われるはとあっては、被害状況の確認や無線での通報といった事後作業が大量にあり、予定よりも一日ほど遅れてしまったのである。
むしろ、たった一日でそれらの面倒事を全て片付けてみせた運転手の手際こそ、もっとも称賛されるべきなのかもしれない。
ちなみに八面六臂の大活躍だった当の本人はといえば、荒野横断中の諸々に関する報告書作成や鋼殻キャリッジのメンテナンスで、またしても大わらわとなっている。それでも降車際に挨拶した際には、深々と頭を下げて心からの感謝の言葉を贈ってもらえたおかげで、シキとしてもすっきり心地よく別れることができた。
そんなこんなで後腐れのない体となったシキは、治安維持協力金なる名目の謝礼で暖かくなった懐と共に、鋼殻キャリッジの停車スペースをてくてく通過すると、視界の果てに威容を誇る巨大な壁まで一直線に租界を貫く、中央大通りへと足を踏み入れる。
その途端、蒸し焼き釜の蓋を開けた時のように、迸る熱気が勢いよく頬を撫でていった。
「…………!!」
雑多極まる人込み。
あちこちの露店や商店の前に人垣の濃淡を生み出している買い物客、肩や背に担いだ大荷物を揺らさぬよう独特の走り方で通行人の間をすり抜けていく人足達、目を輝かせて駆け出そうとする子供を、そのたびに繋いでいた手に力を込めて引き戻している親子連れ。
通りを行き交う人々の動きは不規則かつ無秩序と思いきや、よくよく観察してみれば雑然とした中にも大きな流れがあることが見て取れる。
途切れることのない人間の渦が、シキの周りを十重二十重と囲んでいた。
混沌とした喧噪。
客の気を引こうとする商人達の甲高い呼び声や、値切り交渉に熱が入り過ぎて胸倉掴んでの殴り合いにまで発展している怒声。楽しそうに玩具と戯れている赤ん坊の笑い声と、こぼれ落ちる寸前まで荷物を満載した大八車が、荒い舗装の上を駆けるガタガタという音。
数え切れないほど存在する声と音とが連なり合い、濁流と化してシキを翻弄する。
極彩色の芳香。
昼飯時からは少しばかり遅れているが、それでも食欲を刺激してやまない魅惑的な香りがそこかしこから漂ってくる。他にも、剥き出しの地面の匂い、新築物件の塗装が発する薬品臭、すれ違う人々から放たれる香油や整髪料の香りなど、およそ思いつく限りの匂いが渾然一体となって、我先にシキの鼻へと殺到してきた。
その中でもシキの胃袋をがっちりと掴んだのは、ソースと焼いた麺を絡めた見慣れない料理を売っている、大通りの端に陣取った小さな屋台であった。白地に黒の幟には、「元祖、焼きそば」の文字が力強く踊っている。
麺の食べ方といえば茹でるものとばかり信じていたシキにとっては、これだけでも十分にカルチャーショックなのだが、それに加えてジュウジュウと威勢のいい音をパートナーに鉄板の上を跳ね回るちぢれ麺と、そこに折り重なって染み込んでいく香ばしく焦げたソースの匂いが、いっそ暴力的なまでに少年の脳髄をかき乱し、気付かぬうちに屋台の前へと引き寄せていた。
澱みなく流れる鮮やかなヘラ捌きを披露する女店主の前には、数人の租界人が小さな列を成し、今や遅しと焼き上がりを待ち侘びている。現地住民が並ぶ味には外れが少ないという格言に従い、シキは迷うことなく列の最後尾へと加わった。
すると行列が一人分長くなったことに気付き、前に並んでいた人物が振り向いてくる。
「あら、見かけない顔ね」
初対面にも関わらず妙に親しげに声をかけてきたのは、活動的な装いをした少女であった。
薄手のアウターの下に淡い黄色で染められたシャツを着込み、細身のズボンが脚のラインを強調しているその格好は、丈の長い民族衣装的な服装が多い周囲の人々と比べると、造りも雰囲気も随分と異なっている。
すっきりと鼻梁の通った面立ちで、好奇心の色をまったく隠すつもりのない大きな瞳が、火傷しそうなほどの熱量を帯びて、上から下までシキの全身を舐め回していた。
身長は百五十センチにほんの少し届かずといったところ。シキよりやや年上のようだが、それでも二十歳には届いていまい。
「ああ、この街にはさっき着いたばかりなんだ。あんた、ここの常連だったりするのか? それならお勧めメニューとか教えてくれよ」
シキもシキとて、物怖じすることなく気軽に応じる。
少女は任せておけとばかりに力強く胸を叩いてみせるや、一片の曇りもない眼で言い放った。
「常連だなんて買いかぶり過ぎね。何を隠そう、私がこの店を訪れるのはまだ二度目よ!」
「ほとんど初心者だろ、そりゃ! さらっと事情通みたいな顔してんじゃねえ!」
自信満々な態度からのカミングアウトに、反射的に突っ込んでしまうシキ。しかし少女は気を悪くした素振りもなく、やれやれこれだから素人さんは道理が分かっていないわね、とでも言いたそうにゆっくりと首を振ってみせた。
「やれやれ、これだから素人さんは道理が分かっていないわね」
「うわ、本当に言いやがった」
「あなたは一見さん、私はリピーター。この二つの間には決して越えることのできない、深くて広い溝があるものなのよ。自覚なさい」
「いや、限りなく浅くて狭いと思うんだが、その溝は」
冷静極まりない反論。ところが少女のスルー技能は並ではなかった。一言一句余さずに右から左へ聞き流すと、拳を握って熱く語り始める。
「初心者が体験するなら、基本のプレーンが入り口には最適ね。女性なら美容のためにも野菜マシマシに挑戦したいところだけれど、あなたくらいの男の子ならお腹に溜まる方が嬉しいでしょうから、豚コマ倍プッシュが適切じゃないかしら。裏メニューの玉子カラメは上級者向けだから、素人さんは止めておくのが無難よ」
「待て待て。あんた、この店に来るのは二度目とか言ってなかったっけか。どうしてそんなに詳しいんだよ?」
「ふっ、愚問ね。一度しか来たことがないからといって、それが全メニュー制覇に乗り出さない理由にはならないのよ」
「そ、そう言われるとそんな気も……」
勝ち誇る少女。打ちひしがれるシキ。
このまま少女の中押し勝ちかと思われたその時、不躾な濁声が水を差した。
「おいおい、誰に断ってここで商売してやがるんだ。なあ、オイ!?」
屋台に並ぶ人々の先頭に強引に割って入り、無法者のお手本のような言いがかりをつけたのは、頭頂部まで剃り上げたスキンヘッドも眩しい、若い租界人の男であった。
威嚇する犬を連想させる剣幕で、女店主へガンを飛ばしている。
なお、犬といっても猟犬や闘犬ではなく躾のなっていない駄犬のそれであり、客観的に分類するならば純度百パーセントのチンピラという表現が最も似つかわしい。
案の定というべきか、女店主は煩わしさに顔をしかめこそしたものの、一秒たりとて調理の手を止めようとはしなかった。
それどころか鬱陶しそうに一瞥するや、耳鳴り必至の大声で叱りつける。
「やかましいっ!! あたしは忙しいんだ! ヤクザごっこなら余所でやんな!!」
爆弾のごとき一喝。
その迫力たるや、難癖をつけていたはずのスキンヘッドの方が、逆に圧倒されて仰け反ってしまったほどだ。
これが野生動物の世界ならば、互いに威嚇が済んだ段階でスキンヘッドが自ら敗北を認め、すごすごと立ち去っていたことだろう。
しかし残念ながら、三下を絵に描いたような彼には、そんな殊勝な真似など期待するだけ無駄というものであった。
むしろ気圧された事実に腹を立て、額に血管を浮き上がらせて肩をいからせる。
「このアマ、調子に乗りやがって……!!」
「まあ落ち着けや。お前はそうやってすぐカッカするから、かえって舐められるんだよ」
「あ、兄貴……すいやせん、手を煩わせちまって」
あっさりと怒り心頭に発したスキンヘッドの肩に手を置き、今にも殴りかかろうとする弟分を制止したのは、一目で作りものと分かる薄っぺらな笑みを貼り付けたパンチパーマの男であった。
スキンヘッドが因縁をつけ始めた時点では、少し離れた場所から様子を眺めていただけだったのだが、女店主の一喝で風向きが変わったことを敏感に察し、流れをひっくり返しに口を挟んできたのだ。
紙巻き煙草の紫煙をゆっくりと吐き出す仕種からは、弟分とは一線を画す余裕の気配が感じられる。スキンヘッドを一蹴してみせた女店主も、警戒したのか口をつぐんでしまった。
「なあ店主さんや。俺等だって別にあんたが憎いわけじゃねえ。むしろ逆だ。小さな屋台とはいえ繁盛店を女手一つで切り盛りするなんざ、尊敬に値すると心底思ってる。こいつは世辞なんかじゃない、本気の本音だぜ?」
柔らかい口振りで語りかけるもすぐに言葉を切り、吸殻をさりげなく足元へ落とすと同時、一転して親の仇もかくやといった荒々しい気配でシケモクを踏みにじる。一度下手に出ることで気の緩みを誘い、唐突に暴力の気配を浴びせることでかえって恐怖心を喚起させようという、ヤクザ式の交渉術である。
一瞬で緊張に染まった女店主の顔色から目論見が成功したことを見て取ると、小さな恐怖が大きく育つ時間を確保するため、パンチパーマはあえて緩慢な手付きで煙草を咥え直した。
すかさずスキンヘッドが差し出したライターで火を点け、肺腑の奥へとニコチン混じりの煙を存分に送り込む。
「だからこそ、俺達が守ってやろうってんじゃねえか。なんだかんだ言ってもこの租界って場所は、女子供が一人で生きていくにゃ物騒だからな。その点、俺達がいれば不埒な連中に手は出させないぜ。なあに、見返りはほんの少しで構わねえとも」
「何言ってるんだい……不埒者はあんた達の方じゃないか……!」
いけしゃあしゃあとみかじめ料を要求するパンチパーマに、女店主は怒りのあまり歯軋りを抑えられない。だが、先んじて恐怖を植え付けられたせいか、その語調からは先程までの勢いが失われていた。
己の優位を自覚したパンチパーマは、駄目押しすべく口を開き――
「いい加減にしろよ、お前等」
流れをぶった切る一言が、何の脈絡もなく投げ込まれた。
いよいよ決着といったところでの水入りに、邪魔されたパンチパーマは不愉快そうに、邪魔してもらった女店主は安堵を交えて、声の主を同時に振り返る。
両者の視線の交わった先では、行列の最後尾に並んでいた旅人らしき格好の少年が、つまらなそうに口を尖らせていた。
言うまでもなくシキである。
「こっちは空きっ腹を抱えて大人しく待ってるんだ。後から来たくせに順番無視したあげく、注文もせずに喧嘩を始めるってのはどういう了見だよ」
「なあ兄ちゃん。俺達は今、大事な商談の真っ最中なんだぜ。部外者がしゃしゃり出てくるのは感心しないな」
相手を少年とみて侮ったか、パンチパーマはつまらなそうにシキの文句を一笑に付す。邪険に扱われたシキはといえば、ゆるゆると首を振り、残念そうな口調で吐き捨てた。
「部外者はお前等の方だろ。この間のドルトン・ギャングとかいう連中といい、この辺りの悪党共はどうして自分勝手な奴が多いんだか」
「ドルトン・ギャング……?」
さっきまで掛け合い漫才を繰り広げていた少女が、率先して揉め事の渦中へと首を突っ込みに行った少年の独り言に耳をそばだてる。
一方、パンチパーマはまるで退く気のないシキに興味を持ったようで、歯を剥き出しにすると不器用に笑ってみせた。
「物怖じしない兄ちゃんだな。だが、俺達が八徳會の者だと知っても、まだそんな大口を叩けるかい? うちの用心棒はイングレイヴ使いなんだ。兄ちゃんなんか灰も残らないだろうよ」
「八徳會だって……!? 東亜租界でも残虐で有名なヤクザ者じゃないか」
「連中がイングレイヴ使いを雇っているという噂は、本当だったのか……!?」
パンチパーマがわざと聞こえるように漏らした八徳會なる名前に、固唾を飲んで成り行きを見守っていた一同がざわめく。
伝播していくひそひそ声のさざ波の中、ただ一人シキだけが困惑で眉をひそめていた。
「ハットクカイ? 聞いたことないな……ってか、名乗るなら自分の名前にしとけよ。それとも誰かにケツを持ってもらわないと、一人じゃ喧嘩もできないのか?」
「……っ、世間知らずが言ってくれるねえ」
「兄貴にふざけた口ききやがって! ぶっ殺してやる!!」
さすがにカチンと来たらしいパンチパーマだったが、少年と言い争っても一文の得にもならないと理解しているため、ぎりぎりで舌打ちにとどめる。一方、自分が罵られたわけでもないくせに真っ先に爆発したのは、弟分であるスキンヘッドの方だった。
激昂のまま、抜き放った短ドスを腰だめに構え、気勢を上げて突っ込んでくる。
鈍く輝く刃が出しゃばりな少年の体に突き立てられ、阿鼻叫喚の流血沙汰が繰り広げられる。
誰もが脳裏に思い浮かべたその光景は、しかし簡単に覆されることとなった。
シキの左手が翻ったかと思うと、真っ直ぐ突き出された刃の側面に無造作に添えられ、ほんのわずかに外へと押し出したのだ。
それだけで短ドスの切っ先は空を切り、スキンヘッドは標的を見失ってたたらを踏む。間髪入れることなく、体勢の崩れた土手っ腹に最高の角度でカウンターの膝蹴りが突き刺されば、スキンヘッドは胃液を撒き散らして悶絶する羽目となった。
この時点で勝敗は誰の目にも明らかだったが、シキは容赦なく相手の襟首を掴み上げると、右手一本で引っこ抜くや振りかぶってぶん投げる。
人間を投擲するなど、力と技術が高度な水準で両立していなければ、絶対に不可能な芸当である。その合わせ技を体感する栄誉を得たスキンヘッドは、錐揉み状に水平飛行すると、狙い過たずパンチパーマの足元に落下し、地面への熱烈な接吻と共に失神した。
演武ですらここまで鮮やかにはいくまいという技の冴えに、誰もが呼吸を忘れて見入ってしまう。
その中でいち早く我に返ったパンチパーマが、殺気を帯びた眼をシキへと向けた。
「……兄ちゃん、こんな真似して八徳會が黙っていると思うなよ」
「ハットクカイとか言われても何の事だかさっぱりだっての。それよか、あんたはどうするんだ? 黙ってケツまくるなら、今回は追わないでやるけど」
「……ちっ、憶えてやがれ」
恫喝は通用せず、喧嘩に持ち込んでも勝ち目が見えない。無策で突っかかっていくほど馬鹿ではなく、口八丁で手玉に取れるほど賢くもない彼に残されていたのは、気絶した弟分を肩に担ぎ、捨て台詞を残して逃げることだけだった。
「そう言われてもなあ。名前も知らない奴なんか、いちいち憶えていられるわけないし」
遠ざかっていく二人組の背中を見送りながら、ぽりぽりと頬を掻くシキ。と、その手が柔らかな感触に包まれる。
「ん?」
「君、ちょっと一緒に来て頂戴」
何事かと思えば、焼きそばのトッピングについて力説していた少女が、シキの腕を抱き抱えるようにして捕縛しているではないか。理由を尋ねる暇もなく、華奢な見た目からは想像できないほど強引に引きずられる。
「あ、おい。ちょっと待てよ、俺はまだ、焼きそばって奴を、食ってないんだああぁぁ……」
あっという間にフェードアウトしていく少年の残響。残された人々にできたのは、彼等が嵐のように消えていった方角を、ぽかんと眺めることだけだった。




