序.療術士の息子
記憶は全て残っていた。
リミッターのこと。殺戮のこと。
――そして、イヴのこと。
いま、クラウディオは二歳で、うまく力が入らない手で木のさじをつかんで、すりおろしたリンゴを食べようとするのだが、どうもうまくいかず、よだれかけが汚れる。
両親はそれがとても好ましいことのように喜んだ。
父親の名前はフロレント。母親の名前はユーア。
そして、この世界でのクラウディオの名前はクルト・ヨゼフルト・ウィルセバ。
「食べた、食べた。えらいねえ、クルト」
二年のあいだに言葉はだいたい分かった。意識は十七歳のものなのだ。
「あ、ぷ」
――そして、声帯は二歳児のものだ。
両親が精いっぱいの愛情を注いでくれる。
クラウディオのころ、住んでいた村が襲撃されて、家族は皆殺しにされ、兵器として育てられた。
同じことが起こらないでくれ。
クラウディオあらためクルトは切なく願った。
父親は療術士だった。
様々な薬を薬草やキノコからつくることもあれば、羊や牛の病気も見る。
しかし、特に目立つのは魔法だった。
一度、屋根から落ちて大けがを負った老人が担ぎ込まれたことがあった。
その複雑骨折に父親が手をかざし、その手から淡い光があらわれて、傷を包み、光がひいたころには折れて飛び出した骨も裂けた肉もきれいに拭ったように消えていた。
「リッカさんも駄目ですよ。もう若くないんだから」
「すまなかったよ、若先生」
その後、一日、父親は消耗したらしく、まだ明るいうちに就寝した。
クルトは日課として、家の裏手の菜園を走りまわって体の勘を取り戻そうとしていたら、転んで、膝から血が出た。
家に戻り、母親に手当してもらうかと思ったが、ちょっと試してみようと思った。
クルトは目をつむって、自分のなかに入り、リミッターを探ってみた。
それはクラウディオのころのものよりもずっと小さく、何よりも安全だった。ちょっと触れてみると、皮膚がぞわっとしたが、拒む要素はない。
クルトは軽くリミッターを外してみた。
少し気が遠くなったが、まぶたを開けてみると、傷はきれいに消えていた。
ガタンと音がした。
振り向くと、もう寝ているはずの父親が窓から身を乗り出し、目を丸くして驚いていた。
治療魔法に目覚めたクルト、六歳の初夏の日だった。
クルトは八歳。学校ではなく、家での教育で、両親を文字や算術、簡単な地理や歴史を学ぶ。
この村には学校がないのだ。
農村の農民たちは初等教育を受けておらず、自分の名前を書くことができるものが少なかった。
そのため、父親は治療以外に農民たちの手紙の代筆や読み上げも行っていた。
基本的な教育は母親の担当で、療術士としての教育は父親からのものだった。
「さあ、行こう。クルト」
「いってらっしゃい」
父親はリミッターの外し方を教えるのではない。
「魔法は教えられない。父さんだって、たまたま使えただけなんだ」
「生まれつきってこと?」
そうだね。
父親と行くのはトンネルのようになった森や薬草の花が咲く川沿いの道。それに患者の家だった。
どんな薬草にどんな効果があるか。毒のあるキノコはどれか。その毒を治療に使うコツは何か。
父親は処方箋が書けなかった。患者が来れば、その場で自分で調合するので必要がなかったのだ。
ある日、粉ひき所で働くカークという若者が突然、腹を押さえて痛がり倒れたと言われ、ふたりは粉ひき所に急いだ。内臓の疾患らしく、腹が紫にほのかに光り、血管がそのなかに黒い影となって浮かび上がっている。
「クルト、手伝ってくれ」
父が腹部に手をかざす。
クルトも父の大きさの半分もない手をかざした。
患者は助かったが、父親とクルトはすっかり消耗して倒れてしまい、干し草などを運ぶ馬車で家に送られた。
「クルト」
ふたり並んでベッドに横になりながら、父親が言った。
「お前の魔法はわたしのものよりもずっと優れている。お前はもっともっとたくさんの人を救える。そのことを覚えておいてくれ」
なぜ、こんなことを言われたのだろう? クルトは小首を傾げた。まるで、クラウディオだったときの殺戮の苦悩を見透かされたようで――。
「うん」
クルトはそうこたえ、ふとんをかぶった。
――あれだけ殺して、破壊した、おれが人を助けられる?
そう心のなかでつぶやくだけで、唇が熱を持つ。
イヴを思い出す。
――逃げて、クラウディオ……その子が言っていた。……世界じゅうの大人が……ここに来る……〈門〉を求めて。わたしたち全員が死ぬのを、彼らは待っていた――。
――ダメだ。イヴ。きみを置いていったりしない。大丈夫だよ。ふたりとも助かる。
――わたし、もう……死んじゃう……あんなに殺したんだから……当然よね?
――そんなわけない! そんなッ!
――学校、完成させたかったね。クラウディオ……
傷を負って倒れたイヴを救うことができたかもしれない。
もしかしたら――イヴもこの世界にいるのかもしれない。そして、もし、彼女が怪我をしていれば、自分が助けられるのかもしれない。




