9話 それを、私は愛と呼ぶ
秋の午後。
川辺に面した小さなカフェは、貴族街らしい落ち着いた雰囲気の店だった。
大きな窓から秋の光が差し込み、磨かれた木のテーブルや真鍮のランプを柔らかく照らしている。
店内には低い話し声と、時折カップの触れ合う小さな音が響いていた。
テラス席では、セリアが両手でカップを包みながら、向かいのアルヴィンを見つめていた。
今日、彼から話があると言われたときから、胸の奥には小さな予感があった。
できれば、外れていてほしかった。
けれど――。
「セリア」
「はい」
「今日は、話しておきたいことがある」
「……ええ」
セリアは微笑んだ。
「分かっているわ」
アルヴィンは、しばらく言葉を探していた。神妙な顔つきのまま、静かに口を開く。
「俺はこれまで、君を守らなければいけないと思っていた」
「……ええ」
「公爵家との身分の違いから君を守り、傷つかないように、俺を必要としている限りそばにいること」
セリアは黙って聞いていた。
「でも、それは本当に君のためだったのか……最近、ずっと考えていた」
アルヴィンはカップに視線を落とした。
「俺たちは、お互いにその関係に縋っていたんだろう」
「……」
「君は俺が離れないことに安心して、俺は君に必要とされることで、自分の居場所を確かめていた」
セリアの指が、カップの縁でわずかに止まる。
「このままでは、君を支えることも、俺がそばにいることも、互いを縛る理由になってしまう」
アルヴィンは、ゆっくりと息を吐いた。
「もうこれ以上、話し合ってもお互いの傷を深めるだけだと思う」
「……そう」
「だから、ここで終わりにしよう」
静かな言葉だった。
けれど、セリアには十分すぎるほど伝わった。
「……いつか、こうなると思っていたの」
「セリア……」
「本当に、ずっとそうだったわけではないわ」
セリアは少しだけ笑った。
「でも、あなたが私を守ることに疲れてしまう日が来るんじゃないかって。心のどこかで、ずっと思っていた」
アルヴィンは何も言えなかった。
「それでも私は、あなたが『守る』と言ってくれるたびに安心した」
セリアは視線を落とす。
「だから、私もあなたに甘えていたのね」
「……すまない」
「謝らないで」
セリアは首を横に振った。
「あなた一人が悪かったわけじゃないもの」
アルヴィンは、しばらく黙っていた。自分はセリアを傷つけた。そして、彼女との関係を終わらせることからも逃げていたのだ。彼女が自分を必要としてくれることに、どこかで満足していた。
それを愛だと思っていた。
「……俺も、少し思い違いをしていたのかもしれないな」
アルヴィンは静かに言った。
セリアは、その言葉を聞いて目を伏せた。彼女にとっては、本当にそうだったのだろう。 そして、自分もまた、そう思っていた。
幼い頃から過ごした時間も、彼女を大切に思った気持ちも、あの関係を愛だと信じていたことも。
否定する必要はない。ただ、これからは同じままではいられない。守ることと、そばにいること、それだけが愛の形ではなかったのだろう。
もう、曖昧なまま誰かを待たせることはしない。自分で決めたことには、自分で責任を持つ。それだけは、もう迷わない。
しばらくして、セリアが顔を上げた。アルヴィンを見つめる緑の瞳には、寂しさが滲んでいた。 それでも、その表情には最後まで品があった。
「アルヴィン」
「……何だ?」
セリアは、悲しげで、それでもどこか穏やかな笑みをほんの少しだけ浮かべた。
「あなたがそれを何て呼ぶのかは知らないわ」
アルヴィンは黙って彼女を見つめた。
「でも私は……それを愛と呼ぶの」
静かな声だった。
そこに責める響きはなかった。
セリアはしばらくアルヴィンを見つめていた。
まるで、これまで過ごした時間を最後に確かめるように。
やがて、ほんの少しだけ目を細める。
「……さようなら、アルヴィン」
その声は穏やかだった。 けれど、最後の一言だけは、わずかに震えていた。セリアは踵を返し、歩き出した。
アルヴィンは、呼び止めなかった。
その背中が店内へ消えていくまで、ただ静かに見送った。
* * *
店を出ると、秋の空が高く澄み渡っていた。
雲ひとつない青空の下、乾いた風が頬を撫でていく。
街路樹から離れた枯れ葉が一枚、二枚と風に舞い、石畳の上を静かに転がっていった。
アルヴィンは足を止め、しばらくその光景を眺めた。
冷たい風がもう一度吹く中、アルヴィンは前を向いた。今度はアニエスの人生を縛るためではなく、彼女自身の答えを聞くために。
そう決意した彼は、高く澄んだ秋空の下を歩き始めた。




