10話 逃げなくてもいい場所があるかもしれない
王都を出て二日。
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わってきた。
王都周辺の整えられた街道を離れると、なだらかな丘陵や広い畑が増えていく。秋の陽射しを受けた草原は黄金色に染まり、遠くには低い山々が連なっていた。
「綺麗ですわね」
窓の外を眺めながら、アニエスが呟いた。
「そうだな。領都に近づくほど、もっと景色が変わる」
向かいに座るアルヴィンが答える。
今回、彼から声がかかったのには理由がある。
レイナード公爵領で進めている薬草栽培と医薬品研究の事業を、アルヴィンが視察・打ち合わせするための領都行きだった
そして出発前、彼からアニエスに声がかかったのだ。
『もしよければ、一緒に来ないか?』
『私も、ですか?』
『ああ。前に君が薬草事業に興味を持っていただろう。実際の現場を見たほうが、分かることも多いと思う』
そう言われて、アニエスは少し考えた。
以前、図書室で資料を読んでいたときも、薬草の流通や保存について気になったことがいくつかあった。実際の栽培地や研究施設が見られるならビジネスチャンスだ。
「では、お邪魔でなければ」と同行を決めた。
婚約者としての親睦旅行ではなく、これはあくまで現場への出張。そう割り切っていた。
――仕事の視察に同行させてもらうだけ。
そう思っていたのだが。
「ところで、薬草の加工は収穫してからどのくらいの時間で行うんですの?」
馬車に乗ってしばらくすると、さっそく質問を始めていた。
「種類によるな。乾燥させるものなら、できるだけ早いほうがいい。生薬として使うものは、さらに扱いが難しい」
「なるほど……」
アニエスは頷きながら、持ってきた資料を開いた。
「それなら、収穫地の近くに一次加工の拠点を置くという方法もありそうですわね」
アルヴィンが少し目を細める。
「もうそこまで考えているのか?」
「まだ思いついた段階ですわ。実際に現場を見ないと、何とも言えませんもの」
アニエスは照れたように笑った。
「だから、今回の視察を楽しみにしていましたの」
アルヴィンはそんな彼女を見て、ふっと笑う。
「そうか。それなら、来てもらった甲斐があったな」
「はい」
アニエスは嬉しそうに頷いた。
薬草事業にはもともと興味があった。薬は貴族だけのものではない。けれど、良質な薬ほど高価で、地方の診療所では十分な量を確保できないこともあるという。
作るだけではなく、必要な人に届く仕組みまで考える。それなら、私にも少しは役に立てることがあるかもしれない。
そんなことを考えていると、向かいに座るアルヴィン様が口を開いた。
「アニエス」
「はい?」
「少し、話しておきたいことがある」
「何でしょう?」
「セリアのことだ」
私は静かに息を吐いた。
「しばらく前、彼女と話をした」
アルヴィン様は窓の外へ視線を向けた。
「俺たちは別れた」
「……そうですか」
驚きはしなかった。
最近のアルヴィン様は、以前とは少し違って何かを振り切り、屈託がなくなったというか……心境の変化があったのだろうと思わせる雰囲気があったのだ。
ただ、本人の口から聞くと、やはり現実味がある。
「これまで俺は、彼女を守ることが自分の役目だと思っていたんだ。セリアは俺が子供の頃から大切にしていた女性だったから」
「……」
「公爵家や社交界での彼女への風当たりは強かったから、なおさらだ」アルヴィン様は少し言葉を探すように黙った。
「でも、それだけではなかったんだと思う」
「はい」
「必要とされることに、俺自身もいつしか依存していたんだろう」
私は黙って聞いた。
「セリアを責めるつもりはない。俺も、その関係に甘えていたんだ」
「……そうでしたのね」
「ああ」
アルヴィン様が私を見る。
「だから、君には謝らなければならない」
「私に?」
「婚約が決まったとき、俺は君の気持ちをほとんど考えていなかった」
その言葉に、私は少し目を伏せた。
「君との結婚は家のために必要なものだと思っていた。だから、君もそれを受け入れるものだと勝手に考えていた」
「……この国の貴族男性なら、そう考える方も多いのでしょうね」
私は少し苦笑した。
「愛人を持たずに結婚生活を送る方も大半ですけれど……私は、たまたま運が悪かったのだと思ったのです」
「……運が悪かった?」
「ええ。結婚する相手に、すでに大切な女性がいらっしゃったのですもの」
「……そうだったのか」
「ですから、私も自分の人生を別に用意していたのです」
「それは……知っている」
以前、彼に見つかった地図のことを思い出す。
アルヴィン様は少しだけ視線を落とした。
「君には、君の人生がある」
「……」
「だから、俺が君の人生を勝手に決めることはできない」
私は黙って彼を見る。
「俺が『君を選んだ』と言えば、まるで君の人生まで俺が決めることになる」
「……そうですわね」
「だから、そんな言い方はしたくない」
アルヴィン様は、静かに息を吐いた。
「俺が選びたいのは――君と向き合うことだ」
静かな声だった。
「君がこれからどうしたいのか、ちゃんと聞きたい」
「……」
「このままここで暮らすのか。それとも、別の人生を選ぶのか。どちらを選ぶにしても、君自身に決めてほしい」
私はすぐには答えられなかった。
これまで必死に国外逃亡の準備をして、資金も、行き先での暮らし方もリサーチしてきた。
それを簡単に捨てるつもりはない。
けれど、この人は私の答えを急かそうとはしていない。それが、少し意外だった。
「……少し、考えさせてくださいませ」
「ああ」
「すぐに答えは出せませんわ」
「分かっている」
アルヴィン様は、それ以上何も言わなかった。
馬車が大きく揺れる。
私は窓の外へ視線を向けた。
まだここに残ると決めたわけではない。
それでも、以前の完璧な国外逃亡ロードマップに、ほんの少しのブレが生じていることだけは確かだった。




