8話 答えはもうそこにある
夜も更けた頃。
王都の一角にある、貴族向けの会員制サロン。
外から見れば控えめな店構えだが、一歩中へ入れば、磨き上げられた木の床と柔らかな照明が落ち着いた空間を作っている。
大声で騒ぐ客はいない。酒も料理も上質だが、何よりここでは「余計なことを詮索しない」ことが暗黙の礼儀だった。
その奥の席で、アルヴィンはグラスを傾けていた。
目の前にはフェリクスがいる。
「……珍しいな」
フェリクスがグラスを眺めながら言った。
「何がだ?」
「お前が酒を飲みながら、三十分も同じところを見つめていることだ」
「……」
アルヴィンは無言でグラスを置いた。
「そんなに分かりやすいか?」
「かなりね」
フェリクスは淡々と答えた。
からかう様子はない。長年の友人だからこそ、余計な言葉を挟まないようにしているようだった。
「アニエス嬢のことだろう?」
「……なぜ分かる」
「最近のお前を見ていればね」
フェリクスはグラスを軽く回した。
「以前のお前なら、領地の数字を一つ間違えただけでも、半日くらい眉間に皺を寄せていた」
「大袈裟だ」
「そうでもない」
フェリクスは淡々と続ける。
「最近のお前は、部下の意見を途中で遮らなくなった。以前なら自分で決めていたようなことまで、一度人の話を聞くようになったよ」
「……」
「それに、よく笑う」
「俺が?」
「自覚がないのか」
アルヴィンは少し考えた。
確かに以前より、人と話すことが苦ではなくなった気がする。
仕事の合間にくだらない話をすることも増えた。以前なら必要なことだけ伝えて終わらせていた相手にも、もう一歩踏み込んで話を聞くようになった。
その変化を自分では意識していなかったのだ。
「それが、アニエス嬢の影響だ」
「……そうなのか?」
「本人だけが気づいていないようだな」
フェリクスは小さく笑った。その笑みには、呆れが混じっている。
「彼女は、お前に何かを押しつけているわけじゃない」
「そうだな」
「だから余計に分かりやすい」
アルヴィンは黙った。アニエスの顔が浮かぶ。マロンブラウンの髪。陽の光を受けると柔らかく見える色。そして、こちらをまっすぐ見つめる紫の瞳。
可憐な容姿をしているのに、話していると妙に調子を狂わされる。
年下の令嬢とは思えないほど、時々こちらが叱られているような気分になる。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「……変な女なんだ」
「褒めているのか?」
「たぶん」
「なら、もう少し言葉を選べよ」
フェリクスはグラスを置いた。
「アニエス嬢が得難い女性だということくらい、お前にも分かっているだろう?」
アルヴィンは答えなかった。
「仕事ができる。頭も回る。人の立場も考えられる。それでいて、必要以上に相手に合わせない。お前が何かを決めるときも、ただ従うのではなく、自分の考えを返してくる」
「そうだな」
「それが心地いいんだろう?」
アルヴィンの指が止まった。
フェリクスはグラスを弄びながら、淡々と続けた。
「お前の中で答えは出ているはずだ。アニエス嬢にそれほど惹かれる理由は、彼女の『対等な強さ』が今のお前にとって何より心地いいものだからだろう」
「……惹かれている?」
「そこからか」
フェリクスが呆れたように息を吐いた。
「では、聞き方を変えよう。アニエス嬢が別の男と結婚して、遠くへ行ったとしても、お前は今と同じ顔でいられるか?」
「……」
答えられなかった。
その沈黙だけで、フェリクスには十分だったらしい。
「そういうことだ」
「だが、セリアは……」
アルヴィンがようやく口にした名前に、フェリクスは静かに視線を向けた。
「セリア嬢のことを大切に思っている。それも事実だろう」
「ああ」
「だからこそ、曖昧なままでは駄目だ」
声は穏やかだった。責める調子ではない。だからこそ、アルヴィンにはその言葉が重かった。
「アニエス嬢は、自分の人生を決めようとしている。お前が迷っている間にも、彼女は自分で先へ進める」
「……分かっている」
「そして、セリア嬢もだ」
フェリクスは少しだけ間を置いた。
「お前がいつまでも答えを出さなければ、あの幼馴染にも期待を持たせ続けることになる」
アルヴィンは目を伏せた。
「それは、優しさじゃない」
静かな声だった。
「二人とも傷つけたくないという気持ちは分かる。だが、公爵家の嫡男として、いつまでも自分の決断を先送りするわけにはいかないだろう」
「……」
「誰を選ぶかを俺が決めるつもりはない」
フェリクスはグラスを置いた。
「ただ、自分で選べ。そして、その選択に責任を持て」
アルヴィンは長い沈黙のあと、低く答えた。
「……厳しいな」
「友人だからな」
フェリクスはそれだけ言って、残った酒を飲み干した。
「今日はここまでにしよう」
席を立つ。
けれど、扉へ向かう前に一度だけ振り返った。
「アルヴィン」
「何だ?」
「お前が今まで守ろうとしてきたものと、本当に欲しいものが同じとは限らない」
それだけ言うと、フェリクスは店を出ていった。
* * *
残されたアルヴィンは、一人になった席でグラスを見つめた。琥珀色の液体が、照明を受けて静かに揺れている。
セリアとの思い出が浮かぶ。幼い頃から知っている笑顔。淡い金の髪。明るい緑の瞳。
守りたいと思った。
失いたくないと思った。
それは今も変わらない。
けれど――。
アニエスの紫の瞳が、脳裏に浮かんだ。 自分の言葉をまっすぐ受け止める。 間違っていれば、遠慮なく指摘する。それなのに、こちらが疲れていれば何も聞かずにそっとしておいてくれる。
笑うと、周囲まで明るくなるような女性だった。
彼女が自分の隣にいると、不思議と肩の力が抜ける。自分が公爵家の嫡男であることも忘れそうになる。
ただ一人の男として、話をしていられるのだ。
「……対等な強さ、か」
フェリクスの言葉を呟いてみる。胸の奥に、静かに落ちていく。
アニエスを失いたくない。
それだけなら、まだ『婚約者だから』という理由をつけられた。
けれど。
彼女と話したい。
彼女の笑顔を見たい。
彼女が自分の知らない場所へ行ってしまうことを、考えたくない。それはもう、義務や責任だけでは説明できない。
アルヴィンはゆっくりと目を閉じた。そして初めて、自分自身に問いかけた。
――俺は、本当は誰を見ている?
答えはまだ、言葉にならなかった。
けれど。
その問いから、もう逃げることもできなかった。




