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7話 あなたの人生まで、私が決めようと思いません



「……どうして、そんな顔をするんですか?」


 思わず聞いてしまった。


 アルヴィン様は少しだけ目を伏せた。


「分からない」


「何がですの?」


「……君がいなくなるのが、嫌なんだ」


 さっきと同じ言葉だった。


 けれど今度は、先ほどよりずっと小さな声だった。まるで自分自身に言い聞かせるように。


「それは……」


 私は少し思案してから、首を傾げた。


「婚約者がいなくなるのが嫌、ということではありませんの?」


「……それも、あると思う」


「では、それで十分ではありません?」


「……」


 アルヴィン様は答えなかった。どうやら、ご本人にもまだ整理がついていないらしい。


 私は困ってしまった。 正直に言えば、私だって答えを出せずにいる。


 最近の私は、アルヴィン様と過ごす時間を以前ほど嫌だと思わなくなっていた。仕事の話をすれば面白いし、本の話をすれば意外なところで話が合う。疲れていれば、黙ってお茶を淹れてくれる。それに、以前より少しだけ笑うようになった。そんな人を残して、自分だけ別の人生へ進むことに迷いが生まれてしまっていた。


 けれど――。


「アルヴィン様」


「……何だ?」


「私は、アルヴィン様のお気持ちを決めることはできませんわ」


 アルヴィン様が顔を上げた。


「セリア様を大切に思っていらっしゃることも、私は知っています」


 その名前を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。けれど、目を逸らすつもりはなかった。


「それを、私が勝手に否定するつもりはありません」


「……」


「ですが」


 私は静かに続けた。


「私の人生まで、それに合わせて決めるつもりもありませんわ」


 アルヴィン様は黙っている。責められていると思ったのかもしれない。


 けれど、私は責めたいわけではなかったのだ。


「セリア様を愛していらっしゃるなら、そのお気持ちはアルヴィン様ご自身のものですもの」


 私は小さく笑った。


「だったら、ちゃんとご自分で向き合ってくださいませ」


「……俺が?」


「ええ」


 即答すると、アルヴィン様が少し目を丸くした。


「私が勝手に『アルヴィン様はこちらを選ぶべきです』なんて決めるほうがおかしいでしょう?」


「……君は」


「はい?」


「どうして、そんなに平然としていられるんだ?」


 その問いに、私は少しだけ間を置いた。


 平然としているつもりはない。怖くないわけでもない。これまで暮らしてきた場所を離れることだって、簡単な決断ではない。


 ただ――。


「平然としているように見えます?」


「……見える」


「それなら、たぶん私が腹を括っているからですわ」


私は笑った。


「私、案外しぶといですのよ?」


 アルヴィン様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「……そうみたいだな」


「褒め言葉として受け取っておきますわ」


 その瞬間だけ、いつもの空気に戻った気がした。 けれど、アルヴィン様の表情にはまだ迷いが残っている。 当然だ。今日一日で答えが出るような話ではない。私だってそうだった。


「ですから、少し時間をかけてくださいませ」


「……分かった」


 今度の返事には、さっきよりも迷いが少なかった。そして私は、もう一度だけアルヴィン様を見る。


長い緑がかった黒髪と、冷静そうに見える灰緑色の瞳。いつもなら隙のない人なのに、今日はずいぶんと困った顔をしている。


 その顔を見ると、なぜか少しだけ放っておけなくなる。


 ――本当に、困った人だ。


 私は小さく息を吐いた。


「私も、もう少し向き合ってみますわ」


「……君も?」


「ええ」


 私は頷いた。


「すぐに出ていくと決めたわけではありませんもの」


 アルヴィン様がこちらを見る。


「ただし、残るとも決めていませんわよ?」


「……分かっている」


 今度は、ちゃんとそう答えた。

 以前のアルヴィン様なら、もっと何か言おうとしただろう。


『行かないでくれ』とか、『婚約者なのだから』とか。


 けれど今は、何も言わない。私の答えを待っている。そのことが、少し嬉しかった。


「では、今日はこのくらいにしましょう」


「ああ」


 私は踵を返した。


 数歩進んだところで、ふと振り返る。アルヴィン様はまだその場に立って、こちらを見つめていた。


「アルヴィン様」


「何だ?」


「……ちゃんと向き合ってくださいね」


 念を押すと、アルヴィン様は苦笑した。


「分かった」


 今度こそ、私はその場を離れた。



 * * *


 一人になった廊下で、アルヴィンは長く息を吐いた。


 自分でも、何をしているのか掴めなかった。

アニエスがいなくなる。その可能性を思うだけで、胸の奥がざわついた。


彼女が国外へ行き、自分の知らない場所で暮らし、もう気軽にあの会話ができなくなること。それを想像すると、ひどく嫌だった。けれど、それが何を意味するのかは見えない。


 セリアのことを忘れたわけではない。彼女への想いは、今もある。


 アルヴィンとセリアの家は、昔から付き合いのある家同士だった。だから二人は、幼い頃から互いの屋敷を行き来していたのだ。

ただし、それは決して両家が親密だったという意味ではない。


 公爵家と子爵家。身分には明確な差がある。

公爵家の人間にとって、セリアは昔から知っている親しい家の令嬢ではあっても、将来の公爵夫人として考えられていたわけではなかった。


 むしろ、アルヴィンが成長するにつれて、その距離は少しずつ意識されるようになった。


『セリアとは仲良くしていてもいい。だが、それと結婚は別の話だ』


 幼い頃から親しんできた相手だからこそ、アルヴィンにはその言葉が冷たく感じられた。


 セリア自身も、そうした空気を知らないわけではなかった。それでも二人は、庭で遊び、本を読み、時にはくだらないことで喧嘩をした。

そうやって過ごすうちに、いつしか幼い頃の親しさは恋へと変わっていった。


 アルヴィンにとってセリアは、ただの幼馴染ではない。自分の少年時代を知る、特別な存在だった。だからこそ、彼女を公爵家の都合だけで遠ざけることが、どうしても受け入れられなかったのだ。


 初めて心を奪われた女性だった。


淡い金色の髪や、儚げでどこか女性らしい華やかさを持つ彼女の姿。


 初めて彼女を異性として意識したときから、アルヴィンの心は静かに揺れ、守らなければと思った。


 彼女の寂しそうな顔を見るたびに、そばにいてやらなければと思った。それは嘘ではない。今だって、セリアを大切に思っている。


 なのに――。


 アニエスの顔が浮かんだ。


マロンブラウンの髪と、意思の強い紫色の瞳が脳裏をよぎる。


 セリアとはまるで違う。


 アニエスを見ていると、なぜか自分まで笑いたくなる。明るくて、さっぱりしていて、思ったことを遠慮なく言う。それなのに、人の気持ちを雑に扱うわけではない。


 そして、自分よりずっと年下のはずなのに、ときどき妙に頼もしい。


『アルヴィン様、そんな顔をしていても何も解決しませんわよ』


 以前、そう言って笑われたことを思い出す。


 叱られているはずなのに、不思議と嫌ではなかった。むしろ――少しだけ、気が楽になったのだ。


 自分がずっと背負ってきたものを、彼女は時々、あっさりと横から見ている。


 その距離感が心地よかった。


「……何なんだ」


 誰に聞くでもなく呟く。答えは返ってこない。ただ一つだけ、確かな感覚があった。


 アニエスを失いたくない。


 けれど――。


 その理由を、自分勝手に決めてはいけない。


 彼女は自分の人生を、自分で選ぼうとしている。ならば、自分も自分の気持ちと向き合わなければならない。


「……俺も、考えるしかないか」


 そう呟いて、アルヴィンは一人で歩き出した。



 * * *



 その頃。


 セリアは自室の鏡の前に座っていた。


 淡く美しい金色の髪を指先でいじりながら、セリアは鏡を見つめていた。


鏡に映る明るい緑の瞳は、いつもより少しだけ不安そうに見える。セリアは、自分の顔をじっと見つめた。昔から、この顔を褒められることは多かった。


 儚げだと言われる。

 妖精のようだとも言われる。


 けれど、ただ弱々しいだけではない。柔らかな輪郭も、女性らしい華やかさもある。アルヴィンが自分を好きになった理由の一つにそれがあることも、セリアは分かっていた。


もちろん、それだけではない。幼い頃から一緒にいた。楽しかったことも、寂しかったことも知っている。


 だからこそ、アルヴィンの気持ちを信じていた。彼は昔から、自分が少し寂しそうにするとすぐに気づいた。


『無理をしなくていい』


『俺がいる』

そう言ってくれた。


 身分の違いを口にしたときもそうだった。


『私は、正妻になれなくてもいいわ。あなたが公爵家のために別の女性を妻に迎えなければならないのなら……それでも、あなたのそばにいたいの。愛妾と呼ばれても構わない。あなたが私を愛してくれるなら、それでいいもの』


 そう言えば、アルヴィンは決まって苦しそうな顔をした。


『君をそんな立場に置きたくない』


 その言葉を聞くたびに、セリアは安堵した。

ああ、この人は私を本当に大切に思ってくれている――そう確かめられたから。


 もちろん、アルヴィンを困らせたいわけではなかった。ただ、好きな人を失いたくなかったのだ。


自分たちの未来が身分だけで決められてしまうことが怖かったし、だから、アルヴィンが自分を選んでくれることを、何度も確かめたかった。


それが悪いことだとも思っていない。


「……私は、アルヴィン様を愛しているもの」


 セリアは鏡の中の自分に向かって呟いた。


 だからこそ、最近のアルヴィンの変化が気になって仕方がない。以前なら、最後には自分のところへ戻ってきた。けれど最近は、少し違う。話をしていても、どこか上の空になることがある。


 そして――。


「……アニエス様、ね……」


 セリアはその名前を口にした。噂で聞いただけの婚約者。まだ、直接会ったことはない。


 けれど、不思議な女性らしい。


 一般的な貴族令嬢のように大人しく振る舞うことに、あまり頓着しないのだという。自分の意見をはっきり口にし、周囲に合わせるよりも、自分で考えて行動する。


「……少し変わった方なのね」


 セリアは小さく呟いた。


 もちろん、それだけで相手を判断するつもりはない。噂など、どこまで本当か分からないのだから。


 けれど――。


 アルヴィンが、その女性と過ごすようになってから少し変わった。それだけは、セリアにも分かっていた。


「……どうして?」


 思わず呟いた。


 今までなら、アルヴィンの気持ちは自分のことを向いていると信じていられた。幼い頃からずっと一緒にいて、互いを知っている。


 だからこそ、婚約者となった女性がどんな人なのか、気にならないはずがなかった。


「……どんな方なのかしら」


 セリアは鏡の中の自分を見つめた。


 まだ見ぬ相手への好奇心と、胸の奥に生まれた小さな不安。その二つが、静かに入り混じっていた。


「欲しいものを手放したくないと思うことが、そんなに悪いことなの?」


 答えは返ってこない。


 セリアはしばらく黙っていた。やがて、鏡の中の自分を見つめながら、静かに息をつく。


「……私だって、簡単に譲るほど聞き分けがよくはないわ」


 それが恋なのか。それとも、ただの意地なのか。セリア自身にも、まだ判然としない。けれど、一つだけ確かなことがある。


 アルヴィンとの未来を、誰かに勝手に決められるつもりはなかった。


「……アルヴィン様は、何を考えているの?」


 鏡の中の明るい緑の瞳が、不安そうに揺れた。その答えを、セリアはまだ知らない。セリアは静かに鏡から目を離した。




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