6話 消えてしまうその前に
私の新しい人生の準備は、思っていた以上に順調だった。
行き先を決め、必要な資金を計算し、裏で信頼できる商人を捕まえて使っていないドレスや宝飾品をさっさと換金する。
段取りさえ決まれば、あとはタスクを消化するだけだ。前世で会社員をしていた私には、そのあたりの段取りだけは妙に得意だ。
問題は――最近になって、その人生設計にひとつだけ誤算が生まれたことだ。
アルヴィン様である。
彼と過ごす時間は、思っていたよりずっと穏やかだった。仕事の話をすれば、私の意見もきちんと聞いてくれる。領地の話をしていると、意外なところで話が合う。疲れていれば、黙ってお茶を淹れてくれることもある。
だからといって、結婚したいと思ったわけではない。夫になる人に別の女性がいると分かっているなら、話は別だ。私は、そんなに物分かりのいい女ではない。
それに、幸い実家の領地経営は順調だ。そう思わなければ、誰かの都合に合わせて自分の気持ちを押し殺してしまう。
『家のためなら仕方がない』
『婚約者に愛する人がいても、貴族の娘なら耐えるべきだ』
そう言い聞かせて、笑顔のまま結婚することだってできてしまう。けれど、そんな人生を選んだあとで、私は自分を許せるのだろうか。
誰かに選ばれるのを待つのではなく、自分で行き先を決め、自分の足で歩いていきたい。それはわがままかもしれない。けれど、これ以上傷つかないために、私が見つけた唯一の逃げ道でもあった。
私の人生を生きるのは、結局、私自身なのだから。
一度きりの人生だもの。一生ウジウジしながら生きるなんて、そんなのまっぴらだわ。
* * *
そんなことを悶々と考えながら廊下を歩いていたときだった。 持っていた革の鞄が、手から滑り落ちた。
「あっ」
ぱさり、と音を立てて中身が床に散らばる。
隣国の詳細なルートが書かれた地図。旅費の試算表。売却した資産の目録。
よりによって。
こんな最悪のタイミングだけは、人生は妙に正確に選んでくる。
「……これは?」
「!」
拾い上げる声に、私は固まった。 顔を上げる。紙面に目を走らせるアルヴィン様が、目の前に立っていた。
「……見ました?」
「ああ」
「全部?」
「……一通り」
「そ、そうですか」
終わった。
私の人生設計が、まさか廊下で全公開されるとは。
アルヴィン様は手にした地図を見つめた。
「この道は……国境へ続いているな」
「ええ」
「君は、ここへ行くつもりなのか?」
「はい」
私は素直に頷いた。
「行くなら、準備が必要でしょう?」
「準備……」
なんだかいっそ開き直ってしまったというか、やけくそ気味に、私は精一杯貼り付けた笑顔でとっさに答えてしまった。
「使っていない宝飾品やドレスを売って、旅費と当面の生活費を用意しましたの。向こうで働けそうな仕事も、いくつか調べてありますわ」
アルヴィン様の顔が、少しずつ険しくなっていく。
「いつからだ?」
「婚約が決まった頃からですわ」
「……そんなに前から?」
「ええ」
私は散らばった紙を拾いながら答えた。
「考えているだけでは、いつまで経っても出発できませんもの」
「君は……」
アルヴィン様が言葉を失った。私は挑戦的に首を傾げる。
「何か?」
「いや……本当に、行動が早いな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
そう言うと、アルヴィン様は少し困ったような顔をした。けれど、その目は笑っていなかった。
「俺には、何も言わずに行くつもりだったのか?」
「そのほうがお互い楽でしょう?」
「……」
「アルヴィン様にはセリア様がいらっしゃいますもの」
私は淡々と続けた。
「でしたら、私は私で別の人生を選べばいいと思いましたの」
「君は……俺との婚姻を、本当はそういうふうに考えていたのか?」
「はい」
迷いなく答えた。
「もちろん、自分が貴族の娘だということも分かっていますわ。家のために結婚するのが当たり前だということも」
私は拾った紙を一枚ずつ揃える。
「ですから、政略結婚を受け入れること自体に文句があるわけではありませんの」
そこで少しだけ肩をすくめた。
「でも、夫になる人に別の女性がいるのが分かっていて、何も思わない女なんて……そうそういないでしょう?」
「……」
「私はそこまで物分かりのいい女ではありませんもの」
アルヴィン様が黙り込む。
「それに、実家は今のところ順調ですし。五人兄弟の末っ子で三女ですから、上のお兄様やお姉様たちには申し訳ないけれど、私が一人くらい好きに生きても……まあ、許されるかな、と」
「君は、自分の立場をそんなふうに考えていたのか」
「勝手に、ですけれど」
私は笑った。
「家族に聞いたら、怒られるかもしれませんわね」
もちろん、そんな軽い話だけではない。だから、自分で別の道を探したのだ。
これで十分なはずだった。 未練なくこの国を出て、自分の力で生きていく。その決意にブレはなかったはずなのに。
「……でも」
アルヴィン様がこちらを見る。
「最近は、少し分からなくなってきましたの」
「何が?」
「アルヴィン様とお話しするのは、思っていたより楽しいですし」
「……」
「仕事のお話も、意外と面白いですわ」
それに、先日のように一緒に仕事をして、お茶を飲んで。そんな時間が、思っていたより心地よかった。だからといって、すぐに人生設計を書き換えるほどではない。
何しろ私は、もうかなり準備してしまったのだから。
けれど――。
この人と別れることになる。そう考えると、以前のように何も感じないわけではなくなっていた。
アルヴィン様は、何か言おうとして、口を閉じた。そのまま、しばらく黙っている。
やがて私は、鞄を抱え直した。
「では、私はこれで――」
一歩、後ろへ下がる。
その瞬間だった。
「……待ってくれ」
「アルヴィン様?」
振り返ると、彼は私の手首を掴んでいた。
強くはない。けれど、離すつもりがないことだけは分かる。アルヴィン様自身も、自分の手を見ている。まるで、なぜそうしたのか、自分でも分からないように。
「何でしょう?」
「……すまない」
そう言って、少しだけ力を緩める。けれど、完全には離さなかった。
「だから、どうなさいましたの?」
私が尋ねると、アルヴィン様はしばらく黙っていた。
そして、ようやく顔を上げた。
「……君がいなくなることが、嫌なんだ」
私は目を瞬かせた。
「……まあ」
――な、何言い出したの、コイツ? 本命の恋人がいるでしょう、あなた。
「……」
「私、もう結構準備してしまいましたの。公爵邸の図書室のおかげで、ずいぶん捗りましたわ。……ありがとうございます」
アルヴィン様は苦笑することもできず、ただ黙っている。何ともいえない寂しそうな表情で。その顔を見ていると、胸の奥がほんの少しだけ締めつけられた。
でも……なんだかなぁ。
なんであなたが被害者みたいに、傷ついた風な顔をしているんですか?
私だって、この生まれ育った国を出るのは大変な勇気がいるのだ。上位貴族の何不自由なく育った令嬢が、いろんなものを捨てなきゃならないのよ?
それでも、今のあなたにこのまま嫁ぐ未来は不要だと思うほど、決意をさせているのはあなたでしょうが。
……そう思いながらも、最近のアルヴィン様には思うところもある。今すぐ答えを出す必要はないのかもしれない。実家にもまだ何も告げていない。いずれ手紙を送り、婚約のことと今後の身の振り方を伝えなければならないだろう。
その間に、私自身も考えればいい。
「でしたら」
私は手首に残る彼の手をちらりと見た。
「アルヴィン様も、少し考えてくださいませ」
「……何を?」
「私だけが人生の予定を変更するのは、不公平でしょう?」
アルヴィン様は、ようやく私の手を離した。
「……分かった」
「よろしいですわ」
私は拾い集めた地図を鞄に戻した。
「隣国へ行く準備は、もうできているのです。ですから、今すぐ結論を出す必要もありませんわ」
いずれ実家への連絡も済ませて、必要なら一度戻って話をすればいいのだ。少しくらい予定を変更したって、きっと大丈夫だ。
前世でも、仕様変更やスケジュールの遅延なんて日常茶飯事だった。
――まあ、もう少しだけ。
この困った婚約者様のことを、考えてみることにしましょうか。




