↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/14

5話 婚約者は意外と使える人だった



 レイナード公爵家を訪れるようになって、しばらく経った。


 婚約者同士として顔を合わせる機会は多いが、私とアルヴィン様の関係は穏やかだった。必要なことだけを話し、互いに踏み込みすぎない。私としては、その距離感がありがたかった。


 なにしろ私は、婚約者がいる身でありながら、国外へ逃げる準備を進めているのだから。


 * * *


 そんなある日の午後。


「……ずいぶん、書類に埋もれていらっしゃいますのね」


 執務室を訪れた私は、机いっぱいの書類を見て呟いた。


「少し、片づけきれないものが重なっていてね」


 アルヴィン様は顔を上げた。普段は隙のない人なのに、今日は明らかに疲れている。机には予算表や帳簿が積み上がっていた。


 ――段取りが悪すぎる。


 そう思ったが、ここは貴族社会。相手は公爵家の跡取りで、私の婚約者でもある、ここはツッコミづらい。


「近々、夜会があるのですか?」


「ああ。来月、領主会議に合わせて夜会を開く予定があるのだが……」


 私は予算表に目を落とした。


 会場の装飾、料理、楽団、宿泊、馬車、警備、贈答品。項目は妥当だが、いくつかの金額が妙に膨らんでいる。


「こちらの装飾費、ずいぶん豪華ですわね」


「セリアが、以前訪れた庭園を再現したいと。二人の思い出になるから、と言われてね」


「さようですか」


 ――なんだそりゃ。


 仮にも婚約者の私にそういうこと言う?いくらこっちがわきまえてる婚約者っていう設定でも、バカ正直すぎる。デリカシーがなさすぎるでしょう。


 まあ、好きな女性の願いを断りにくいのは分かる。けれど、経営としては別の話だ。


「発注先は、もう決まっていますの?」


「一部はね。だが、契約までは済んでいない」


「でしたら、まだ間に合いますわね」


 私は予算表を手に取った。


「まず、装飾は翌年以降も使えるものに変更しましょう。庭園の再現費は、三百金貨から百八十金貨程度まで抑えられます。料理は領地の特産品を中心にし、楽団は領主会議と合わせて手配する。贈答品も、地元の特産品を組み合わせれば十分ですわ」


「そこまで削れるのか?」


「単純に安くするのではなく、お金の流れを変えるのです。北部の被害もありますし、百二十金貨ほどは予備費として残すべきです」


 私は削るものと残すものを整理し、工程表まで作った。


「誰が、いつまでに、何を決めるのか。今はそこが曖昧です。締め切りを決め、仕事を分担してくださいませ」


「……その通りだな。目の前のことを片づけるので精一杯だった」


「だからこそ、全部をご自分で抱える必要はありませんわ。人に任せることも、仕事のうちです」


 アルヴィン様は、少し困ったように眉を寄せた。


「任せるのが、どうも苦手でね」


「でしたら、まずは一つだけ任せてみてはいかがです? 私に」


 その言葉に、彼の表情がわずかに和らいだ。


 それから二人で書類を確認し、気づけば窓の外は夕暮れに染まっていた。


「……終わりましたね」


「助かったよ。本当に」


「お役に立てたなら何よりですわ」


「今日は、君に働かせすぎてしまったな。せめてお茶を淹れるからゆっくりしていってくれ」


「でしたら、私が淹れますわ」


「いや。今日は私に任せてほしい」


「まあ、公爵家のご子息はお茶も淹れますのね」


「母上がお茶にこだわる人だから、幼少期から私も興味があってね。習ったんだ」


 そう言ってアルヴィン様が微笑む。


 ほどなくして、二人分の紅茶が用意された。夕暮れの光が、二人の横顔を柔らかく照らしていた。 紅茶を差し出すアルヴィン様の指先が、わずかに躊躇うように揺れた。


差し出された琥珀色の水面を見つめる彼の瞳には、これまでの令嬢たちに向けるものとは違う、戸惑いと、それ以上の熱が灯っているように見えた。


「アニエス。あなたは、なぜそこまでしてくれるんだ?」


「なぜって、あなたが困っていらっしゃったからですわ。政略とはいえ、私は婚約者ですし?」


「それだけかい?」


「それ以上、何か必要ですの? それに、アルヴィン様の目の下に大きなクマができているんですもの。だいぶお疲れのように見えましたし、ほっとけませんわ。ふふっ、男前が台無しじゃないですか」


 首を傾げる私に、アルヴィン様は思わず笑った。


 私が「帰る」と言えば、もう少しここにいてほしいと思ってしまう。アルヴィン様はそんな自分の感情の正体を、まだ認められずにいるようだった。


「では、今度こそ失礼しますわ

私が扉へ向かおうとすると、


「アニエス」


 呼び止めたアルヴィン様は、私の手にそっと自分の手を重ねた。


 私の紫の瞳が、驚いたように見開かれる。


「……君は、本当に不思議な女性だな」


 手を解放すべきだと思うのに、あと少しだけ、この距離にいたい。


胸がきゅっと揺れた。


 目の前にいるのは、いつもの隙のない公爵令息ではない。疲れた顔で、それでも責任を果たそうとする一人の若い男性で。


 ――ずるい。


 そんな顔をされたら、この人のそばにいてもいいのではないかと思ってしまう。前世の世話好きアラサーの母性をくすぐるからなのか?いや、ただ顔がいいからか。クソォ。


 けれど、私には国外へ逃げる計画がある。これ以上、近づいてはいけないのだ。


「不思議なのは、アルヴィン様も同じですわ」


「私が?」


「もっと何でも完璧にこなす方だと思っていましたのに」


「それは……褒めているのかな」


「もちろんですわ。完璧でないほうが人間らしいでしょう?」


 アルヴィン様の瞳が揺れた。


「……そうなのかな」


 やがて、彼の手が静かに離れる。


 私はそのままお辞儀をして、部屋を出ていった。


 * * *


 廊下を歩きながら、私は自分の手を見下ろした。まだ、ほんの少し温かい気がする。


 ……いやいや。


 彼は愛する女性が別にいる男性。そして私は国外逃亡を計画している女。ただ、手を重ねられただけだ。 それなのに、あの人の表情が頭から離れない。逃げるなら、情など持たないほうがいい。ここに残りたいなどと思ってはいけないのだ。


 胸の奥が疼く。


 この人のそばを離れるのが、なんだか少しだけ惜しいと思ってしまう。冷静になれ、私。ここに情を残したら終わりだ。


……そう自分に言い聞かせる心臓の音が、いつもより少しだけ、うるさく響いていた。



 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。