5話 婚約者は意外と使える人だった
レイナード公爵家を訪れるようになって、しばらく経った。
婚約者同士として顔を合わせる機会は多いが、私とアルヴィン様の関係は穏やかだった。必要なことだけを話し、互いに踏み込みすぎない。私としては、その距離感がありがたかった。
なにしろ私は、婚約者がいる身でありながら、国外へ逃げる準備を進めているのだから。
* * *
そんなある日の午後。
「……ずいぶん、書類に埋もれていらっしゃいますのね」
執務室を訪れた私は、机いっぱいの書類を見て呟いた。
「少し、片づけきれないものが重なっていてね」
アルヴィン様は顔を上げた。普段は隙のない人なのに、今日は明らかに疲れている。机には予算表や帳簿が積み上がっていた。
――段取りが悪すぎる。
そう思ったが、ここは貴族社会。相手は公爵家の跡取りで、私の婚約者でもある、ここはツッコミづらい。
「近々、夜会があるのですか?」
「ああ。来月、領主会議に合わせて夜会を開く予定があるのだが……」
私は予算表に目を落とした。
会場の装飾、料理、楽団、宿泊、馬車、警備、贈答品。項目は妥当だが、いくつかの金額が妙に膨らんでいる。
「こちらの装飾費、ずいぶん豪華ですわね」
「セリアが、以前訪れた庭園を再現したいと。二人の思い出になるから、と言われてね」
「さようですか」
――なんだそりゃ。
仮にも婚約者の私にそういうこと言う?いくらこっちがわきまえてる婚約者っていう設定でも、バカ正直すぎる。デリカシーがなさすぎるでしょう。
まあ、好きな女性の願いを断りにくいのは分かる。けれど、経営としては別の話だ。
「発注先は、もう決まっていますの?」
「一部はね。だが、契約までは済んでいない」
「でしたら、まだ間に合いますわね」
私は予算表を手に取った。
「まず、装飾は翌年以降も使えるものに変更しましょう。庭園の再現費は、三百金貨から百八十金貨程度まで抑えられます。料理は領地の特産品を中心にし、楽団は領主会議と合わせて手配する。贈答品も、地元の特産品を組み合わせれば十分ですわ」
「そこまで削れるのか?」
「単純に安くするのではなく、お金の流れを変えるのです。北部の被害もありますし、百二十金貨ほどは予備費として残すべきです」
私は削るものと残すものを整理し、工程表まで作った。
「誰が、いつまでに、何を決めるのか。今はそこが曖昧です。締め切りを決め、仕事を分担してくださいませ」
「……その通りだな。目の前のことを片づけるので精一杯だった」
「だからこそ、全部をご自分で抱える必要はありませんわ。人に任せることも、仕事のうちです」
アルヴィン様は、少し困ったように眉を寄せた。
「任せるのが、どうも苦手でね」
「でしたら、まずは一つだけ任せてみてはいかがです? 私に」
その言葉に、彼の表情がわずかに和らいだ。
それから二人で書類を確認し、気づけば窓の外は夕暮れに染まっていた。
「……終わりましたね」
「助かったよ。本当に」
「お役に立てたなら何よりですわ」
「今日は、君に働かせすぎてしまったな。せめてお茶を淹れるからゆっくりしていってくれ」
「でしたら、私が淹れますわ」
「いや。今日は私に任せてほしい」
「まあ、公爵家のご子息はお茶も淹れますのね」
「母上がお茶にこだわる人だから、幼少期から私も興味があってね。習ったんだ」
そう言ってアルヴィン様が微笑む。
ほどなくして、二人分の紅茶が用意された。夕暮れの光が、二人の横顔を柔らかく照らしていた。 紅茶を差し出すアルヴィン様の指先が、わずかに躊躇うように揺れた。
差し出された琥珀色の水面を見つめる彼の瞳には、これまでの令嬢たちに向けるものとは違う、戸惑いと、それ以上の熱が灯っているように見えた。
「アニエス。あなたは、なぜそこまでしてくれるんだ?」
「なぜって、あなたが困っていらっしゃったからですわ。政略とはいえ、私は婚約者ですし?」
「それだけかい?」
「それ以上、何か必要ですの? それに、アルヴィン様の目の下に大きなクマができているんですもの。だいぶお疲れのように見えましたし、ほっとけませんわ。ふふっ、男前が台無しじゃないですか」
首を傾げる私に、アルヴィン様は思わず笑った。
私が「帰る」と言えば、もう少しここにいてほしいと思ってしまう。アルヴィン様はそんな自分の感情の正体を、まだ認められずにいるようだった。
「では、今度こそ失礼しますわ
私が扉へ向かおうとすると、
「アニエス」
呼び止めたアルヴィン様は、私の手にそっと自分の手を重ねた。
私の紫の瞳が、驚いたように見開かれる。
「……君は、本当に不思議な女性だな」
手を解放すべきだと思うのに、あと少しだけ、この距離にいたい。
胸がきゅっと揺れた。
目の前にいるのは、いつもの隙のない公爵令息ではない。疲れた顔で、それでも責任を果たそうとする一人の若い男性で。
――ずるい。
そんな顔をされたら、この人のそばにいてもいいのではないかと思ってしまう。前世の世話好きアラサーの母性をくすぐるからなのか?いや、ただ顔がいいからか。クソォ。
けれど、私には国外へ逃げる計画がある。これ以上、近づいてはいけないのだ。
「不思議なのは、アルヴィン様も同じですわ」
「私が?」
「もっと何でも完璧にこなす方だと思っていましたのに」
「それは……褒めているのかな」
「もちろんですわ。完璧でないほうが人間らしいでしょう?」
アルヴィン様の瞳が揺れた。
「……そうなのかな」
やがて、彼の手が静かに離れる。
私はそのままお辞儀をして、部屋を出ていった。
* * *
廊下を歩きながら、私は自分の手を見下ろした。まだ、ほんの少し温かい気がする。
……いやいや。
彼は愛する女性が別にいる男性。そして私は国外逃亡を計画している女。ただ、手を重ねられただけだ。 それなのに、あの人の表情が頭から離れない。逃げるなら、情など持たないほうがいい。ここに残りたいなどと思ってはいけないのだ。
胸の奥が疼く。
この人のそばを離れるのが、なんだか少しだけ惜しいと思ってしまう。冷静になれ、私。ここに情を残したら終わりだ。
……そう自分に言い聞かせる心臓の音が、いつもより少しだけ、うるさく響いていた。




