4話 幼馴染は婚約者より先に気づいた
その日も、私はレイナード公爵家を訪れていた。目的は、前回の図書室で見つけた資料の続きを調べるため。
表向きには、
「アルヴィン様に領地について教えていただきたいことがありまして」
という、殊勝な婚約者を装っている。
実際には、隣国リューディアの商業都市について調べたいだけだ。国外逃亡を企てている人間にとって、建前は大事である。
「アルヴィン様はいらっしゃいますか?」
玄関ホールで侍従に尋ねる。
「申し訳ございません。ただいまアルヴィン様は執務室に――」
「おや?」
背後から明るい声がした。
振り返ると、金髪碧眼の青年が立っていた。
短く整えられた金髪に、いたずらっぽい青い瞳。洒落た服装で笑えば軽薄そうに見えるが、姿勢や所作には隠しきれない品がある。
――チャラそうなのに育ちがいい。
前世でいう、高級ホテルのラウンジにいそうなタイプだ。
「これはこれは。お噂の婚約者様かな?」
「……はい?」
「失礼。僕はフェリクス。アルヴィンの幼馴染です」
「アニエス・フォン・ヴァルモンですわ。初めまして」
「こちらこそ」
フェリクス様は私を観察するように眺めた。
「へえ……アルヴィンに選ばれた女性って、どんな方なのかなと思って」
「私が選ばれたというより、家同士で決まった婚約ですわ」
「ああ、そうだったね」
フェリクス様は声を落とした。
「でも君、大変じゃない? アルヴィンには昔から仲のいい女性がいるだろう?」
なるほど。この人、私を試しているのだ。
「セリア様のことですわね」
「知ってるんだ?」
「はい。アルヴィン様から伺いましたわ」
「本人から?」
「ええ。先日、庭園でお話ししましたの」
「何て?」
「大切な女性だと」
「ふむ……それで?」
私は首を傾げた。
「どうもしませんわ。私が怒っても仕方がありませんもの」
フェリクス様が黙る。
「婚約は家同士のものですし、アルヴィン様がどなたを好きなのかは、アルヴィン様の自由でしょう?」
「……」
「もちろん、結婚後まで愛人関係を続けるとなれば話は別ですけれど。そこは夫婦として話し合えばいいことですわ」
私はにっこり笑った。
「それに、他に好きな方がいらっしゃるなら、むしろ私としては助かりますもの」
「助かる?」
「ええ。私も自分の時間は大切にしたいですし、お互いに干渉しすぎないほうが楽でしょう?」
私の場合は、国外逃亡するための時間だけど。
フェリクス様はしばらく私を見つめ、ふっと笑った。
「なるほど……面白い令嬢だね」
「そうでしょうか?」
「うん。とても」
何の試験かは分からないが、どうやら合格したらしい。
「アニエス嬢」
「はい?」
「アルヴィンを、よろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」
フェリクス様は楽しそうに笑った。
――アルヴィン様の幼馴染は、かなり変わった方らしい。
私はフェリクス様と別れたあと、侍従に断りを入れ、アルヴィン様に会うことなく図書室へ向かった。
前回の調べ物の続きを済ませ、リューディアの商業都市について必要な情報を集める。資料を元の場所へ戻す頃には、窓の外が淡い夕暮れに染まっていた。
そのまま公爵邸を後にしたため、その日はアルヴィン様と顔を合わせることはなかった。
* * *
アニエスが図書室を出たあとの執務室には、夕暮れの静けさが満ちていた。
窓の外を眺めながら、フェリクスはソファに腰を下ろし、紅茶を口に運んだ。
「お前さ」
「何だ?」
「一度聞きたかったんだけど、お前、あのセリアとかいう女のどこを見てるんだ?」
アルヴィンの眉がぴくりと動いた。
「……突然、何を言う」
「いや。昔からずっと思ってた」
二人は幼い頃からの付き合いだ。学園時代も社交界に出てからも、フェリクスはアルヴィンのそばにいた。セリアと付き合い始めてからも、彼女を何度も見ている。
アルヴィンの前では控えめで健気な彼女は、彼がいないところでは周囲をよく観察していた。
誰が誰に求婚した。どの家がどれだけ財産を持っている。どの令嬢が社交界で注目されている。
そんな話を何気ない会話に滑り込ませ、アルヴィンの前では決まって寂しそうな顔をする。
最初は気のせいだと思っていた。だが、何年も見ていれば分かる。
セリアは、アルヴィンの罪悪感を刺激するのがうまかった。
「お前、あの女のことになると本当に周りが見えなくなるからな」
「セリアは……」
「分かってる。お前の初恋なんだろ?」
アルヴィンは黙った。
セリアは、アルヴィンにとって初めて本気で好きになった女性だった。
だが、公爵家の嫡男と、とても裕福とはいえない下級貴族の令嬢。
数年前、家督を継いだ彼女の兄が事業に失敗した。それ以来、彼女の家が没落寸前だという冷酷な噂が社交界に流れるたび、アルヴィンは胸を痛めてきた。
一方、アルヴィンは広大な領地を治める、王家にも連なる大貴族・公爵家の嫡男だ。
二人の結婚が簡単に認められるものではない。
だからセリアは、いつも悲しそうに言った。
『私は、アルヴィン様の隣に立てなくても構いません』
『あなたのそばにいられるだけで、私は幸せです』
涙を浮かべる彼女を見るたび、アルヴィンは自分の身分のせいで彼女を苦しめていると思った。守らなければならないという責任感は、いつしか愛情と複雑に絡み合っていた。
「セリアは、俺との結婚を望んでいるわけではない」
「……本気でそう思ってるのか?」
「彼女は俺の立場を理解している」
「違うだろ」
フェリクスはため息をついた。
「お前がそう思いたいだけだ。『あなたのそばにいられるだけで幸せ』だと言いながら、他の男の話をわざわざお前に聞かせるのは何のためだ?」
アルヴィンの表情が止まった。
「……それは」
「お前が焦るのを知ってるからだよ」
フェリクスは淡々と言った。
「寂しいって甘えておきながら、お前が離れそうになると泣いて引き止める。そのくせ、時々他の男の影をちらつかせてお前を焦らせる。……全部計算だよ」
「……」
「そのたびに、お前は『俺が守らなければ』ってなるんだろ?」
フェリクスは深く息を吐いた。
「それ、愛情だけで説明できるか? 彼女の家の事情もあるだろう」
アルヴィンは答えられなかった。
「俺はあの女が嫌いだ」
静かな声だった。
「男の罪悪感と責任感を利用して、自分の欲しいものを手に入れようとする女が一番嫌いなんだよ」
「セリアはそんな――」
「じゃあ、お前の婚約が決まったとき、彼女は何と言った?」
アルヴィンは黙る。
セリアは泣きながら言った。
『私のことは忘れてください』
けれど、その後でこう呟いたのだ。
『……私を忘れたあとで、あなたの心に残る人なんているかしら』
その言葉が苦しくて、アルヴィンは彼女を手放せなかった。
「お前は優しいんだよ」
フェリクスが言った。
「だから、自分が傷つけたと思った相手を放っておけない」
「……」
「でもな」
フェリクスは立ち上がった。
「それと、その女を一生守る義務があるかどうかは別の話だ」
アルヴィンは何も言わなかった。
フェリクスは扉へ向かい、最後に振り返った。
「少なくとも、今日会ったアニエス嬢は違ったぞ」
「……アニエスが?」
「ああ」
碧眼が楽しそうに細められる。
「お前に女がいるって聞いても、嫉妬するどころか『そのほうが助かりますわ』だとさ」
「……」
「お前、あの子に相当舐められてるぞ」
「舐められている?」
「いや、正確には――」
フェリクスは笑った。
「お前が思ってるより、ずっと自立した女性なんだろうな」
扉が閉まる。
静かになった執務室で、アルヴィンは机に視線を落とした。
脳裏に浮かんだのは、バラ園で笑っていたアニエスの顔だった。先日の図書室で、慌てて頬を赤らめた姿も鮮やかに蘇る。
不思議だった。
セリアの前では、いつも胸の奥に重い責任が沈んでいた。彼女が寂しそうに微笑めば、手を差し伸べなければならないという焦りが込み上げる。
けれど、アニエスの前では違う。
彼女は自分を頼ろうともしない。愛情を欲しがる様子もなく、こちらが手を伸ばすより先に軽やかに身をかわしてしまう。
その距離が、なぜか気になった。
彼女が笑うと、胸の奥がふっと軽くなる。赤く染まった頬を思い出すだけで、もう一度、あの初々しい表情を見たいと思った。
セリアに向けていたものが「守らなければならない」という重さなら。
アニエスに向けるこれは、もっと落ち着かなくて、もっと自由で、だからこそ扱いに困る感情だった。
アルヴィンは小さく息を吐いた。
「……アニエス、か」
その名を口にしただけで、胸の奥がかすかに揺れる。自分でも気づかないうちに、小さく笑っていた。
その変化を、もしフェリクスが見ていたなら、きっとすぐに気づいただろう。
それは、長く抱えてきた義務や罪悪感とは違う。誰かに守らされるのでも、守らなければと縛られるのでもない。
自分から知りたい。近づきたい。彼女の心に触れてみたい。
そんな、まだ名前のつかない感情が、胸の奥で小さく芽吹いていることに。
一方、執務室をあとにしたフェリクスは、静まり返る廊下で振り返り、静かに目を細めていた。
「よかったな、アルヴィン」
誰に届くでもない呟きを吐き出し、フェリクスは小さく肩をすくめて、夕闇が迫る廊下を歩き去った。




