3話 逃亡計画と勘違いする 婚約者
レイナード公爵家には、とても立派な図書室がある。
それはもう、立派なんて言葉では足りない。壁一面の本棚が何列も並び、歴史書や法律書、領地経営に関する資料から、他国の地理や交易についての書物まで揃っている。
そして私は今、その素晴らしい図書室を――。
「……完全に私物化しているわね」
小さく呟いた。
婚約内定という立場を最大限に利用している。
『交流を深めるため、また公爵夫人としての事前教育の一環として、婚約中はできるだけこちらの屋敷へ足を運ぶこと』
それが両家で交わされた取り決めだった。
おかげで、公爵邸の図書室へも割と自由に出入りできるよう許可されている。
ありがたい。本当に助かるわ。何しろ、侯爵家の図書室よりこちらのほうが圧倒的に資料が多いもの。国外逃亡を考えるなら、使わない手はない。
「ふむ、まずは隣国、リューディア王国……」
私は大きな地図を机いっぱいに広げた。
エルディア王国。それが、私の暮らしている国の名前だ。大陸西部に広がる、豊かで安定した王国。王都を中心に、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵といった貴族領が広がっている。
身分制度はしっかりしているけれど、その分、治安もいい。交易も盛んで、文化も発達している。普通に暮らすなら、かなり住みやすい国だと思う。
――普通に暮らすなら。
「問題は結婚制度なのよね……」
私は資料をめくった。
エルディアでは、貴族の結婚は基本的に家同士の結びつきだ。もちろん恋愛結婚も存在する。けれど、家格や財産、領地の位置関係、継承問題。そういうものを全部無視して「好きな人と結婚します」というのは難しい。
そして女性は結婚すれば、基本的に夫の家に入る。夫がどんな人間でも、家のために夫婦関係を維持することを求められるのだ。
愛人?
……いる人はいる。そして、それが貴族社会では完全な異常事態として扱われるわけでもない。
「いや、やっぱりおかしいでしょう」
私は本を閉じた。
前世の日本でも、もちろん結婚生活が必ずしも幸せとは限らなかった。でも少なからず、結婚相手を自分で選ぶという選択肢はあった。離婚だってできた。仕事を続けることも、一人で暮らすこともできた。
なのに、この国では結婚したら夫の家に入り、その家の人間として生きる。夫に愛人がいても、家同士の関係を考えれば簡単には離れられない。
……そりゃ、お姉様たちもあんな顔になるわよ。
「というわけで、逃げます」
私はきっぱり呟いた。
そして、地図の隣に別の資料を広げる。
隣国リューディア王国。
こちらはエルディアとはかなり事情が違う。
商工業が盛んで、王都には大規模な市場や工房が集まっている。身分制度は存在するものの、商売や技術によって財を成した平民も珍しくない。
そして――女性の就労が広く認められている。
女性が店を持ったり、女性が商売をする、
一人で部屋を借りる事も、もちろん簡単ではないけれど、珍しいことではない。
「これよ」
私は思わず身を乗り出した。
「私が欲しいのは、これ」
自由。
正確には、自分で稼いで、自分で生活を選べる環境なのよ。私は商業都市の場所を地図に書き込んでいく。
「港町なら仕事も多そう。王都なら事務仕事……いや、私の前世の経験を考えると商売のほうがいいかも」
接客、帳簿、交渉、在庫管理、簡単な経理とか、会社員だった頃に身につけた能力は、意外と使えるかもしれない。
前世の記憶を思い出してから、少し残念だったのは、この世界がファンタジー映画のように魔法が発達しているわけではなく、魔法使いもほとんどいない世界だったことだ。なんか王国全体を見渡しても数人いる程度らしいのよね。
魔石などはエネルギー電池のような役割で存在し、魔道具が少し発達しているという感じ。
でも、魔法なんてなくてもいいか。むしろ魔法がないなら、前世の知識をそのまま応用できるし。
「問題は資金ね」
私は唸った。国外へ行くための旅費としばらく暮らすための生活費。あと、住居を借りる費用や、仕事が見つかるまでの予備資金。
そして、身分をどうするか。
「……最低でも、金貨百枚くらいは欲しいわね」
かなり現実的な数字を考えてしまうあたり、前世の会社員時代が染みついている。
退職するときだって、貯金残高を確認してから辞表を出した。勢いだけで人生を変えるほど、私は若くない。
――実際の見た目は若いけれど、中身はアラサーなのだ。
「さて。次は国境を越える方法……」
そのときだった。
扉が開く音がした。
「……え?」
私は反射的に地図を畳んだ。しかし、遅かった。
「誰かいるのか?」
聞き覚えのある声。
「……!」
アルヴィン様。
まずい。非常にまずい。私は慌てて隣国の資料を本の下へ突っ込み、地図を丸めて椅子の背に隠した。
その直後、アルヴィン様が姿を現した。
「アニエス嬢?」
「まあ、アルヴィン様」
何食わぬ顔をする。
前世で仕事中に上司が突然現れたときより緊張する。何しろ今回は、見つかったら退職どころか人生設計が全部吹き飛ぶのだ。
「ずっとここにいたのか?」
「ええ。少し本を読んでおりましたの」
アルヴィン様は机の上を見た。
……まずい。幸い、隠しきれなかった資料は彼から見えない位置にある。
「勉強を?」
「はい」
私はにっこり笑った。
「こちらのお屋敷の図書室は、とても素晴らしいですもの」
「そうか」
アルヴィン様の表情が、ほんの少し和らいだ。
「家のことを知ろうとしてくれているのか」
「え……ええ、まあ」
違います。あなたの家のことを知ろうとしているというより、隣国のことを知ろうとしています。心の中で訂正する。
「何か探している本でも?」
「少し高いところにある本なのですが……」
私は適当に近くの棚を指した。そこには、確かに一冊だけ気になる本があった。
「どれかな?」
「上から三段目の、青い背表紙の……」
アルヴィン様が私の横を通り過ぎる。その肩が私の腕に触れそうになり、私は反射的に身を引いた。けれど逃げるように動いたせいで、背中が本棚に軽く触れる。
そして、彼は私の頭上へ腕を伸ばした。
「これですか?」
「……はい」
近い。思っていた以上に。背の高いアルヴィン様が後ろから腕を伸ばしたことで、自然と私のすぐ後ろに彼の身体が位置する。本棚と彼の腕に挟まれたような格好になり、身動きが取れない。
背中には本棚の硬さが伝わっているのに、目の前には彼の体温がある。その距離の近さに、嫌でも意識してしまう。
長く束ねられた黒髪が肩からさらりと落ち、微かに落ち着いた香りが漂う。腕を伸ばしたときに見えるしなやかな手首。細身なのに、しっかりとした腕。
私は浅く息を吸った。けれど、胸の奥まで届く前に呼吸が止まり、喉が小さく鳴る。アルヴィン様の指先が本の背に触れた。すぐそばで衣擦れの音がして、伸ばされた腕の気配が頬をかすめる。
「どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
差し出された本を受け取ろうとしたとき、指先が彼の指に触れた。反射的に手を引きそうになったが、本を落とすわけにもいかず、私はそのまま彼の指の感触を受け止める。
アルヴィン様も、触れた指先から伝わった私の体温に、ほんのわずかに目を見開いた。すぐに離すべきだと思ったのに、指が一瞬だけその場に留まる。自分でも説明のつかない反応に、彼は遅れて気づいたようだった。
振り返ると、灰緑色の瞳と真正面から目が合った。
(近いって……!)
アルヴィン様も、すぐには離れなかった。私の手元に落ちた視線が、触れた指先を確かめるようにゆっくりと上がってくる。
私は慌てて本を胸元へ引き寄せた。
「……どうした?」
「い、いえ。何でもありませんわ」
声が少し上ずった。
顔がいい。
いや、知っていたけれど。近くで見ると破壊力が違う。私は視線を本へ逃がした。けれど、耳の近くに残る彼の気配がなかなか消えてくれない。
(いや、これだけの美貌だと大抵の女子はときめくよね!? なに、この少女漫画みたいなシチュエーション! いっけない、いけない。ちょろいわ、私!)
――でも勘違いしないでくださいね、アルヴィン様。
あなたにときめいたから逃亡計画をやめる、とか、そんな簡単な話ではありませんから。私が何を調べていたのか、完全に勘違いしているのはお気の毒だけど。
「最近、よくここに来るんだな」
「ええ。勉強になりますもの」
「……あなたは真面目だな」
「そうでしょうか?」
「婚約が決まったばかりなのに、家のことを知ろうとしてくれている。正直、少し意外だった」
アルヴィン様はそう言って、穏やかに笑った。
私は一瞬、言葉に詰まった。
……その顔で、そんなふうに笑うのは反則では?
「私も、これからお世話になるお家ですもの」
とりあえず、それらしい答えを返す。
「そうか……ありがとう」
その声音には、初対面のときにはなかった柔らかさがあった。アルヴィン様は机の上から本を一冊手に取った。
「もし分からないことがあれば私に聞いてほしい」
「よろしいのですか?」
「ああ。領地や家のことなら、ある程度は答えられる」
彼はそう言いながら、私の顔をじっと見た。まるで、私の言葉の奥にあるものを探ろうとしているような視線だった。私は胸の奥を見透かされないよう、笑みを崩さない。
「では、お言葉に甘えて」
私は笑った。そして心の中で、盛大にため息をつく。
……困ったわね。だいぶ印象がよくなっているわ。なんだか随分、健気で真っ当な婚約者じゃない、私?
でも。
――まあ、いいか。今のところは。
アルヴィン様が私を「自分の家に馴染もうとしている健気な婚約者」と思ってくれるなら、逃亡計画を怪しまれる可能性は低くなる。私は何食わぬ顔で本を開いた。
その横で、アルヴィン様はしばらく私を眺めている、私は本の文字を追うふりをしながら、彼の視線を意識して、落ち着かない気持ちを誤魔化すので精いっぱいだった。
そして。
婚約が決まったから仕方なく顔を合わせているだけだったはずの青年が、いつの間にか目の前の可憐な婚約者にほんの少しだけ興味を持ち始めていたことに、気づく余裕はまだなかった。




