2話 婚約者には愛する女性がいる
国外逃亡を決意した翌週。
私は、婚約者となる人物との顔合わせの日を迎えていた。
朝から母に髪を整えられ、侍女には何度もドレスの裾を確認される。
「アニエス、とても綺麗よ」
「ありがとうございます、お母様」
鏡の中には、波打つマロンブラウンの髪と、光を受けるときらきらと輝く紫の瞳を持った少女が映っている。
可憐で、少し華やかな印象。
侯爵家の令嬢としては、まあ悪くない仕上がりだ。
……中身は、国外逃亡を計画中だけど。
今日やって来るのは、レイナード公爵家の嫡男、アルヴィン・フォン・レイナード様。父の話では、まだ若いながら公爵家の跡取りとしての自覚もあり、領地経営にも関心を持っているらしい。
ただし。
恋人がいる。それも、かなり大切に思っている女性が。そんな方と、私はこれから婚約する。
――人生って、本当に何が起こるか分からない。
やがて、応接間の扉が開いた。侍従が告げる。
「レイナード公爵令息がお見えです」
私は母の隣で立ち上がった。
応接間に足を踏み入れてきた青年を見て、私はまず、その見事な長髪に目を奪われた。緑がかった深い黒髪が、肩を越えるあたりで一つに束ねられている。
涼しげな灰緑色の瞳はこちらを穏やかに見据えており、すらりと高い背にまとった上着の上からでも、無駄のない引き締まった体躯であることがよく分かった。華美ではないのに、立っているだけで目を引く。
公爵家の嫡男という立場に相応しい、端正で高貴な青年だった。なるほど。確かに、これは社交界でも評判になりそうな容姿だ。私はそんなことを考えながら、淑女らしく微笑んだ。
「初めまして。アニエス・フォン・ヴァルモンですわ」
「アルヴィン・フォン・レイナードです」
低く穏やかな声が返ってきた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ」
まずは両家の挨拶。
父と公爵家当主が話をし、母たちも加わって、当たり障りのない会話が続いていく。
互いの領地の名産から始まり、今シーズンの社交界の流行、そして本題である私たちの今後の婚姻スケジュールにいたるまで、大人の会話は淀みなく、かつ建前を崩さないまま進んでいく。
そして、私たちの婚約について。
アルヴィン様は終始、落ち着いた様子だった。
愛想が悪いわけではない。けれど、必要以上に親しげでもない。まあ、初対面なのだから当然だろう。
しばらくして、公爵夫人が微笑んだ。
「せっかくですもの。お二人で少し庭を歩いていらしたら?」
「そうですね」
母も頷いた。私はアルヴィン様を見る。
「よろしいでしょうか?」
「もちろん」
こうして私たちは、応接間を出て庭園へ向かった。
* * *
侯爵家自慢のバラ園は、ちょうど見頃を迎えていた。赤、白、淡い桃色。風が吹くたびに、甘い香りが漂ってくる。
「綺麗ですわね」
「ええ。ここのバラ園は有名ですね」
「ご存じでしたの?」
「父から聞いています。毎年、春になるとこちらの領地から苗を取り寄せているそうですね」
「まあ。よくご存じですのね」
「家同士の付き合いもありますから」
なるほど。ちゃんと仕事をしている人なんだ。
父が言っていたとおりらしい。
私は少し意外に思った。
「アルヴィン様は、植物がお好きなのですか?」
「特別に好きというわけではありません。ただ、領地では薬草の栽培もしていますので、多少は」
「薬草ですの?」
「ええ。最近は収穫量を増やせないか検討しています」
「まあ……」
思っていたより、かなり真面目だ。もっとこう、公爵家の嫡男だから優雅に紅茶でも飲んでいるタイプなのかと思っていた。
「アニエス嬢は?」
「私ですか?」
「領地のことには興味がありますか?」
「そうですわね……」 私は少し考えた。
「今はまだ勉強中ですわ。でも、地図を見るのは好きです」
「地図?」
「ええ」
しまった。
これは国外逃亡計画のために最近よく見ているからだ。「街道や川の流れを見ると、その土地の暮らしが想像できて面白いのです」
「なるほど」
アルヴィン様が少しだけ目を細めた。
「面白いところに興味を持つのですね」
「そうかしら?」
「令嬢で地図を好む方は、あまり多くないので」
「……そうですの?」
「少なくとも、私の周囲では」
私は肩をすくめた。
「では、少し変わっているのかもしれませんわね」
「悪い意味ではありません」
「ふふ。分かっていますわ」
思ったより、話しやすい。もっと無口な方なのかと思っていた。
しばらく歩いていると、アルヴィン様がふと尋ねた。
「アニエス嬢は、結婚についてどうお考えですか?」
「結婚、ですか?」
「ええ」
私は少し考えてから答えた。
「この国では、家同士の結びつきという意味合いが強いのでしょう?」
「そうですね」
「では、婚約したら、結婚までにお互いの家を行き来したり、社交の場で夫婦として振る舞う練習をしたりするのでしょうか?」
「家によりますが、そういうこともあります」
「では、結婚後は?」
「……夫婦として、それぞれの役割を果たすことになるでしょう」
「随分と曖昧ですのね」
「貴族の結婚とは、そういうものです」
淡々と答えるアルヴィン様を見て、私は少し笑った。
「では、恋愛結婚の方は珍しいのですか?」
「珍しくはありません。ただ、家格が近く、家同士の都合にも適えば、という条件がつくことが多いですね」
「なるほど」
前世の日本とは、やはり違う。好きな人と結婚することもできる。でも、家の事情が優先されることもある。 そのあたりは、私の姉たちを見ていれば分かることだった。
「アニエス嬢は?」
「はい?」
「恋愛結婚を望まれますか?」
私は一瞬、答えに詰まった。そして苦笑する。
「昔は、そう思っていましたわ」
「昔は?」
「今は……結婚そのものについて、少し考え直していますの」
アルヴィン様は、それ以上は聞かなかった。
ただ、しばらく黙って歩いた。その沈黙が気まずいわけではなく、むしろ、変に踏み込まないところは好印象だった。
……なるほど。少なくとも、話の通じない人ではなさそう。そんなことを考えていたときだった。
「アニエス嬢」
「はい?」
アルヴィン様が足を止めた。
振り返った顔には、先ほどまでより少しだけ迷いが見えた。
「……一つ、先にお伝えしておきたいことがあります」
「何でしょう?」
アルヴィン様はすぐには答えなかった。少し考えてから、静かに口を開く。
「あなたに対して、失礼な話になるかもしれません」
「まあ」
「ですが、婚約する以上、隠したままにするのは誠実ではないと思っています」
私は黙って続きを待った。
「私には、以前から親しくしている女性がいます」
ああ。その話か。
「セリアという女性です」
アルヴィン様の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「長い付き合いです。……私にとって、大切な人です」
なるほど。これはかなり本気らしい。
「今回の婚約は、家同士の事情によるものです」
「はい」
「もちろん、私も公爵家の嫡男ですから、自分の立場が分かっていないわけではありません。家のために責任を果たすつもりです」
アルヴィン様はそこで一度、言葉を切った。
「ですが……セリアとの関係を、婚約したからといってすぐに終わらせることも、今の私にはできません」
申し訳なさそうだった。冷たい人というより、むしろ困っているように見える。
「あなたには、迷惑をかけることになるかもしれません」
私は少し考えた。そして。
「そうですのね」と頷いた。
アルヴィン様が、わずかに目を見開く。
「……それだけですか?」
「え?」
「その……怒られたり、悲しまれたりするのではないかと思っていました」
「ああ」 私は少し考えてから、微笑んだ。
「もちろん驚きましたわ」
「……」
「ですが、アルヴィン様が大切に思っていらっしゃる方がいるのでしたら、無理にお気持ちを変えていただく必要はないと思います」
だって。それなら話が早い。私だって、アルヴィン様に恋愛感情を求められたら困る。国外へ逃げるつもりなのだから。
それに――この人に別の好きな女性がいるなら、なおさら都合がいい。
お互いに干渉しなければいいのでは?
なんて平和な婚約なのだろう。
「……アニエス嬢は、随分と冷静なのですね」
「そうでしょうか?」
「ええ」
アルヴィン様は、少し不思議そうに私を見ている。
「私はてっきり……もっと、困らせてしまうものかと」
「困るというほどではありませんわ」
私はバラの花を眺めた。
「それに、私もアルヴィン様に無理に愛していただきたいとは思っておりませんもの」
「……」
「政略的な婚約なのですから、お互いに自分の生活を大切にすればよいのではありませんか?」
アルヴィン様が黙った。
私は首を傾げる。
……何か変なことを言ったかしら。
「もちろん、婚約者として必要なことはきちんといたしますわ」
「必要なこと?」
「社交ですとか、家同士のお付き合いですとか」
それから、私は少し笑った。
「それ以外のことは、お互い自由でよいと思いますの」
アルヴィン様は、しばらく私を見つめていた。やがて、小さく息を吐く。
「……あなたは、思っていた方とは少し違うようですね」
「まあ。どのように思っていらしたのです?」
「もっと……婚約に期待されているのかと」
「年頃の令嬢でしたら、それが普通ですものね。ふふっ」私は少しだけ考えてから続けた。
「私も、昔はそうでした」
好きな人と結婚して、一緒に暮らして、毎日楽しく過ごす。そんな未来を夢見ていた。けれど、姉たちの結婚を見て、前世の記憶まで思い出して、今では、すっかり考え方が変わってしまった。
「ですが、結婚というものが必ずしもそういうものではないと、最近知りましたの」
「……そうですか」
アルヴィン様はそれ以上、何も聞かなかった。そのことに、私は少しだけほっとする。
――いい人なのかもしれない。
少なくとも、無理に踏み込んでくる人ではなさそうだ。それなら。私も余計なことは言わなくていい。国外逃亡については、もちろん秘密だけれど。
「では、アルヴィン様」
「はい」
「これから、よろしくお願いいたしますわ」
「ああ。こちらこそ」
私たちは、バラの咲く庭で静かに頭を下げ合った。
お互いに、裏に大きな事情(愛人と国外逃亡)を抱えたまま交わした、初めての挨拶。
それは拍子抜けするほどに、穏やかで心地よいものだった。




