1話 結婚する前に逃げる準備しています
私、アニエス・フォン・ヴァルモンは、侯爵家の五人兄妹の末っ子で、三女として生まれた。
父は侯爵家当主。母は由緒ある伯爵家の出身で、私には二人の姉がいる。貴族令嬢としては、不自由のない暮らしだったと思う。
食べるものに困ったことなんて一度もないし、おねだりすれば大抵のものは手に入った。
何より、跳ねっ返りで生意気な私にも、それなりの教育をきちんと受けさせてくれた実家には感謝している。
――だからこそ。
私は、自分がいずれ迎える「結婚」というものについて、ずっと少しだけ疑問を抱いていた。
きっかけは、姉たちだった。
結婚すれば、好きな人と毎日一緒にいられる。小さい頃の私は、そんなふうに思っていた。
『お姉様、とっても綺麗!』
『ありがとう、アニエス。あなたも大きくなったら、きっと素敵な結婚ができるわ』
『本当?』
『ええ』
私はそれを信じていた。
――あの日、あの光景を見るまでは。
長姉が伯爵家に嫁いで三年ほど経った頃。
私は母に連れられて、久しぶりに姉の嫁ぎ先を訪れていた。
夕食の席で、私は向かいに座る姉夫婦の様子を眺めている。
「お帰りなさいませ、あなた」
「ああ」
「本日は遅かったのですね」
「仕事だ」
「そうですか」
姉がにこりと笑う。
そこで会話が終わった。
私は小さく瞬きをした。
……あれ? もっとお話ししないのかしら。
今日は何をしていたとか、明日は何をするとか、そういうことを話すものではないの?
やがて義兄が口を開いた。
「来週の夜会だが、私は欠席する」
「……承知しました」
「君は出てくれ。夫人として顔を出す必要がある」
「はい」
姉は素直に頷いた。少ししてから、ためらうように尋ねる。
「あなた。最近、お帰りが遅い日が続いておりますけれど……」
「仕事が忙しい」
「そう、ですのね」
「何か問題でも?」
「いいえ。どうかお身体にはお気をつけて」
「ああ」
また終わった。
私は食事の手を止めた。
……やっぱり変。
お姉様、旦那様のことが嫌いなのかしら。
でも、嫌いなら、どうしてあんなに優しく笑うの? 旦那様も、お姉様のことが嫌いなの?
なら、どうして結婚したの?
子供だった私は、そんな疑問をいくつも抱えた。
けれど、大人たちは誰も何も言わない。それどころか、二人は社交界では「仲睦まじい夫婦」として扱われていた。私は少しだけ寂しくなった。結婚したら、もっと幸せになれると思っていたのに。
* * *
それから数年後。今度は次姉の嫁ぎ先を訪ねたときのことだった。
ある日の午後、姉の部屋の前を通りかかった私は、中から聞こえてきた声に足を止めた。
「今夜はマルグリット嬢と食事をする」
「……そうなのね」
「何か問題でも?」
「いいえ。どうぞ楽しんでいらして」
「ならいい」
扉が開き、義兄が出てくる。
私と目が合った。一瞬だけ気まずそうな顔をしたものの、そのまま通り過ぎていった。
私は部屋に入った。
「お姉様……」
「まあ、アニエス。どうしたの?」
「……悲しくないの?」
姉の顔から、笑みが消えた。けれどすぐに、いつもの優しい顔に戻る。
「大丈夫よ」
「本当に?」
「ええ。本当よ」
姉は私の髪を撫でた。その手が、ほんの少し震えていた。
私は何も言えなくなった。そして、その夜。侯爵家へ戻り、自分の部屋のベッドに入ってからも、姉の顔が頭から離れなかった。
大丈夫。そう言っていた。でも、あんな顔をしているのに?
私は枕を抱きしめた。
「……結婚って、こんなものなの?」
誰に聞くでもなく呟いた。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
―満員電車の息苦しさ。駅のホームのアナウンス。冷めたコンビニのコーヒーと、深夜までチカチカと光るパソコンの画面。……え? 残業?
何これ???
*
『今日も疲れた……』
『三十過ぎたし、そろそろ結婚を考えたほうがいいのかな』
『でも、変な男と結婚するくらいなら、一人のほうが楽じゃない?』
知らないはずの記憶が、一気に押し寄せてきた。 私は、日本という国で生きていた。会社員だった。二十代も終わりに近づき、三十歳が見えてきた頃。仕事をして、友達とご飯を食べて、恋愛もして。
そして――死んだ。
「……え?」
自分の口から、幼い声が漏れた。しばらく何も考えられなかった。
前世。今世。
二つの人生が、頭の中でぐちゃぐちゃになる。けれど、やがて私はひとつのことを理解した。ここは、前世とはまったく違う世界。
身分があって、家同士の都合があって、女は結婚相手を自由に選べない。そして。夫に愛人がいても、「貴族なら仕方ない」で済まされる。
……。
いや、待って、それ普通に嫌なんだけど。
前世の私は、別に結婚反対派ではなかった。好きな人と一緒に暮らすなら、それは素敵だと思う。でも、好きでもない男のために、愛人との修羅場に巻き込まれる結婚なんて、真っ平ごめんだ。
結論は一つ。そんな人生、絶対に拒否する!私は布団の中で、ぎゅっと目を閉じた。
* * *
そして翌朝。父から、私の婚約者について聞かされた。
「アニエス。お前の婚約が決まった」
「まあ……どなたですの?」
「レイナード公爵家の嫡男だ」
公爵家。名門中の名門。
普通なら、令嬢として喜ぶところなのだろう。私は一応、笑顔を作った。
「まあ。素敵なお話ですわね」
「そうだろう」
父は満足そうに頷いた。けれど、私は少し気になった。
「……それで、その方はどんなお人柄ですの?」
「レイナードか?」
「はい」
父は少し考えるように顎に手を当てた。
「まだ若いが、頭は悪くない。公爵家の跡取りとしての自覚もあるようだ」
「そうですの」
「領地のことにも関心を持っているし、父親の仕事を手伝っていると聞いている。社交だけに明け暮れるような男ではないらしい」
思っていたより、まともそうだった。少なくとも、何も考えず遊び回っているような人ではないらしい。
「では、とても評判のよい方なのですね」
「まあ……そう一言では言えんな」
父の声が少し曇った。私は首を傾げた。
「何かございますの?」
「若い男だからな。少々、女性関係の噂がある」
「女性関係……?」
「ああ」
父は困ったように息を吐いた。
「……セリア、という子爵家の娘だ。幼馴染のようなものらしいが、どうにも……少しばかり、親密すぎる間柄だという噂があってな」
「……恋人、ということですか?」
「おそらくな」
私は黙った。父は続ける。
「ただ、レイナード本人が遊び人というわけではないようだ。むしろ一人の女性に執着している、と見る者もいる」
「……一人に?」
「ああ。だから余計に面倒なのだろう」
父は苦笑した。
「公爵家の嫡男ともなれば、自分の気持ちだけで結婚相手を決めるわけにはいかん。本人もそれは分かっているはずだ」
「では、その方とは婚約を機にお別れになるのですか?」
「まあ……そのうち整理するだろう」
「そのうち」
「そうだ」
私は心の中で、そっと頭を抱えた。
出ました。貴族版「そのうち」。そのうちって、いつ? 結婚式の前日? それとも結婚してから?まさか私と結婚したあとも続くんじゃないでしょうね。
私は一応、平静を装って尋ねる。
「……お父様は、そのレイナード様との婚約を、どうお考えですの?」
「悪い話ではないと思っている」
「そうですのね」
「公爵家との縁は、我が家にとっても大きい。何より、本人が跡取りとしての責任を理解しているのなら、いずれ良い当主になるだろう」
父の言葉には、レイナードへの一定の評価が感じられた。
つまり。
悪い男ではない。仕事もする。家の責任も理解している。
ただし――女が一人いる。
私は黙って紅茶を飲んだ。
……うん。
それでも無理。これは無理だわ。
恋人がいること自体は、まあいい。問題は、そんな状態の人と結婚すること。
私が妻になって、彼には愛人がいて。私は公爵夫人として振る舞いながら、その女性との関係に悩まされる。
そんな未来、目に見えている。
前世の会社員生活で、私は「問題は大きくなる前に対処する」ということを学んだ。ならば今のうちに対処すればいい。
私はカップを置いた。
「……よし」
「何がだ?」
「いいえ。何でもありませんわ、お父様」
にっこり笑う。
そして自分の部屋へ戻るなり、机に紙を広げた。そして、一番上に、大きく書く。
『国外逃亡計画』
「まず、お金」
侯爵令嬢の身分を捨てる以上、実家からの援助は期待できない。宝石は換金できるけれど、持ち出しすぎれば怪しまれる。
「次に、身分証……これは難しいわね」
そして語学、地図、安全な街道、港、宿、逃亡先で働く方法。私は次々に項目を書き出していく。
……我ながら、仕事が早い。
前世でも、退職を決めたときは引き継ぎ表を作るのが一番早かった。今回は退職ではないが人生そのものからの転職だ。
「大丈夫。ちゃんと準備すれば、きっと何とかなるわ。私は小さく頷いた。
そして、まだ白紙の地図を一枚、机の上に広げる。
「さて。どこの国へ逃げようかしら」
こうして私の、人生をかけた国外逃亡計画が始まった。




