13話 ラストダンスはあなたと
王都へ戻って数日。
領地での視察を終えたアルヴィン様と私は、再び慌ただしい王都の日常へと戻っていた。
公爵領での視察は無事に終わり、アルヴィン様は早速、持ち帰った資料を元に今後の改革案をまとめ始めているらしい。
私もいくつか資料を預かり、空いた時間に目を通していた。
けれど、以前と同じ景色を見ても、私の中にはもう、少し違ったものが映っている。 領地で実際に目にした薬草畑や、研究施設で交わした議論、そしてそこに息づく人々の暮らし。
そして――夕暮れの小さな店で、アルヴィン様から贈られた小さな指輪。
あの指輪は、今も大切にしまってある。ずっと指に嵌めているわけではないが、それでも、ふとした瞬間にあの日アルヴィン様が私の手を取ったことを思い出す。
彼は私の未来を勝手に決めるのではなく、私自身がどうしたいのかを待ってくれている。
*
そんなある夜。
私は、公爵家の侍女たちに囲まれていた。
「アニエス様、とてもよくお似合いです」
鏡の中に映っているのは、いつもの私とは少し違う姿だった。
淡い紫を帯びた柔らかな色のドレス。光を受けると、ごく薄い銀色が浮かび上がる上質な生地で、胸元から腰へ流れるラインはすっきりとしている。
飾り立てるのではなく、細かな刺繍が裾や袖口にだけ施されていた。動くたびに生地が静かに光を返す。
可憐さを残しながらも子どもっぽくはない。公爵家の婚約者として人前に立つのにふさわしく、それでいて私らしさを失わない装いだった。
首元には深い緑色の宝石をあしらったネックレス。耳元にも同じ石のイヤリング。そして指には、揃いの宝石が嵌め込まれた正式な指輪。
アルヴィン様から贈られたものだった。
深い緑。彼の灰緑色の瞳を思わせる色。
領都の小さな店で、見つけた指輪が二人だけの優しい思い出なら、こちらは公爵家の一員として、これから人前に立つためのものだ。
鏡の中の自分を見つめ、私は小さく息を吐いた。
今夜は、王都でも特に格式の高い夜会が催される。婚約そのものは、すでに決まっているため、公爵家の後継者であるアルヴィン様と、その婚約者である私の姿を、社交界に改めて示す、正式なお披露目の夜だった。
(……大丈夫)
私は鏡の中の自分に言い聞かせた。
緊張していないと言えば嘘になる。けれど以前の私なら、この場からどう逃げるか、どう国外へ出るか、どうすれば自分の人生を自分だけのものにできるかを考えていただろう。
今も、私は自分の足でどこへでも行ける。ここを離れて、別の人生を選ぶことだってできる。
それでも――私は今夜、このドレスと宝石を選び、この場所へ向かおうとしている。
「お迎えに参りました」
扉の外から声がした。
侍女が扉を開ける。
そこに立っていたアルヴィン様を見た瞬間、私は一瞬だけ言葉を失った。
艶のある黒髪を後ろで束ね、夜会用の正装に身を包んだ彼は、いつも以上に公爵家の後継者らしい威厳と流麗さを纏っていた。
けれど、灰緑色の瞳が私を見つけた瞬間、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。
「……綺麗だ」
短い言葉だった。けれど、彼があまり飾った言葉を使わないことを、私はもう知っている。
「ありがとうございます。アルヴィン様も、とても素敵ですわ」
「ありがとう」
彼は私の前まで歩いてきて、手を差し出した。その手を見つめ、私はほんの一瞬だけ、あの日の問いを心に浮かべた。
――私は、どうしたいのか。
私は自分の手を、その上に重ねた。
「参りましょう」
「うん」
大広間には、すでに大勢の貴族たちが集まっていた。
音楽が流れ、シャンデリアの光が煌めいている。色とりどりのドレス、礼装に身を包んだ紳士たち、交わされる挨拶と穏やかな笑い声。
私たちが姿を見せると、いくつもの視線がこちらへ向けられた。
けれど、アルヴィン様の手は自然に私の手を支え、強く引くわけでも、先導するわけでもなく、ただ、隣にいてくれる。
「緊張している?」
小さな声で尋ねられる。
「少しだけ」
「俺もだよ」
「まあ」
思わず笑ってしまった。
「アルヴィン様でも緊張なさるのですね」
「俺だって人間だからね」
真顔で言うものだから、私はまた小さく笑った。
*
----ふと、人の波の向こうに見覚えのある姿を見つける。
それは、淡い金髪と明るい緑の瞳を持つ、セリア様だった。
彼女は、快活に笑うどこかの貴族男性の隣に立ち、何かを話しながら穏やかに微笑んでいる。
こちらに気づいたのか、一瞬だけ視線が重なった。
けれど、セリア様がこちらに来ることはなかった。私も静かに会釈をし、彼女も遠くから同じように返してくれた。
それだけだった。
隣のアルヴィン様もセリア様に気づいたようだったが、もう振り返らない。その横顔を見て、私は理解した。
終わったのだ。
誰かに無理やり終わらせられたのではない。彼自身が、自分で過去に区切りをつけたのだ。そして私は、もうその過去を恐れる必要がない。
夜会が進み、人々との挨拶も一段落した頃、私はアルヴィン様に誘われて広いバルコニーへ出た。
夜風が頬を撫でる。
王都の街並みが眼下に広がり、遠くまで灯りが続いていた。
「少し、休もうか」
「ええ」
しばらく二人で黙って夜景を眺めた。
やがてアルヴィン様が、静かに口を開く。
「アニエス」
「はい」
「領地で君と過ごして確信した。俺は、君と歩きたい。義務や形だけの婚姻ではなく、君が自分で選ぶ人生の中に、俺を置いてほしいんだ」
そこで一度、彼は私を見る。
「君と一緒に、この先のことを考えていきたい」
胸の奥が、ゆっくりと熱くなっていく。
「俺は、君にここにいてほしい。でも、君をここに縛りつけたいわけじゃない」
灰緑色の瞳が、まっすぐ私を見た。
「君が自分で選んだ人生を、俺は尊重したい。そのうえで――俺は、君と歩きたい」
その言葉に、胸の奥に残っていた迷いが静かにほどけていった。
私は彼の前に立つ。
「アルヴィン様」
「うん」
「私は、誰かの所有物になるつもりはありません」
「分かってる」
「あなたの言うことを、何でも素直に聞くような妻にもなれないと思います」
「……それも、分かってる」
少しだけ苦笑する彼を見て、私も笑った。
「意見が違うときには、きちんと申し上げますわ。あなたが間違っていると思えば、そうお伝えします」
「頼もしいな」
「もちろんです」
私は胸を張った。
「その代わり――私も、あなたの隣に立つ人間として、自分にできることをしたいと思っています」
領地で見た現場の課題、これから構築すべき医療インフラや薬の流通の仕組み。公爵家が背負うものは、きっと私が想像していたよりずっと大きい。
「あなたが公爵家の未来を背負うのなら、私もその隣で、自分にできることをしたいのです」
アルヴィン様はしばらく黙っていた。
やがて、柔らかく笑う。
「……それなら、俺も君の隣にいるよ」
「ええ」
「一緒に考えて、一緒に迷って」
「はい」
「必要なら、喧嘩もして」
「それは……ほどほどにいたしましょう」
思わず二人で笑った。その笑い声が夜風に溶けていく。
「アニエス」
「はい?」
「もう一度、聞いてもいいかな」
私は彼を見る。
「君は――どうしたい?」
今度は、迷わなかった。
「私は……あなたの隣にいたいと思っています」
アルヴィン様の目が、わずかに見開かれた。
「この先、意見が合わないこともあるでしょう。困ることも、きっとありますわ」
「うん」
「それでも、あなたと一緒に考えて、一緒に進んでいきたいのです」
彼は何も言わず、ただ私を見つめていたが、やがて、そっと手を差し出す。
「アニエス――一曲、踊ってくれるか?」
「もちろんですわ」
大広間から、ちょうど新しい曲が流れ始めた。
私は彼の手を取り、バルコニーへ続く広い空間で踊り始める。夜風にドレスの裾が揺れ、深い緑の宝石が月明かりを受けて小さく輝いた。
アルヴィン様の手が、優しく導く。私はその動きに合わせて、一歩を踏み出す。
以前は、ここから逃げ出すことばかり考えていた。けれど今は、この人と同じ景色を見ていることが、こんなにも自然に感じられる。
私は、どこへでも行ける。ここを離れることもできる。
それでも、自分で選んだのだ。
この人の隣に立つことを。誰かに決められた未来ではなく、自分自身で選んだ未来を。
「アニエス?」
「はい?」
「何か嬉しそうだね」
「……そう見えますか?」
「見えるよ」
私は少しだけ笑った。
「ええ、私、嬉しいのですわ」
夜空の下、音楽に合わせて二人でゆっくりと踊る。
もう、逃げなくてもいい。
私が自分で選んだ場所だ。ここは誰かに強制された檻ではない。
ステップを踏みながら、私は隣の頼もしいパートナーと共に、これから始まる未来を思い描いていた。




