69.
「……本当に?」
脳裏で言葉が響く。これは遠い記憶の中に残る母の声だ。
「本当に『愛』じゃないの?」
そのはずだ。だって私は誰かをそういう意味で愛したいとは思えない。
私は母のようにそういう感情に振り回される哀れで可哀想な人間になどなりたくない。義母や義妹のように愛に溺れて傲慢で醜い存在になどなりたくないのだ。
そこまで考え直したところで、ふと私が崖から落ちていく時のクラウスの顔がフラッシュバックする。それを見て考えたことを思い出す。私、彼を残して死にたくなかったな。あんな悲しい顔をさせたくなかった。
「友人の関係性でそこまで思う?」
だって初めての友達だから。悲しませたくないのは当然だろう。それにクラウスは信頼できる友人が少ない。だからこそ放っておけないのだ。
「そう。じゃあ、信頼できる人が彼に出来れば貴女も安心ね」
母の声がそう囁いたと思ったと同時に目の前の景色が切り替わる。
遠くで鐘の音が響く。
周囲が滲み、祝福の声と花吹雪が舞う。ここは教会のようだ。そしてこれは誰かの結婚式だろう。参列者が所狭しと並んで朗らかな表情で拍手をしていた。
しかしながら私は誰かの結婚式に出席などしたことがないはずだ。これはどの記憶が呼び覚まされているのだろうかと観察を続ける。すると、見知った姿がこちらに歩いて来た。
真っ白なタキシードを纏ったクラウスだ。いつもの鎧とは違って、その姿は柔らかで紳士な印象を与える。そして髪の毛をオールバックにしているのも雰囲気が一変して格好良いと思った。そして何よりも、とても幸せそうな表情をしていた。
彼は近付いて、私に手を伸ばしてきた……と思ったのだ。
「行こう、――――」
しかしその手は私をすり抜けて、私の背後に伸ばされる。
後ろを見ると、私の知らない名前、そして姿の女性がそこに居た。
そしてクラウスの方に駆け寄り、彼はそのまま腕を見知らぬ女性と組んで、私には一瞥もくれずに進んでいってしまった。
何故だろう。友人が幸せそうに微笑んで、隣には大切なのであろう人が寄り添っていて……。とても喜ばしいはずの光景のはずなのに、友人としては喜ばなければならないはずの光景なのに。
私はそれを見て、地面が割れて落ちていくような感覚に感覚に陥った。心臓が痛んで、胃の奥がキリキリと音を立てて軋む。空気が上手く吸えないようで身体が息苦しい。
「ねえ、今、どんな気持ち?」
また母の声が私の耳の奥で響く。
答えることが出来ないくらいには最悪な気持ちだ。
「友達が幸せそうで、信頼できる人も貴方以外に出来て、貴女も嬉しいでしょう?そう言っていたものね」
何も答えられなかった。
何故私は今、友達の幸せそうな姿を見て、こんなにも苦しんでいるのだろうか。
理解できない、理解できない、理解できない。こんな感情、私は知らない。
「……貴女は私の娘だもの。誰かを愛さないなんていうのは強がりでしかなかったのよ。貴女は、あの男の子が好き。愛している。隣を譲りたくないくらいに。貴女もやっと『愛』が分かったのね。私と一緒。ほら、幸せでしょう?」
息が止まった。
母の言葉は私の心の中心を射ていた。しかし最後は違う。幸せとは真逆の感情。不幸、そして最上級の嫌悪感。
私は今、友達だと言って大切だと思っていたはずの相手に懸想している。それを自覚すると、自分の全てが嫌で嫌で仕方がなくなって、いつの間にかうつ伏せで泣き叫んでいた。




